第2話 鏡の中の女(2)
「なぁちゃん、どうしたの!?」
壁を背にへたり込んだ俺の耳に、病室の外から知らない声が飛び込んでくる。これもまた女の声だった。駆けてくる足音に気付いて目をやったとき、横開きの扉ががらりと開いて、誰かが顔を覗かせた。
「大丈夫っ!?」
切羽詰まった表情で俺を見てくる、黒髪の若い女子。鏡に映る女とは別人だが、髪の長さは同じくらいある。前髪で
だが、鏡の女の患者姿とは違い、こちらはモガのような派手なワンピースを着ている。
「日本人か?」
思わずその質問が口をついて出た。日本語を喋るのが日本人とは限らない。あの世にも敵味方の区別があるのなら、自分が今どこにいるのかを知るのは何より重要なことだ。自分の身体に何が起きたのかも気になるが、それにもまして、自分が自国の病院にいるのか、それとも敵の病院に
「な、なに? 何言ってるの?」
娘はおろおろと戸惑った顔をしながらも、続けて言った。
「なぁちゃん、大丈夫? わたしのことわかる?」
彼女の言葉に
「ここは日本領ですか?」
「ニホンリョウ? え、えっと、なぁちゃんの実家の近くの病院だけど……」
なんと。それなら東京府内か。もとい、昨年に帝国議会で東京都制案が可決されて、東京府は東京都になったのだったか。
もっとも、俺自身の出身地と、この娘が「なぁちゃん」と呼ぶあの世での俺の出身地が同じかどうかは怪しいものだが……。しかし、少なくとも、彼女の反応を見た限り、ここが敵地ということはなさそうだ。
「……ひょっとして記憶喪失とか? えっえっ、大丈夫、わたしのこと覚えてる?」
彼女はひたすら不安そうな目で俺の顔を覗き込んでくる。
俺は慣れない細腕で身体を支えて、壁を背にして立ち上がり、彼女に正対して居住まいを正した。少なくとも俺に害をなす存在ではないようだし、ここは誇りある海軍士官として恥ずかしくない態度を取らねばならない。
「私は海軍軍人、
俺の言葉に、彼女は目をぱちくりとさせた。
こうして向かい合ってみると、彼女の背丈は概ね俺と同じくらいのようだった。身長百七十五
などと考えること数秒、ふいに彼女はわっと泣き出し、叫びながら扉の外へ駆け出していってしまった。
「マネージャーさぁぁん! なぁちゃんがおかしいよぉぉ!」
遠ざかっていくその声を聞きながら、俺は、はぁっと一息ついて肩を落とした。叫んで逃げ出したいのはむしろこっちである。
とはいえ、現実から逃避していても始まらない。死後の世界に来てしまったことは確かなようだから、ひとまず心を落ち着けて、早くこの世界に適応しなければならない。
「ふむ……」
俺は改めて、洗面台の鏡に映る自らの姿をしげしげと眺めてみた。先程この手で握り締めるまで気付かなかったが、いざ意識して見てみれば、小振りながら間違いなく胸の膨らみがある。ならば「下」はどうなっているのか……だが、それを確かめると本当に絶望してしまいそうで、手を伸ばすことは
代わりに
いや、いくらあの世だからといって、そんな空想小説のような手術が出来るはずがない。脳を取り出したら死んでしまうに決まっているわけで……いや、元から死んでいるのか。
考えれば考えるほど、何が何だかさっぱりわからない。頭が痛くなりそうだった。
「ナナ? 入っていい?」
俺が頭を抱えていると、ノックに続いてまたしても別の女の声がした。俺の返事を待たずして扉が開かれる。
「意識が戻って安心したけど、大丈夫なの?」
今度はブラウスにズボン姿の女性だった。先程の娘がその女性にまとわりついて、心配そうな目で俺と彼女を交互に見ながら訴えている。
「マネージャーさん。なぁちゃんがさっきから言ってることおかしいのっ」
「どうしたの? ナナ。大丈夫?」
女性がやはり心配した顔で俺を見てくる。ワンピースの娘や鏡の中の
俺は彼女に向き合い、ぴしりと敬礼して言った。
「私は海軍少尉、飛羽隼一であります。このたび戦死してこの世界に来たのですが、新入りゆえ、こちらでの暮らし方をご教示頂けないでしょうか」
女性は、ぽかんと口を開けて固まるばかりだった。
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