第3話 予想外の筋書き(3)

「ふっふーん、チーム・クアルトのー、コーエンドーガをー、えいっ」


 鼻歌でも歌うような調子で林檎嬢は声を弾ませ、手にした薄い板の表面に何やら右手の指で触れていた。はて、一体何をしているのだろう、と俺が思った矢先、彼女はすっと板を俺の前に差し出してくる。

 瞬間、信じられないことが起こった。彼女の持つ板から、突然、『Eightエイト Millionミリオン!』と叫ぶ男の声と、重低音の音楽が流れ始めたのだ。


『Everybody! A live act never seen before――』


 どこからともなく溢れる音楽に乗せ、男の声が英語で何やら言っている。天下に名高きここ秋葉原に、貴様達のために芸を演じる天使達が舞い降りた――とか何とか。それに合わせて歓声を上げる観衆達の声までも聞こえる。


(一体これは何だ……どこにスピーカーがあるんだ……!?)


 俺は林檎嬢の手に収まったその板を覗き込み、さらに愕然とした。真っ黒だと思われた板の表面で、無数の黄色い光が揺れているのだ。よく見れば、そこには観客らしき後ろ頭が並んでおり、黄色い光は彼らの手にした棒から発せられているようだった。

 この小さな板は、音を出すだけでなく活動写真までも映す装置だったのか。


「まさかこれが、噂に聞くあの『テレビジョン』!?」


 昭和十一年、ベルリン・オリンピックの中継で全世界を騒がせたという、あの……。しかし、ここまで小型化が実現していたとは。


「いや、コーエンのドーガだって」

「何です、ドーガとは」


 公演は分かるが。動くだから「動画」というのか? 確かにテレビジョンの訳語としてはよく実態を表しているようだが……。


「いいから見てっ」


 林檎嬢が促した瞬間、男の声が「Are you ready!?」と一際大きく張り上げられた。一瞬の暗闇の後、鮮烈な光が閃いて、大勢の女子達の影が現れる。


「!」


 軽妙な音楽に合わせて女子達の隊列が散開し、一糸乱れぬ舞踏が繰り広げられる。観客らしき男達の声が、タイガーだのファイヤーだの、よく分からないことを一斉に叫んでいる。

 薄紫のスカートの衣装から伸びる女子達の生脚に俺が驚いたのも束の間、手持ち式のマイクロフォンのようなものを持った数人が大映おおうつしになり、そして歌唱が始まった。

 扇情せんじょう的な踊りに乗せ、俺の耳に彼女達の歌詞が流れ込んでくる。「嗚呼ああ、瞳交わす、それだけで女子は――。そう、心躍る、奈落に落ちるの」――。

 丸出しの腕を振り、極端に短いスカートをひらめかせて、入れ替わり立ち替わり歌い踊る若い乙女達。人数はぱっと見で十六人。その中には林檎嬢の、そして「大和ナナ」の姿もあった。彼女達の目には一様にぎらぎらした炎が宿り、歌と踊りにかける真剣さがこの小さな「動画」の中からでも伝わってくる。


「これが……『秋葉原エイトミリオン』……!」


 洗練を極めた彼女達の技芸に息を呑み、俺は今やその名の意味するところを悟っていた。「大和ナナ」が属する秋葉原エイトミリオンとは、歌劇を演じる芸能集団だったのか。

 あっという間に一曲目が終わり、観客達の歓声を挟んで、彼女達は続けざまに二曲目に突入した。客席に背を向けた姿勢から、くるりと反転し、柔らかく身体を動かしながら一人か二人ずつ歌詞を繋げていく。サビに入った瞬間、十六人全員が声を揃えた。「夢見る心はして死なない、諦めなければ――。熱き血潮に身を任せ、進め」――。


「……いい歌詞だ」

「そうでしょ? 公演の表題曲だからねー」


 動画を持つ林檎嬢がニマニマと楽しそうに笑っている。俺が聴き入っている内に二曲目も終わり、裏で着替えたらしき女子達が三曲目のために躍り出てきた。今度は金色の光沢質の衣装だったが、腕や脚のみならず腹までも丸出しになっている。


