アトラ・アーカーの最期
「ぁ、アトラ……おれ……」
オランは、記憶にあるよりずっと掠れた声で、ぼくの名前を口にした。
今にも泣き出しそうな顔が、ぼくに向けられている。いやあの目を見ると、もうさんざん泣いたのか……。
それもそうだ。ここにいるってことは、オランはカロンの最期を見たんだから。見せつけられたんだから。
その上、今の状況はとてもまずい。
どうすればオランを助けられるのか、まったく見当もつかない。
オランの首へ刃を食い込ませている男とは、ここからだと僅かに距離がある。
さっきまでの全能感みたいなのはもうすっかり消えて、遅れてやってきた疲労が太ももを勝手にヒクつかせていた。こんな足じゃムリだ。
夢から覚めて、どうにもならない現実へと取り残された気分。いっそこっちが悪夢であってくれたらどんなによかっただろう。
どんなにうなされても、目が覚めたら自分の部屋にいて、なにがあっても守ってくれるお父さんがいて、心から安心できる笑顔を浮かべるお母さんがいて、掴みどころのないアリアに困らされて…………そんな日常がある。
今日も変わらずそんな日常を送る自分が、どこかにいるんじゃないかと本気で思えてくる。こっちは何かの拍子に道から外れてしまった方で、そうじゃない方のぼくは今ごろお母さんの作る料理に舌鼓を打っているんだ。
現実から逃れようとする思考が、ありもしない世界の、いもしない自分を妬み、憎しむ。
けど、そんなのはやっぱり現実逃避だった。
相変わらず冷や汗も止まらなければ、時間もまた止まってはくれない。
「テメェ、ハデに暴れてくれたなァ」
「アト——ッ⁉︎」
その声で、楽な妄想から引き戻された。
オランの身じろぎに反応して、刃はさらに食い込む。あのまま、あと少しでも引かれれは……それだけでオランは…………。
「動いたら……分かってんな?」
「……………………」
呼吸は心臓に合わせるように早くなって、ろくに頭を働かせてくれない。どうすればいいのかという自問だけが繰り返されて、思考はそれだけで埋め尽くされていく。
けれど、冷静で冷淡な自分が告げている。
これは詰みだと、嘆息混じりの独白が聞こえた気がした。
アトラ・アーカーにオランは殺せず、反撃にしろ回避にしろ、動くということはオランを死なせる……殺させるということになる。
だから、アトラ・アーカーは動けない、と。
だから、おまえは詰んでいるのだと。
癇癪を起こしたくなるくらい、当たっていると思った。
どうしようもなく正解だ。
あんまりにも正論すぎて、もう刃物と変わらない。
だって、それも当然だろう。
この言葉は、紛れもなくぼく自身のものなんだから。
動けばオランは死ぬ。
それを承知で動くということは、あの男の腕と短剣を使って、ぼくがオランを殺すのと変わらない。
だけど、それじゃあ動かなければオランは助かるのだろうか?
…………そんなはずはなかった。
そんなの、これっぽっちも考えられない。
一瞬でも縋りたくて、楽になることに全力を出している頭でも分かるくらい、一切の希望がない。
けど…………それでも、ぼくは動けない。動きようがない。だって、オランを殺すなんて……できないんだから。
男たちを殺すのだって、人を殺す覚悟を持たないでやってしまった。できてしまった。
人を人だと思わないことで、踏み越えてしまった。
なのに、人を殺すどころか友だちを殺す覚悟なんて…………一足跳びどころじゃない。そんなの、一生涯かけたって、できっこない。
「ハッ……ハッ……ハッ……ハッ……」
呼吸が荒い。胸が、肩が上下して、何もしていないのに苦しくてたまらない。
繰り返される自問と、その度に出る『どうしようもない』という回答と、肩へのし掛かるオランの命への責任。
それらが、あのときのオオカミなんて比じゃないくらいにぼくを苦しめ続ける。
いっそ子どもみたく丸くなって、お父さんに助けを求めて泣き出したかった。
