第5話 春風、嫋やかに(1)
『ハイ、なぁちゃんこと大和ナナです。わたしはお肉の部位だったらホルモンとコブクロと牛タンが好きです。今日も全力で行きます、よろしくお願いしまーす』
病室には春のうららかな日差しが差し込んでいる。俺の両耳に差したイヤホンからは、秋葉原エイトミリオンの劇場公演で歯切れ良く
俺は膝に置いた動画装置(スマホと言うらしい)の画面に指で触れて動画の再生を止め、片耳のイヤホンを抜いて、ベッドの傍らの椅子に腰掛ける林檎嬢に問いかけた。
「林檎さん」
「はぁい?」
「ホルモンとコブクロと牛タンというのはそれぞれどんな肉だ?」
彼女は手元の
「ホルモンって内臓だよね。牛タンは牛の舌でしょ? コブクロは……ちょっとわかんない」
「そうか。この動画の中で、ナナが好きだと言ってるんだが……」
「あぁ。みんな色々言ってたよねー。わたし何言ってたっけ?」
彼女が身を乗り出してくるので、俺はスマホからイヤホンを抜き、音が外に出るようにした上で動画を再開させた。
それにしても、画面を指で触れることがスイッチの代わりになる原理は何度考えてもさっぱり分からない。これでも電気回路や電子工学の基本は一通り習ったのだが、この時代の科学技術は俺からすると魔法のようにしか見えないな……。
『あなたの真っ赤な焼きりんご! 光島林檎でーす』
スマホの中で林檎嬢が明るく声を弾ませる。ステージでの立ち位置上、ナナのすぐ後に喋るのは彼女だった。
『わたし、お肉はあんまり得意じゃないんですけど、ホルモンと軟骨は大好きなんですよね。あと今
「あー、そうだそうだ、わたしこんなこと言ってた」
「キムチーズとは?」
「んー。今度食べに行こ。美味しいよ」
「そうだな」
優しく笑ってくれる林檎嬢に笑い返し、俺は再びイヤホンを差した。傍らに置いた、林檎嬢手書きのプロフィール一覧と見比べながら、残りのメンバーのMCに引き続き耳を傾ける。
チーム・クアルトの公演動画をもういくつも観たが、同じ演目でも出てくる顔ぶれは毎回少しずつ異なっており、曲間のMCで語るテーマも日によって変わるようだ。この時のテーマは焼肉の好きな部位、だそうだが。
(「焼肉」というのは贅沢な部類の外食らしいが……それにしては……)
若い女子達が皆、嬉々としてカルビが好きだのレバーは苦手だのと語っている。人によって好みは異なるものの、全員そんなものは食べ慣れているといった風情だ。
皆が皆、ナナのような金持ちの生まれということもないだろう。戦後日本は高度経済成長期を経て飽食の時代を迎えたというが、なるほど、一般市民がいつでも外食で肉料理にありつけ、若い娘さんがその好き嫌いを語れるまでに、この国は豊かになったということか……。
(……いい時代だ)
航空増加食の生卵一個と牛乳一本を有難がっていた現場の下士官達や、満足に食べられないのが当たり前だった銃後の人々のことを思えば、平和という言葉の重みを噛み締めずにはいられない。
油断するとこみ上げそうになる嗚咽を胸中に押しとどめ、俺はそっと動画を止めた。ふうっと息を吐いて、再び林檎嬢に顔を向ける。
「よし、チーム・クアルトのメンバーは覚えたぞ。試験してくれ」
「えっ、もう!? 早くない!?」
彼女は目を丸くしながら、ぱたんと帳面を閉じ、俺の差し出すスマホを受け取った。その目が「信じられない」と言っている。俺は自信を見せるようにふふんと笑い、身体を彼女に向けて居住まいを正した。
「じゃあ、はい、この人は!」
林檎嬢がスマホの画面を突き出してきた。私服姿の女子の写真が映っている。公演とは格好が違うが、見紛うはずもない、垂れ目とふっくらした頬が特徴的なチーム・クアルトの現キャプテンである。
「チームキャプテンの
俺がすらすらと述べると、林檎嬢は「えっ」と目をぱちくりさせた。
「えっ、まって、ヤマかけてキャプテンだけ覚えた?」
「そんなことするか」
「じゃあ、この子は?」
すかさず次の写真を出してくる彼女に、俺は間髪入れず答える。
「
「……えええ、じゃあ、この子は!?」
「
「ウソでしょ! なんでそんなすぐ覚えれるの!?」
試験官殿が出題を放棄して騒ぎ始めるのに、俺は苦笑いした。
「まあ、このくらいはな……」
実際、二十人足らずのメンバーの顔と名前を覚えるくらいは、俺にはそれほど難しいことではなかった。兵学校の三号生徒……つまり最下級生の頃には、上級生の顔と名前を覚えたかどうかをよく試験され、万一答えに詰まればすぐさま鉄拳修正が飛んできたものだ。
「むー、なんか悔しいっ。早く覚えれるのはいいことなんだけど……。あ、じゃあコレは?」
林檎嬢が何やら含み笑いをしながら出してきた写真には、赤青黄の極彩色のドレスを着た彼女自身が写っていた。
「君じゃないか。何だ、この格好は」
「あ、ちゃんとわたしだってわかるんだ。白雪姫の仮装だよー」
「白雪姫というのは?」
「えっ、知らないの!? アニメの、っていうか、おとぎ話の白雪姫だよ!?」
彼女はびっくり仰天した様子で俺を指差してくる。暗記の出来栄えよりも、白雪姫とやらを知らないことの方がよほど驚きであるらしい。
「ホラ、イジワルな
「なんだ、グリム童話の
グリム童話集なら英語とドイツ語で読んだことがある。明治の昔から子供向けの邦訳も多く出ていたから、当時の子供もその童話はよく知っていた。
