第3話 予想外の筋書き(2)

 林檎じょうに促されるがまま、俺は彼女と共にエレベーターに乗り込んだ。

 上昇につれて切り替わる階数の電光表示に俺が見入っていると、林檎嬢は横でくすくす笑ってくる。


「なぁちゃん、まさか数字も忘れちゃった?」

「いえ……」


 俺は彼女に顔を向けた。くりくりした瞳が俺の視線と水平の位置にある。女子と同じ目線というのは……この場合は俺の方が縮んでしまっているのだが、やはりどうも落ち着かない。


「おばさんは、『大和やまとナナ』と親しかったのですね」

「え!? お、おば、おばさん!?」


 たちまち声を裏返らせる林檎嬢に、俺はあっと気付いて自分の口元を手で覆った。背筋を嫌な汗が伝う。俺としたことが……。


「し、失礼しました」


 俺は小さく頭を下げる。

 兵学校時代は異性交遊が厳に禁じられていたので、我々生徒は、若い娘さん相手でも必ず「おばさん」と呼ぶことになっていた。江田島えたじまを離れてもなかなかこの口癖が直らず、女性を怒らせてしまった経験を持つ者は多い。

 俺が恐る恐る顔を上げると、林檎嬢は怒るというより呆気あっけにとられた顔をしていた。


「い、いいけど……なんでおばさん?」

「申し訳ありません」


 俺は再び彼女に低頭した。士官たるもの、見苦しく言い訳をしてはならない。

 すると、彼女はそっと俺の両肩に手を添えて、優しい声で言ってきた。


「いいよぉ。なぁちゃんがどんなにおかしくなっちゃっても……わたしは、なぁちゃんの一番の親友だから」

「はっ、しかし……」


 ポーン、と音がして、エレベーターが上階に到着した。扉が自動で開くのと同時に、俺は彼女の両手をそっと振り払うように身を引いた。


「『大和ナナ』とはそうであったとしても……今の私は中身が男ですので、嫁入り前の娘さんが気軽に手を触れられない方がいいかと思います」

「えぇぇ、いいじゃん、カタイこと言いっこなしで」

「いけません」


 彼女が手を取ろうとしてくるのを、俺はさっと腕を引いてかわす。彼女はまたくすりと笑って、俺をエレベーターの外へといざなった。

 ベタベタされるのは困るが、彼女からは色々教えてもらわなければならない。この世界のことも、「大和ナナ」のことも。……そう思い、俺は彼女の華奢な背中を追ってエレベーターから出る。

 扉を一つくぐった先は屋上だった。少し冷たい春風が俺の身体に吹き付け、爽やかな青空が俺達を見下ろしている。


「これは……」


 慣れない長髪が風に煽られるのも構わず、俺は屋上からの景色に目を見張った。見渡す限りの眼下に立ち並ぶ、決して背が高くはないが近代的で綺麗な建物。縦横無尽に伸びるアスファルト舗装の道路と、その上を行き交う無数の自動車。ここがどこかは知らないが、俺のいた現世よりもずっと開発の進んだ世界であることは間違いない。


(ここは「大和ナナ」の実家の近くだとか言っていたか……?)


 俺の地元なら東京都内ということになるが、先程の女医との話からいって、俺自身と「大和ナナ」の出自は全く異なるものと考えた方がいいだろう。

 街の向こうには海も見える。診察室で見た時計は十二時前だったので、太陽が出ているあの方向は南。ここが日本のあの世なら、あれは太平洋か瀬戸内海ということになる。この屋上の高さは三十mメートルくらいだろうから、地平線のやや手前に見えるあの海までの距離は概ね十五kmキロメートルといったところか。

 俺が頭の中でそんなことを考えていると、林檎嬢は俺の隣にやってきて、風に揺れる黒髪を撫でつけながら言った。


「なぁちゃんとわたし、一緒に秋葉原エイトミリオンのチーム・クアルトで活動してたの。思い出せない?」

「チーム・クアルト。……第四部隊ですか」

「ん? うん。なんだ、やっぱりちょっとは覚えてるんじゃん?」

「いえ、記憶はありません。quartoクアルトというとイタリア語で四番目という意味ですから、そういうことかと」


 俺が兵学校で学んだ第二外国語はドイツ語だったが、もう一つの同盟国であるイタリアの言葉も独学で少し程度は身に付けていた。もっとも、俺が少尉に任官して少し経った頃には、イタリアは連合国に降伏してしまったのだが……。