「っ……! 流石にこれ以上は……」


 俺は思わず動画から目を背けた。林檎嬢が「え?」と意外そうに俺の顔を見てくる。


「なになに、どうしたの」

「……私は独身チョンガーで、芸者遊びエスプレイの経験もなかったもので。あまりどぎつい格好は目に毒です」

「? チョンガーって何?」

「まあ、とにかく」


 動画を持つ林檎嬢の手を、触れず押し戻すようにして、俺は言った。


「『秋葉原エイトミリオン』が何なのかは理解しました。少女歌劇団のようなものでしたか」

「え? 歌劇団って、宝塚の?」

「元祖はそちらだそうですね。私が観たことがあるのは、浅草の松竹しょうちく歌劇団ですが」


 女子だけを集めた歌劇集団。西の宝塚と東の松竹を皮切りに、大正以降、雨後うごたけのこの如く全国各地に同種の団体が設立されていったというが……。あの世にもそれにあたるものがあり、好評を博していたというわけか。


「へぇー。歌劇団って東京にもあるんだ。宝塚だけかと思った」


 林檎嬢は何やら意外そうに目を丸くしている。はて、彼女自身も芸能人であるはずだが、現世の芸能事情には疎いのだろうか。


「上の兄が芸能かぶれでして、幼い頃は何度か連れて行かれたものです」

「お兄さんって、お医者さんの?」

「……いえ、それは『大和ナナ』の兄でしょう。私の兄は陸軍に行って戦死しました」

「……ちょっとそれ、リアクションしづらいやつ」


 彼女は指先で動画装置のスイッチを切り、ふーんと上目遣いに俺を見て言った。


「でも、お兄さんがいるのにジュンイチって名前なのは、ちょっと設定が甘いと思うなー」

「……その理由は、お話するには及びません」


 俺は元々長男だったが、物心つく前に両親を亡くし、東京の親戚の家に引き取られたのだ。だからつまり、兄達とも本当の兄弟ではないのだが、彼らが俺を実の弟のように可愛がってくれたことに変わりはない。

 林檎嬢も特に聞き返してこない様子なので、俺はそのまま口をつぐんだ。こうした事情を自らぺらぺら喋るのはみっともないことだ。

 動画装置をポケットに仕舞い込み、林檎嬢はふふんと得意げに人差し指を立てて言った。


「エイトミリオンは、皆のアイドル。わたし達はシアターの女神なんだよ」

「ふむ。女神ですか」


 idolアイドルという英語は、偶像、聖像の意味から転じて「寵愛ちょうあいされるもの」とかいう意味で使われている……と、何かの本で読んだ覚えがある。歌劇団というより、むしろムーラン・ルージュ新宿座の明日あした待子まつこあたりに近い存在だろうか。


「では、おば……お嬢さんと私は、この秋葉原エイトミリオンの同期生だったわけですね」


 また「おばさん」と言いかけて慌てて訂正した俺を、彼女はくすくすと笑った。


「ううん、わたしは十三期で、なぁちゃんは十四期」

「! 先輩でしたか。これは失礼しました」

「全然、気にしないで。ホラ、正規メンバーへの昇格も一緒だったし」

「ふむ?」


 期が違うのに正規人員への就任が同じ、ということは。


「すると、あなたは落第していたのですか」

「ひどぉい! あなた達が早かったの!」


 林檎嬢が拳を作ってポカポカと殴ってくるのを、俺は甘んじて受け入れた。先輩からの鉄拳修正だというなら受けねばなるまい。

 猫がじゃれるような拳を何発か俺に食らわせてから、彼女は、ふいに目の隅に涙を滲ませて微笑んできた。


「でも、よかった。記憶がなくなっても、やっぱり、なぁちゃんはなぁちゃんだよ」

「……そう思いますか」


 彼女がそんなことを言ってくるのが俺には不思議でならなかった。俺は飛羽隼一としてしか振る舞っていないのだが……。


「……一刻も早く、ナナ本人にこの身体を」


 返せればいいのですが、と俺が言いかけたとき。


「……!」


 彼方の空から、何かの轟音が微かに俺の鼓膜を震わせた。俺は咄嗟に北の空を振り仰いだ。青空の彼方に見える影は、紛れもなく――


「軍用機……!」


 この世界にもやはり軍隊があるのか。全身に緊張が張り詰める中、俺は無意識に林檎嬢を庇うような位置に歩み出ていた。

 遥かな空の果てから、単機でぐんぐんと近付いてくる機影。まだ米粒ほどにしか見えないが、見たこともない翼の形だ。機体の大きさが分からない以上は距離を推定しようもないが、明らかに高度を下げてきている。至近に飛行場があるのか、それとも。


「空襲か……?」

「あー、基地が近いからねー」


 林檎嬢の声は、思いのほかのんびりとしていた。


「ホラ、確か、厚木あつぎ飛行場。知ってるでしょ?」

「……ここは厚木でしたか。訓練で一週間ほど居たことがあります」


 ということは、南方に見える海は相模湾さがみわんだったのか。我が海軍の厚木飛行場に降りようとしているのなら、あの機影はひとまず味方機だと思うが、それにしても全く見慣れない形だ。機首が極端に長く、主翼は機体の後方にかけて三角形に展開している。あんな形で飛べるのか……?