「もう。そうやってすぐ『俺の時代にはなかった』で誤魔化すんだからー」
「いや、俺の知ってる邦題と違うだけだ。俺の頃は、『
「ふぅん……?」
林檎嬢は不思議そうに首をかしげていた。ちなみに、俺がナナの身体に入ってから数日を経た今でも、彼女は俺のことを「記憶喪失になって昔の軍人のふりをしている大和ナナ」だと信じ切っているらしい。
例の女医の診断によれば、今の
「……ところで、一つ気になるんだが」
話が白雪姫のことに逸れてしまったのを引き戻し、俺は尋ねた。
「チームには第十期の先輩もいるのに、十二期の鹿嶋先輩がキャプテンをやってるのは、総選挙の順位が理由なのか?」
「え? ……んー、まあ、順位だけじゃないとは思うけど……」
林檎嬢はスマホを握って少し困った顔をしていたが、ややあって、要素を数え上げるように指を折った。
「もちろんキャリアもあるけど、握手人気とか、パフォーマンスとか、リーダーシップとか? そのへんはケースバイケースっていうか」
「ふむ……。年次が全てでもなければ順位が全てでもない、と」
「そんな感じ」
聞いている限り、海軍の人事に当たらずとも遠からず、という気がする。
海軍の士官社会では基本的に後輩が先輩を追い抜くことはなかったが、佐官の階級においては、抜擢進級といって、後輩の最上位グループが先輩の下位グループを抜いて進級することが行われていた。兵学校卒業時の席次が
言い換えれば、兵学校時代に頑張っておけば、将来、先輩を追い抜いて将官になれる道もあったということである。
「総選挙の順位は、やはりハンモックナンバーのようなものだよな……」
現状、チーム・クアルトで最も総選挙順位が高いのは、博多から兼任している
では、仮に本店生粋の後輩が今のキャプテンの順位を抜いたら、どうなるのか。
「仮に俺や君が先輩方より高い順位になったら、キャプテンになれるのか?」
「えー……んー……わかんないけど。なりたいの? キャプテン」
「今の俺には務まるはずもないが、正直、響きには憧れる」
俺は正直な気持ちを口にした。海軍では俗にケップと言ったが、
エイトミリオンにそういう名前の職位があると聞いて、興味が湧かないということはなかった。
「それに、何と言っても、本店の顔になれと
俺自身の興味はともかく、いつかこの身体にナナが戻ってきた時のために、少しでも彼女の地位を向上させておくことは今の俺の急務でもあるだろう。何しろ閣下に約束してしまったのだ。エイトミリオンのために死力を尽くすと。
「うん。なぁちゃんなら、その内なれる気がする」
にこりと笑って林檎嬢は言ってくれた。褒められているのは俺ではなくナナなのだが、何だか気恥ずかしい。
顔が熱くなるのを隠すように、俺は話題を変えた。
「ところで林檎さん、君の方はどうなんだ」
彼女の膝の上の帳面を指差す。林檎嬢は、あはは、と苦笑して帳面を開いた。
「あ、でも、結構覚えたと思うよ!
「ああ」
彼女が先程から暗記に励んでいたのは、俺が書き出した和文モールスの
これからナナを演じるにあたり、人前で急遽助け舟が必要になった時のために、彼女にモールスを覚えてもらえばいいと考えたのだ。正確には、彼女の方から、何か秘密の合図のようなものを一緒に考えられないかと提案してくれたのである。
女子ばかりの所帯なら平文のモールスだけで秘密通信手段としては十分だし、もしモールスを知っている者が他にいるなら林檎嬢には暗号術も教えればいいだけだ。
「ねぇ、なんでコレ、『うたがう』って書いて『うたごー』なの?」
彼女は身を乗り出して聞いてきた。なんで、と言われても。
「まあ、語呂合わせだからな。わかれば何でもいいんだ」
「じゃあ、『
「明治の著名な軍人の名前だな。陸軍の乃木大将と海軍の東郷
「あったけど覚えてないの!」
ぷくっと頬を膨らませた彼女に、思わず俺の口元は
普通の娘さんがいきなりこんなものを覚えるのは大変に決まっているが、嫌な顔一つせず
「あとあと、『
「一丈はおよそ三.〇三メートルだから、数十丈というと百メートル前後だろう」
「何が下降してるの? 人? 潜水艦?」
「いや、それは知らんが……俺は何となく
合調語による暗記など、習い始めの頃にやっただけなので、正直それ以上深く考えたことはなかった。少し慣れれば、語呂合わせなど飛ばして頭が勝手にトンツーを文章に変換するようになる。
「クーテーコーカってなに?」
「……まあ、いいから、覚えなさいよ」
「ちょっと覚えた!」
林檎嬢は得意げに言い、俺の目をじっと見てから、瞬きでサインを送ってきた。
「『カ・ワ・イ・イ』か」
「えっ、すごい! なんでわかったの!?」
「わからなきゃ通信できないだろう」
「じゃあこれは?」
先程より少し速く彼女が瞬きをする。
「そういう冗談はやめなさい」
「え、わかったの? 読めないくらい速く送ったのにー」
「君は俺を何だと思ってるんだ……」
さりげなく俺の手を握ろうとしてくる彼女の手をさっと避けて、俺は軽やかにベッドのシーツを指先で叩いた。
ソ・ロ・ソ・ロ・ユ・キ・マ・セ・ウ。
「え、まって、ムリムリ、わかんない」
「出かける頃合いだよ」
病室の時計は昼の十時。ここから秋葉原へは電車で一時間余りだというから、丁度良い時間だった。
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