じゃり、という……音。
それが背後から聞こえた瞬間、しまったと思った。思ったと、思う。
「あ゛ガッ?!」
ドムッ、と……自分の身体が鳴らした音を聞いた。
背中を固くて、感じたことのないほど冷たいものが乱暴に擦ったのかと思った。
けど……直後の焼かれるような感覚と、そんな感覚すら切り裂いて脊髄を割る激痛に、いやでも何をされたのか理解する。
背中の灼熱の感覚とは対照的に、全身は血の気の引いた、凍えるような寒さで震えて……。
いや……痙攣している、のか……。
「があ、ギぁっあああぁあぁあ‼︎‼︎‼︎‼︎」
叫びが出ている間にも、異物が容赦なく入り込み、体の中身を押し分ける。痛くて、熱くて、怖くて……全身からの苦痛を口から吐いたような声が止まらなかった。
自分のものとは思えない、ケモノの断末魔。
ぐしゃぐしゃになった思考は、もう死ぬことを受け入れてしまってる。そんな自分が情けないのに、もう壊れてもいい。諦めてもいいんだと、どこか安堵している自分が……理解できない。
もう答えのない自問を繰り返さなくていいんだという安堵。そんな狂気を否定する理性。
そんなものすら、次の瞬間には痛みで掻き消える。
オランを人質にしている男は、何が面白いのかニヤニヤとした顔を興奮で染めている。それが、オランとはほんとうに対照的だった。
もういい。もうアトラ・アーカーは終わった。
こんな中でまともでいても苦しいだけだ。
そうだ。これは夢なんだ。
昨日の延長に、こんな地獄があるなんて信じられない。それよりも夢だという方が、何倍も説得力があるし、常識的だ。
それなら、いっそ死んでしまえば目が覚めるのか。
よし、壊れてしまおう。結果は変わらないんだから。これは夢なんだから。
「よーし、1つ賭けだガキ。テメェが最後まで悲鳴をあげなけれりゃあ、こいつは解放だァ」
そしてその言葉で、最後に縋った自失という逃げ道すら、ぼくは閉ざされてしまった。
「あ゛がィゥ、グ………………ッくぅ、はっ、ふっ…………ぐぅぅぅ、う゛……!!!!」
耐える。
死にかけた心を、休もうとした理性を叩き起こして、必死に歯を食いしばる。
それでもダメだから、手に噛み付いて、噛みちぎることに集中した。
口内に錆びた鉄の味が広がる。口に入ったのか、口から出たのか。手から出たのか、中から出たのか。どちらとも分からない血は、ただでさえ苦しい呼吸をさらに苦しくする。
「ひっでェもんだなァおい」
「ぁ、ぁアト……ら……」
真っ青な顔のオランは、歯をカチカチと鳴らして震えている。オランのそんな姿だけが、ぼくの意識を繋ぐ唯一の糸だった。
耐えなきゃ。守らなきゃ。
もう助からないぼくが、唯一守れるもの。遺せるもの。
そのためなら、こんな痛みも寒さもおぞましさも耐えられる。耐えられなきゃ、いけない。
けれど、やっぱり冷めた声が水を差す。
冷静ぶった声で、ぼくの声で、ぼくじゃないぼくが断言する。
「全部ムダになる」——と。
「これでオランが助からないのは、さっきまで分かっていたはずだ」と。
そしてそれは現実になる。
「ひどすぎるよなァ」
「ぁ、……ぁぁ……ぁぐっ⁈」
「てめぇのことだァ、ガキ」
グイと、男が震えるオランの髪を掴み、乱暴に突き飛ばして押し倒す。前触れがなさすぎて、オランもぼくも、もう……意味が分からない。
「俺はなあ、ガキ。仲間を見捨てるヤツがいッちばん気に入らねえんだよ」
「…………ぇ?」
か細い、今にも消えてしまいそうな声。
ぼくはそんなオランと違い、男のやろうとすることが理解できてしまった。
気づいた瞬間、どこにそんな力が残っていたのかというくらいの悲鳴じみた怒号が喉を削りながら出ていた。
「ふッ……ざげるなあ゛ッッ‼︎ やぐぞぐ——ゲッハ! だずげる゛っでえ゛、ごふッ、ぃ゛っだぁあ゛あ゛あ゛あ゛ッッ‼︎‼︎」
吐き出す声は血が混じる。
賭けなんてウソだった!
約束を守る気なんてはじめからなかった!
