第5話 春風、嫋やかに(2)

 肩を並べて電車に揺られ、林檎嬢と俺は一路東京を目指す。

 ナナの身体になってから初めての本格的な外出だ。車窓を流れる春の景色を俺が飽きもせず眺めていると、林檎嬢が横からくいくいと俺の上衣カットソーの裾を引いてきた。


「楽しい? なぁちゃん」

「ええ。桜の美しさは、昔も今も変わりませんね」


 俺がマスク越しに言うと、同じく口元を覆うマスクの下で、彼女がくすりと微笑んだのがわかった。

 ちなみに、このマスク一つ取ってみても、針金が入っていてぴったり鼻の形に合うという優れ物で、こういうものを大量生産・大量消費できるこの時代の技術と豊かさには驚かされる。


「でも、ちょっと意外。今のなぁちゃんなら、電車にももっとビックリするのかと思った」

「いえ……むしろ逆ですよ」


 人前で「大和ナナ」を演じるにあたり、俺はひとまず、人目のあるところでは林檎嬢に敬語で話すことにしていた。この時代の女子の自然な口調を一朝一夕で身に付けるのは難しく、さりとて男言葉のままでは不自然だからだ。その点、仮にも林檎嬢はナナの先輩なのだから、敬語で話しても周りからヘンには思われまい。


「そのスマホなどと比べると、電車は昔と大きく変わってなくて落ち着きます。なんというか、理屈の分かるものがあるというのはいい」


 俺は彼女の手の中のスマホを指して言った。動画装置だと思っていたが、写真に加えて何やら文書や手紙の記録まで表示できるらしい。中身を取り替えているところを一度も見たことがないが、あの小さな機械の中に一体どれだけのフィルムが詰まっているのだろうか。おまけにバッテリーやスピーカーまであのサイズに収まっているというのだから、技術の革新にもはや恐怖すら覚える。

 それに比べて電車はいい。性能は当然上がっているのだろうが、原理も見た目も俺の頃とほとんど変わらない。


「あれ? でも、昔の電車ってトーマスみたいなのじゃないの? えっと、ホラ、蒸気機関車ってやつ」

「トーマスが誰かは知りませんが、戦前の日本にも汽車じゃない電車はあったんですよ。東京には市電や地下鉄もありましたしね」

「ふぅーん。シデンってなに?」

「街中を走る小さめの電車のことです」

「……あ、路面電車?」

「多分それでしょう」


 俺が言うと、林檎嬢は「いぇい」と嬉しそうに拳を握った。

 この数日で色々と話した限りの感触では、どうも、俺がこの平成の時代のことを知らないのと同じように、彼女も俺の時代のことはほとんど知らないらしい。まあ、俺だって自分の時代の七十年前……明治初頭の人々の暮らしを詳しく知っているわけではないので、そんなものなのかもしれないが。


「あ、そうだ! じゃあ、もっと喜びそうなもの見せてあげる」

「?」


 林檎嬢の目がにまりと笑ったとき、ちょうど、車内放送が次は東京駅と告げた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 東京駅で山手線に乗り換えと聞いていたが(路線図を見たら山手線が昔と変わらなくて驚いた)、林檎嬢は予定を変更して一旦改札を出ると言った。

 俺は黙って彼女に従うだけである。スイカという精算券を無人改札機に触れさせると、ここまでの運賃が預金から差し引かれた旨が改札機の画面に電光表示された。横浜に出るまでの私鉄の駅でも既に見たが、分かるようで分からない仕組みだ。


(要は、銀行の口座みたいなものだとは思うが……)


 この券で個人を識別して(だから誰何すいかというのか?)、乗降の記録を帳簿に自動書記して残金を管理しているのだろう。しかし、無数に乗り降りする乗客の情報を駅間で即座に共有するとなると、一体どれだけの電信網が必要になるのか……?


