第2話 鏡の中の女(1)

 目を開けると知らない天井があった。驚くほどまぶしい照明の明かりに、俺はウッとなってまた目を閉じそうになった。

 何かの薬品の匂いがツンと鼻をつく。自分がベッドに仰向けに寝かされていることはすぐにわかった。そのままの姿勢で目だけ動かすと、やけに清潔で真っ白なシーツが目についた。


 ――ここは一体、どこだ?


 周囲に人の気配はない。俺は枕から少しだけ首を持ち上げ、右へ左へと小さく視線を振ってみた。真っ白な壁に真っ白なカーテン、そして真っ白な光を放つ天井の照明器具。あれは東芝から最近売り出されたという蛍光けいこうランプか? しかし、あれほど明るいものは民間でも軍用でも見たことがない。


 ――この場所は、一体どこなんだ。


 少なくとも船内ではない。揺れを感じないからだ。ベッドに寝ていてもハッキリと分かる、地に足ついたこの感じ。ここが陸上であることは間違いない。

 だが、明らかに隊の宿舎とは違う。雰囲気からすると病室のようだが……。

 俺が乗っていた機は敵の爆撃に突っ込んで木っ端微塵になったはず。俺の身体も海の藻屑もくずとなったはずだが、まさか俺は奇跡的に生きながらえ、手当を受けて蘇生そせいしたのだろうか。


(……)


 俺はもう一度頭を動かし、ベッドに横たわる自分の身体を見下ろそうとした。そして愕然がくぜんとした。シーツから出された俺の左腕に、何かのくだが突き刺さっているのだ。


(なんだ、これは!?)


 俺は驚愕に目を見開きながらも、半秒後には冷静さを取り戻してその管の観察を始めていた。ベッドの脇に金属の細い支柱が立てられ、何やら液体を満たした透明色の袋が吊るされている。俺の腕に突き刺さった管はその袋に繋がっているのだ。


(あの液体を、血管に流し込んでいるのか……!?)


 俺は身震いした。外科げか手術の際などには輸液剤ゆえきざい皮下ひか注射するというが、しかし、血管に輸液を流し込むなど見たことも聞いたこともない。

 まさか、俺は俘虜ふりょとなり、敵の軍病院で人体実験を……!?


(いや……アメさんがそんなことをするとも思えんが……)


 そもそも、俺はあの爆発で半身を吹き飛ばされたはず。どんな強運の持ち主でもあれで死なないはずがない。

 そうなると、理屈で考えれば、ここは病院ではなくということになるだろう。仮に病院だったとしても、あの世の病院だ。そうに違いない。

 とにかく、死んだ身だろうと何だろうと、腕に管の刺さったままでは気持ちが悪い。

 室内に誰もいないことを確認してから、俺は意を決し、ゆっくりとベッドの上で上体を起こしてみた。意外なほど軽く身体は持ち上がった。だが、妙に腕や腹の筋肉がひ弱な気がする。力を入れようとしても一定以上の力が入らない、という感じだ。

 病院で寝かされている間に筋力が衰えてしまうということが、死後の世界でもあるのだろうか。


(情けない。また鍛え直さないと……)


 俺は随分と弱ってしまった右手を伸ばし、左ひじの内側に貼られた粘着テープのようなものを剥がして、血管に刺さっていた管を引き抜いた。思ったほど血は出なかった。左手の指を握ったり開いたりしてみて、ひとまず動きに支障はないことを確認する。

 右腕で身体を支え、俺はそっとベッドから降りた。情けないことに脚の筋力も随分と弱ってしまっているようだが、ひとまず床を踏みしめて立つことはできた。

 大きな窓には真っ白いカーテンが掛かっているが、ここが味方の施設か敵の施設かも分からない以上、開けることは躊躇ためらわれた。

 改めて室内を見回してみる。十畳はあろうかという大きな部屋だが、ベッドは俺が寝ていた一基だけ。ここが病院だとすれば随分と特等の病室ということになる。たかが少尉の俺がこれほどの待遇を受ける理由が思いつかないが、何かの間違いではないだろうか。二階級特進して大尉だいいになったのだとしても、これでは下手をすれば将官並の暮らしではないか。

 見れば、洗面台や専用のかわや、シャワールームまで付いているようだ。しかも厠は西洋式ときている。陸上で西洋式の厠など、海軍でもなかなか見かけるものではない。


(随分と西洋風の設備だな……。ここは日本のあの世じゃないのか?)


 死後の世界というものは万国共通なのだろうか、などと考えつつ。

 俺は何の気なしに洗面台の鏡を見て。

 そして、息が止まるほど仰天した。


「なっ……!」


 そこに映っていたのが、俺ではなく――


 肩に掛かる黒髪もつややかな、姿だったからだ。


「っ……!」


 俺が身を強張こわばらせて鏡の前から後ずさると、鏡の中の女子も同じように後ずさった。

 入院着であろう水色の浴衣のようなものを着た細身の女。顔は日本人に見えた。だが、髪を上げず、童女こどものように前髪でひたいを覆い、肩の上に後ろ髪を垂れ流した見慣れない髪型をしている。

 そして、目鼻立ちの整ったその顔が、恐らくは俺と同じ驚愕に引きっているのだ。


 ……馬鹿な。俺は夢でも見ているのか。

 冷静に考えろ。兵学校で叩き込まれたはずだ。理詰めで考えればこの世に解けない謎などないと。

 あれが鏡だというのがまず思い込みではないのか。実は鏡ではなくガラス張りの壁だとしたらどうだ。何の目的か知らんが、あの女は向こう側から俺の真似をしてからかっているのだ。そうだ、それならば合点がてんがいく。


「おい、君……」


 女に向かって呼びかけると、俺の喉から黄色い声が出た。馬鹿な。こんなのは俺の声じゃない。思わず喉を手で押さえると、ガラスの中の女も同じ動きをした。

 驚くべき精度で俺の動きを真似てくる……。こうなったら、娑婆しゃばの人間には真似できない動きをして、ボロを出させて正体を暴いてやる。

 そう考えた俺は、一歩下がってガラスに正対し、和文の手旗てばた信号を女に向かって送信してみることにした。「ナ・ン・ジ・ノ・シ・ヨ・ウ・タ・イ・シ・ラ・セ」……出来うる限りの速度できびきびと両腕を動かす。船乗りの技能である手旗を女子が知っているとは思えないし、この速さには付いてこられまい。

 だが、女はボロを出さなかった。信じられないことに、彼女は俺の動きを寸分の狂いなく逆写しで真似てきたのだ。


(こんな馬鹿な……俺は妖怪にでも化かされているのか……?)


 戦場でさえ味わったことのない寒気が背中に走り、底知れない恐怖が俺の心を支配していた。こんなことがあるはずがない。こんなことが……。

 いや待て、まずは時計を見て落ち着くんだ。科学万能のこの時代に妖怪などいるはずがない。ここがあの世だったとしてもだ。そう思って左手首に目をやると、常に身に付けていたはずの操縦員用の腕時計はそこにはなかった。

 ……いかん、混乱しているぞ。左手に時計がないのは先程から分かっていたはず。ならば仕方がない、心臓の鼓動を数えて……。


 


 ……。


「ウワァァァッ!」


 俺のものとは思いたくない悲鳴が病室に木霊こだまする。どん、と背中が病室の壁にぶつかり、俺は情けなくもその場にズルズルとへたり込んだ。右手がまだを握っていることに気付き、ばっと反射的に手を離した。


 信じられない。到底信じられないが……。

 

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