 俺の言葉に林檎嬢は一瞬ぽかんとしてから、「あ、でもでも」と気を取り直したように続けた。


「メンバーだったことは覚えてなくても、秋葉原エイトミリオンは知ってるでしょ?」


 先程の女医からも出た単語だ。俺の、というか「大和ナナ」の所属する組織の名であることは間違いない。しかも、林檎嬢の言葉から察するに、国民なら誰でも知っていておかしくない組織であるようだ。

 八百万エイトミリオン八百万やおよろずの神からとった名前だろうか。そして秋葉原といえば、落語の「うしめ」にも出てくる火防ひぶせの神、秋葉神社に由来する地名。それを組織名に冠するということは……。


国防こくぼう婦人会ふじんかいに属する消防組しょうぼうぐみのようなものか……?」

「なんでその発想!?」

「だが、消防組だとすると、『八百屋やおやしち』に通じるナナという名前はいささか収まりが悪い気がするな……」


 む、八百屋。そういえば、秋葉原は青果市場いちばでも有名だが。


「! だから林檎なのか!」

「何言ってるの……」


 林檎嬢は何やら呆れたような目で俺を見て、一秒後に吹き出すように笑った。……ふむ、俺の思考はよほど的外れだったらしい。


「八百屋お七って、恋人に会いたくて放火しちゃった人だっけ。よくそんなに連想ゲームみたいにポンポン出てくるね」


 連想ゲームとは言葉遊びの一種だろう。ひとまず、彼女が楽しそうに笑っていることに俺は安堵した。

 彼女の立場からすると、まだまだ不安はあれど、昏睡から目覚めた「大和ナナ」とこうして話せるのが何よりもまず嬉しいのだろう。中身が別人だとも信じていないようだし……。


地口じぐちと言いますか、ジョークのセンスは色々と教え込まれたものです。海軍はユーモアを重んじる組織ですから」

「え、軍隊さんなのに?」

「はい。兵学校の入試の口述試験に、こんな問題があったほどです。『六つの菓子を五匹の猿に喧嘩なく分けるには如何いかにすべしか』」


 俺が受験したときの問題ではないが、先輩から聞いた話だ。彼女はきょとんとして自分の唇に指を添える。


「分けれないじゃん。自分がコッソリ一個食べちゃうとか?」

「それも良い回答だと思います。元よりこの問題に正解などありません。模範回答は、六つの菓子に五匹の猿だけに、『六ツ菓子むつかし五猿ござる』……と」


 俺が言い切ると、彼女は数秒固まってから、「ええぇ」と声を上げた。


「ウソだぁ、絶対ウソだ。軍隊の試験でしょ!?」

「本当です。厳しい戦場にあってこそ、ユーモアの精神を絶やすな……と我々は教わりました。私などは、最後までジョークが苦手なままで、よく堅物と言われましたが」

「いやいや、なぁちゃんが言うと十分面白いって。ていうか、どこで勉強したの、軍隊さんの話とか」


 林檎嬢が背中を叩いてこようとするのを俺はひらりとかわした。それさえも笑いの琴線に触れたようで、彼女はまだ腹に手を当てて笑っている。……彼女がこの身体の中身をナナ本人だと信じ切っていることが、俺には申し訳なくも感じられた。

 俺だって好き好んでこの身体に入った訳ではないのだし、に身体を返せるものなら返してやりたいが……。


「なぁちゃん」


 やっと笑いの収まった彼女は、俺の思いをよそに、上目遣いで俺を見て言った。


「じゃあ、今度はわたしが教えてあげる。エイトミリオンのこと」


 彼女がワンピースのポケットから取り出した手には、何やら片手大の薄い板のようなものが握られていた。

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