「なぁちゃん、こっちこっちー」

「はい」


 林檎嬢が振り返って手招きしてくる。今日の彼女は、ショートパンツといって、脚を大きく露出したズボンを着用していた。公演の動画で目を慣らしたとはいえ、なかなか直視しがたいものがある。

 対する俺の服装は、白系のカットソーに、裾の広がったワイドパンツというズボンである。病室のワードローブから林檎嬢に組合せコーディネートを見繕ってもらったのだが、このズボンはニッカーボッカーのようだと言ったら少し怒られた。


「昔の東京も人は多かったですが、今はそれ以上ですね」

「んー? まあ日曜だからねー」


 トテトテと歩く林檎嬢に付いて行き、まるうち口を出る。途端に彼女はくるりとターンして、両腕を広げた。


「じゃあん。昔の東京駅と同じでしょ!」

「……ほう」


 振り向いた俺の目に映るのは、ドーム状の屋根を備えたレンガ造りの荘厳な駅舎だった。俺の記憶にある東京駅の姿、そのままである。


「懐かしいな……」


 忘れもしない昭和十四年冬。まさにこの場所で、東京の養親おやや近所の人達に見送られ、俺は兵学校のある広島へと旅立ったのだ。

 俺はしばらく感慨深く駅舎を見上げていた。林檎嬢も「ふふん」としたり顔だ。「自分を戦前の軍人と思い込んでいる大和ナナ」をちゃんと喜ばせようとしてくれる彼女の心遣いが、俺も嬉しい。


「ありがとう、いいものを見せてもらいました。……しかし、こんなに綺麗に残っていたとは驚きです。東京にも空襲があったんじゃないんですか?」

「あ、ううん、これは最近建て直したの。ずーっと工事してたもん」

「……そうでしたか。まあ、そうか、そのまま残ってるわけないですよね……」


 あれから七十余年を経たにしては綺麗すぎると思ったが、そういうことだったか。

 そういえば、俺の家があった辺りはどうなっているんだろうな。機会を見つけて一度訪れてみたいものだが……。


「せっかくだし、このへんでランチしていこっ。アキバだと人目に付いちゃうし」

「そうですね」


 林檎嬢がふんふんと楽しそうに歩き始めるので、俺も歩調を合わせて隣に付いた。

 駅構内に戻って少し行くと、多くの飲食店が並ぶエリアがあった。休日の昼時ということもあり、どこも賑わっている。


「何か食べたいものある? お洒落なカフェとか色々あるよー」

特殊喫茶カフェー? いや、そういう店は私は……あっ」


 そこでふと、カレーと書かれた看板が目に留まった。ライスカレーを専門に出す店のようだ。店頭のメニュー写真も俺の知るカレーと同じだった。


「ライスカレーがいいですね。ライスカレーにしましょう」


 俺が主張すると、林檎嬢もくすりと笑って同意を示した。

 幸い、大人数の客が退店するのと入れ替わりになり、ほとんど待つことなく店に入ることができた。

 出火時の避難路をちらりと確認しつつ、小さな丸テーブルの席に着く。腕時計がないので店の時計を見ると、時刻はまだ十二時前。秋葉原の劇場公演は十三時半とのことなので、ゆっくり食事をしてから向かっても間に合うだろう。

 林檎嬢がチキンカレーのランチセットを注文したので、俺もそれにならった。となるライスカレーに俺が内心、胸を弾ませていると、彼女はそれを見透かしたように、楽しそうな上目遣いを向けてきた。


「なんだっけ? 海軍さんは毎週カレー食べてる的なやつ?」

「? 毎週食べていたわけではありませんが、どこの部隊でもカレーは人気の献立でした。特に、下士官や兵には洋食は珍しかったですからね」


 俺のペアの真島まじま御木本みきもともカレーは好きだった。士官と下士官で立場が違うので、公には一緒に食卓を囲むことはできなかったが、作戦行動中の機上ではそのぶん束の間の団欒だんらんを楽しんだものだ。


「とはいえ、航空弁当でカレーなど出された日には、揺れる機体の上では食べづらくて仕方なくて、味なんて分かったものではなく……」


 俺が滔々とうとうと語っていると、近くの席の客達から怪訝けげんそうな視線がちらちらと飛んでくるのに気付いた。そんなに大きな声で喋ってはいないのだが、ナナの声は思いのほか通りが良いらしい。


