第4話 アイドルの王者(1)

 爽やかな春の風が、後ろに束ねた俺の黒髪を揺らす。冷たい汗を運動着ジャージに染み込ませ、アスファルトの歩道を走る俺の足取りは軽快……

 ……と言いたいところだが、たった数kmキロメートル走っただけで息は上がり、胸は苦しく、足は棒のよう。耐えきれず俺は足を止め、両膝に手をついた。


「ハァッ、ハァッ」


 肩が上下するたび脇腹が痛む。ひたいを流れる汗がほおから首元を伝い、「大和ナナ」の身体の胸元へと下ってゆく。

 情けない。まだ厚木あつぎ飛行場の外周を半分も回っていないのに、もうこの有様とは……。


(ナナを恨んでも仕方ないが……この程度で息が切れるのか……)


 俺がこの身体になってから二日目。病院の医者からは軽めの運動の許可なら貰っていたので、体力測定を兼ねて少しばかり走ってみようとしたのだが、まさか女子の身体というものがここまで脆弱ぜいじゃくだとは予想外だった。

 兵学校伝統の弥山みせん登山マラソンでも音を上げなかったのが自慢の俺としては、思うように運動できないのは何とも心細い。いつかは本人に返すべき身体とはいえ、せめて俺がこの身体を使わせてもらう間は、筋力、持久力、肺活量……あらゆる基礎体力を徹底的に鍛え直さなければ。


「……はぁ、ふう」


 上がった息を整えながら、ジャージの袖で俺が顔の汗を拭ったとき、後ろから自動車の走行音が近付いてきて、俺のすぐ横で止まった。

 見れば、米海軍らしき四輪駆動車が歩道に横付けし、屋根なしオープンの運転席から青い迷彩服の米兵が身を乗り出している。


「大丈夫か? 可愛いお嬢ちゃん。俺達のジープに乗せてやろうか?」


 略帽りゃくぼうをかぶった米兵が気さくに英語で言ってきた。ジープというのはこの自動車の呼び名だろう。

 助手席にももう一人米兵の姿がある。二人とも下士官のようだ。俺はしっかりと姿勢を正し、彼らの母国語で答えた。


「お気遣いありがとうございます。しかし、それには及びません」

「息が上がってるじゃねえか。基地を一周する気かい? ちょっとムリがあるんじゃねえか?」

「病み上がりなだけです。前はもっと長い距離を走っていました」


 運転席の米兵がヒュウと口笛を吹いたところで、助手席のもう一人が口を開く。


「綺麗なクイーンズ・イングリッシュだな。イギリス帰りかい、嬢ちゃん」

「いえ。海軍兵学校ネイヴァル・アカデミーです」


 俺が言うと、二人は揃ってからからと笑った。


「聞いたかよオイ、このお嬢さんは士官様だとよ」

「最高じゃねえか。君みたいな可愛い女の子に命令されてみたいねえ」


 彼らがおどけて敬礼をしてくるので、俺も苦笑いとともに答礼した。


「頑張れよ、ネイビー・ガール!」

「貴官らも、お務めご苦労様です」


 パフパフと警笛を鳴らして走り去る彼らの車を見送り、俺はまた走り出す。


(……アメさんの兵隊というのは、気さくでいい連中だな)


 金髪に青い目をした彼らだって、敵味方に分かれさえしなければ共に笑い合える人間同士なのだ。

 彼らの祖父は俺の仲間を撃ち殺したかもしれないし、俺も彼らのご先祖様を海に葬ったかもしれない。だからこそ、この平成の世に生まれ変わった今、強く思える。彼らと殺し合わなくて済む時代というのは、いいものだ。


(しかし、クイーンズ・イングリッシュとか言っていたな……)


 今のイギリスは男の王ではなく女王が治めているのか。俺の時代から七十年以上も経っているのだし、社会にも色々動きがあったことだろう。

 ペースを落として走りながら俺は考える。秋葉原エイトミリオンや大和ナナ自身のことは林檎嬢やマネージャーから教えてもらえばいいとして、世の中のことは自分で勉強して覚えなければ。近くに図書館があればいいが……。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 はぁはぁと荒い息をつきながら何とか厚木基地の周りを走り終え、病室に戻ると朝七時だった。

 林檎嬢は朝一で来ると言っていたが、まだ姿が見えない。娑婆しゃばの女子の朝一というのが何時のことなのか、そういえば聞きそびれていたが、まあ軍隊より早起きということはないだろう。