「あれが敵か味方か分かりますか」

「えっ、み、味方じゃない? だってアメリカの飛行機でしょ、あれって」

「なに……?」


 そうこうしている内に機影はますます高度を下げ、綺麗に吸い込まれるように地上へ降りていった。この病院は本当に飛行場のすぐそばだったようだ。しかし、アメリカの飛行機が味方とは……?


「どういうことです。あの世では日本とアメリカは同盟国なのですか」

「え? そ、そうじゃないの? ていうか、あの世じゃないし……」

「あの世じゃないなら、ここはどこなんです」


 口ではそう尋ねながらも、俺は混乱の中で既に一つの仮説に辿り着きつつあった。

 死んでいるとは思えないこの身体。俺の知る現世よりも遥かに進んだ科学技術。診察室のカレンダーにあった「二〇一六年」という見慣れない暦。あれがこの世界独自の暦でなく、俺が死んだ西暦一九四四年のその通り七十二年後を意味しているのだとしたら……。


「センゼンの軍人さんから見たら、ここは未来ってことになるんじゃない?」

「……そうだったのか」


 すっと身体から力が抜けるのを感じ、俺はいつの間にかすとんとその場に崩れ落ちていた。

 確かに、ここがあの世ではなく未来の日本だと考えれば、全てのことに合点がいく。いや、俺が「大和ナナ」の身体に入ってしまった理由はそれでも全く説明がつかないが、どの道、それはここがあの世だとしてもおかしな現象だったようだし……。

 そして、ここが未来の日本で、我が海軍の基地を今はアメリカ軍が使っている……ということは。


「……やはり、日本は戦争に負けたのですね」

「うん……なんか……ごめんね?」

「いえ……分かりきっていたことではありました」


 アメさんの物量を敵に回して勝てるはずがない――勿論、仲間の誰一人としてそんなことを直接口にはしなかったが、人員も物資も日々消耗を続けていくあの戦いの中で、誰もがひしひしとそれを肌身に感じていたはずだ。我々は一人一人の技量と魂において決して敵に劣るものではないが、それでもやはり、この戦争に勝ち目はない……と。


「……大丈夫? 思ったほどショックじゃない、のかな?」

「……ええ」


 林檎嬢が手を差し出してくるのに対し、俺は軽く頭を下げてそれを固辞し、自力で立ち上がった。


「……戦争の大局など、下級士官の私が気にすることではありませんでした。現場の我々が気にしていたのは、銃後の家族の安全と、己の命をどこで散らすかということのみ」


 俺の言葉に嘘偽りはなかった。たとえ戦争に負けようとも、俺自身は立派に役目を果たして散ったという自負がある。だから、米軍機が日本の空を飛ぶこの未来の姿に、多少の動揺はすれども、絶望や悔しさを感じるようなことはなかった。

 それよりも、いかなる形であれ、日本という国が遠い未来でも滅びず存続していることへの安堵の気持ちの方が、強く俺の胸に染み渡ってきた。


「……」


 頬に思わず熱いものが伝うのを感じ、俺は咄嗟に林檎嬢に背中を向けた。必死に嗚咽をこらえ、指で涙を拭う俺を、彼女は何も言わず隣に来て見守ってくれた。


「……すみません。見苦しい姿をお見せしました」

「ぜーんぜん」


 春風が俺達の黒髪を揺らす。ふっと優しく笑いかけてくる彼女に、俺も努めて笑い返した。

 これからどうすればいいのかは相変わらずさっぱり分からないが、少なくとも、彼女がそばに居てくれることは、俺にとっての僥倖ぎょうこうだろう。


「そろそろ戻る? マネージャーさん待ってるだろうし」

「はい」


 俺を手招きしつつ、林檎嬢は言ってきた。


「楽に話してよ。親友だと思って」


 優しい口調で言われ、自然と俺の口元もほころんだ。


「……そうだな。では、貴様とは自然な口調で話すことにしよう」

「き、きさま!?」


 彼女の目が、俺が見た中で一番丸く見開かれる。


「貴様はひどいよ!」

「そ、そうか。貴様というのは酷い言葉なのか。まあ、確かに女子には使わないよな……」


 くすくす笑う彼女に続いてエレベーターに乗り込みながら、俺は考える。

 おばさんも貴様も駄目。何か適切な呼び方を見つけなければならないだろう。


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