「……と、祖父が言っていました」


 こほんと咳払いして、俺はそう付け加えた。人前で俺自身のエピソードを語るときは、便宜上、祖父から聞いた話ということにして辻褄を合わせようと決めていた。

 くすくす笑う林檎嬢の前で、俺はちらりとメニューに目を落として話題を切り替える。念のため、それまでよりも少し声量を落とした。


「ランチセット千三百円というのは、高いですか、安いですか」

「んー、普通じゃない? 昔は幾らだったの?」

「百貨店の食堂のライスカレーが、確か二十五銭くらいでしたね」

「センってなに?」

「……一円の百分の一が一銭です」


 林檎嬢は目をきょとんとさせていた。今の日本には銭という通貨はないのか。確かに、一食の食事が千円を超すような物価のもとでは、通貨の最低単位は円で十分なのだろうな。


「当時、葉書が一枚二銭、鉄道の初乗り運賃が五銭でした」

「ふぅーん……。あれ、今の葉書って五十円だっけ?」

「だっけ、と言われても」

「え、葉書って五十円? 八十円? あれ、五十二円になったんだっけ?」


 林檎嬢は一人で首を傾げながら、スマホを出して何やら指先で操作している。流石に郵便料金の資料はそこに入ってないと思うぞ……。


「まあ、仮に五十円だとして、昔の二千五百倍ということですね」


 俺が言ったとき、彼女はぴょこんとスマホから顔を上げた。


「あ、わかった! 今の葉書、一枚五十二円だって」

「そんな資料まで入ってるのか!?」

「えっ。入ってるっていうか、ネットで調べただけだよ」

「ネットとは?」

「え? ネットとは……なんだろ、わかんない。あれ、ネットって改めて言うなら何? まあ、でも、大抵のことはこれで調べれるよ」


 彼女の差し出してきた画面には、確かに「日本郵便 はがきの料金」という文書が表示されていた。


「二十一世紀、恐るべしだな……」


 よくわからんが、百科事典のようなものがこの中に入っているのだな、と俺はひとまず納得した。この機械の本質は動画装置ではなく、大量の情報を持ち運ぶための容れ物なのかもしれないな……。

 病院の売店や談話室には書籍や雑誌もあったし、街には書店や図書館も健在だったが、これほどの技術があるなら、紙の本というものが世の中から駆逐される日もそう遠くないのかもしれない。

 そんなことを考えていると、二人分のカレーセットが到着した。洒落っ気の利いた皿にライスカレーが盛られ、美味そうに湯気を立てている。贅沢に大振りなチキンがごろごろと入り、俺の知る通りのカレーの匂いがした。お盆にはドレッシングの掛かったサラダの小皿と、氷入りのアイスティーも付いている。

 これで千三百円。葉書が二千五百倍なのに対し、カレーの値段は五千倍にもなっている。それだけ国が豊かになったということだ。


「美味しそう。じゃーあー、いただきますの前にー」


 林檎嬢は上機嫌でスマホを顔の前に構え、画面を覗き込むような動作をした。彼女が両手で持つスマホから、カシャッとカメラのシャッターのような音がする。


「? 今のは何をしたんですか?」

「んー? 写真撮ったの。モバメに載せようかなーと思って」

「……また、ご冗談を。それで写真が撮れるわけないでしょう」

「撮れるよ! 見る?」


 くるりと手をひるがえして彼女がスマホの画面を見せてくる。そこには確かにこの卓上のカレーが写っていた。ナナの手元までしっかり入っている。


「嘘だろ……」


 彼女からスマホを受け取り、裏返して見てみると、確かにレンズらしきものがあった。動画や写真を持ち運ぶだけでなく、まさか撮影自体もこれ一台で済ませてしまえるとは……。

 いや、そうなると、カメラこそがこの機械の本質で、撮影したものを内部に蓄積していくのは副次機能だったのか?


「……私は大きな勘違いをしていたようです。これは動画を見るための装置だと思っていましたが、本来はカメラだったんですね」


 俺がスマホを彼女に返しながら言うと、彼女は何やら悪戯っぽい目をしてきた。


「惜しいなー。もともとは電話だよ、これ」

「電話ァ!?」


 俺は今度こそ派手に声を裏返らせてしまった。スマート、ステディ、サイレントを旨とする海軍士官にあるまじき失態である。

 周囲の客達が変な目を向けてくる中、林檎嬢にひたすら恐縮しながら食べるカレーは、それでも大変に美味かった。

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