 病院の朝食は七時半。先にシャワーを浴びることにする。風呂は好きだが、今の俺にとっては気の重い作業だ。


「許せよ、大和ナナ……」


 汗を吸ったジャージをシャワールームの外の床に畳んで置き、視線を上方に保って、ちちさえを外す。俺の時代には一般的ではなかった下着だ。ブラジャーとか言うらしい。二つに畳んだそれをジャージの上に置き、それから心を無にして残りの一枚を脱ぎ去る。

 看護婦から昨日聞いたところによると、入院患者の洗濯物は掃除婦が集め、電気洗濯機で洗うのだそうだ。我々士官は「日本男児たるもの、自分の女房以外にふんどしを洗わせるなどもってのほか」と言って褌を使い捨てにしていたものだが、林檎嬢曰く、少なくともこの時代の女子は下着を使い捨てたりなどしないらしい。

 手元で畳んだそれをさっとジャージの下にもぐり込ませ、俺はシャワールームに入った。正面に大きな鏡があることは知っているので、目を閉じたままである。昨夜の内に覚え込んでおいたバルブとコックを手探りで操作し(飛行機乗りにはその程度造作もない)、シャワーの湯を望む温度に調整する。

 文字通り湯水の如く流れ出るシャワーを頭から浴びて汗を落とし、どう考えても鏡が曇っただろうと思った頃合いで、ようやく俺は目を開けることができた。


「……はぁっ」


 溜息の一つも吐きたくなるが、視線は常に上方を保ったままである。シャワーを止め、真っ白なタオルに液体の石鹸を取り、泡立てたそれで全身を洗う。無かったものが有り、有るべきものが無い身体というのはどうしても慣れない。


(男が女の身体になるのと、女が男の身体になるのとでは、どちらが難儀するものだろうな……)


 そんなことを考えながら俺は足指の先までを洗い終え、再びシャワーのバルブをひねった。

 無尽蔵に溢れ出す熱湯が石鹸を洗い流していく。生前の俺からすれば信じられないほど贅沢な入浴だが、それを素直に楽しむことも許されない今の身が辛い。

 しかし、まあ、このくらいは当然の不具合として耐えねばならないだろう。いつか「大和ナナ」本人がこの身体に戻ってきたとき、自分の居ぬ間に知らない男が身体を好き勝手にしていたと知ったら気分が悪いに違いないだろうから。


(神か仏か知らんが意地が悪い……せめてナナの兄にでも生まれ変わらせてくれたらいいものを……)


 行水ぎょうずいを終えた俺は、身体を洗うのに使ったタオルの水を切り、壁の水滴を丁寧に拭き取って、最後に目を閉じて鏡を拭いてからシャワールームを出た。

 それから、清潔なバスタオルで身体を拭き、タオルを畳んで、新たな下着を穿く。続いて、病室のワードローブから見繕っておいたズボンを穿き、林檎嬢に昨夜教わった手筈でブラジャーとやらを身に付け、同じく見繕ってあったシャツを着る。

 時計を見ると七時二十五分。男の身体で入浴と着替えを済ませるのと比べて二倍以上の時間がかかってしまった。この上、濡れた髪をタオルでさらに拭き、ドライヤーという機械で乾かさなければならない。とかく女子の身体というのは身だしなみに時間がかかるものだ。

 ひとまず食事を先に済ませ、歯磨きをし、さて髪を乾かすかとドライヤーを持ったところで、ぱたぱたと病室の外から早歩きの足音が聞こえてきた。


「なぁちゃん、起きてる!?」


 扉をノックしたのは林檎嬢である。はい、と返事をするが早いか、昨日と違ったワンピースを着た彼女がからりと扉を開けた。随分と慌てた顔をしている。


「大変。お見舞いなのっ」

「おはよう。見舞いは断ってもらう手筈だったと思うが……」


 俺は昨日の内に、マネージャーの女性、そして女医と再度話し、「ナナ」が記憶喪失になったことは家族や秋葉原エイトミリオンのメンバー達にも内緒にしておくようにとお願いしていた。神仏の気紛れで今日明日にでもこの身体がナナに戻る可能性もあるのだから、なるべく事を大きくしない方がいいと考えたのだ。

 マネージャーもそれに同意を示し、俺が不自然なくナナとして振る舞えるようになるまでは、ナナを知る誰とも今の俺を会わせないという形で手筈がなされたはずだ。それなのに、昨日の今日で一体誰が見舞いに来たというのだろうか。


「そんなこと言ってられないよ。来てくれたの、スゴイ人だもん」

「凄い人とは?」

指宿いぶすきリノさん!」


 血相を変えて、彼女はその名を口にした。

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