なにがどうなっても、こうして難癖をつけて済ませるつもりだったんだ‼︎
込み上げてくる感情は止められない。
理性と本能が、結末を冷静な状態で目にすることを全力で拒んでいる。
男は歪んだ顔をそのままに、オランの背中を膝で潰す勢いでのし掛かる。
苦しげなうめき声が聞こえた。
「仲間が命ィはってるのを何とも思わねぇのか⁈ このクソがァア‼︎‼︎」
「あ゛————ぇ…………?」
振り下ろされた。
何の躊躇もなく。
声とは裏腹に、なんの怒りもない顔で。
喜色すら浮かんだ顔で。
「カフッ! ぃ……た……」
オランの口から、赤い
「ァ……あぁ、あ゛ぁ゛あ゛ア゛ア゛‼︎‼︎ オランッ! オランッ‼︎」
必死に叫ぶ。涙で輪郭を失った視界。どんなに目を瞬いても溢れ出す涙は、オランの姿すら霞ませようとした。
それでも、叫んだ。
命を繋ぐために、必死に手を握りしめて、懸命に呼び止めた。
もしかすると、置いていかれたくなかったのかもしれない。オランが先にいなくなって、独りでここに残されるのが、本当に嫌だったのかもしれない。
返事は返ってきた。すすり泣くような声で、弱々しい声で、返ってきた。
「……ご、めん」
「————え?」
唐突な謝罪の言葉。あまりに唐突で、周りの音や男たちのせせら笑う声すら気にならない。
「オレ……あや……まりたくて…………ずっと……ひど……こと、いっ……た、から……」
時々えずくような声を挟みながら、オランの声が聞こえる。苦しそうで、それでも続くそれは……なんだか急いでるようにも聞こえた。
それが何に間に合わせようとしているのか……考えるまでもなかった。
「オ……ラン……!」
涙は止まらない。視界は霞んだままだ。
けれど、目の前のオランは間違いなく、みんなで遊んだあの日々のオランだった。
「オ゛ラ゛ンッ‼︎」
もう、返事は返ってこない。急所へと突き立った刃は、正確にオランの命を刈り取ってしまった。
本当に、あっさりと……ひとり残されてしまった。
「あとはテメェらでやれ」
オランを殺した男が、手下たちを引き連れて村の中央へと歩みを進める。
すると残った何人かの男たちが、ぼくの体を仰向けにする。動く視界の中で、自警団のみんなが死んでいるのが見えた。
そういえば声もしないし助けてもくれないと思ったけど、なんだ…………死んでたんだ。
ぼくを仰向けにした男は、しきりに「楽に死ねると思うな」とか、「苦しみ抜いてしね」とかを繰り返す。
ぼくの体に孔を作りながら。
腕を歪めながら。
あばらを踏み砕きながら、涙を流していた。
「よくも弟を」と聞こえて、殺される理由が腑に落ちた。意外とマトモな理由で、少し安心した自分すらいたくらい、常識的な理由だった。
けれど、もう苦しくない。感覚はとっくに死んで、心も今死のうとしている。
でも、それでもオランの手は離さなかった。今までさんざんすれ違ったけど、せめて死んでしまった後では一緒にいられるように。
そして、カロンたちも探そう。みんなで一緒なら……こわくないから。
なのに……聞こえた。聞こえてしまった。
村長さんをはじめとした、聞き覚えのある声。
「その子を放さんカァッ‼︎‼︎」
「お前ら逃げるなあ! ナクラム様への恩を感じているなら、逃げるなあ!」
「あの子を見捨てたら、ナクラム様に顔向けできないじゃない」
「あたしゃ逃げるなんてゴメンだよ!」
視線が動く。
見れば、村でもよく話しかけてくれた人たちの姿があった。野菜を押しつけてくれたおばさんたちの姿もあった。狩りの成果を分けたとき、何度もお礼を言ってくれた人たちの姿があった。
中には手に調理器具を持って構える人までいる。
「テメェらァ! わざわざ死にに来てんだ、相手してやれェッ! 皆殺しだあ‼︎」
号令と共に、怒号と悲鳴が聞こえてくる。
「や……て……」
死んでゆく。みんなみんな、ぼくなんかのために死んでゆく。
優しかったひとたちが、あたたかかったひとたちが、ぼくの名を叫びながら死んでゆく。
「…………けて……」
もう枯れたはずの涙が、ひとすじだけ目から耳へと伝い落ちる。
「たずげでえ゛! お父さ゛あ゛ぁあ゛————」
自分の頭蓋の割れた音。
それがぼくの聞いた最後の音だった。
そしてアトラ・アーカーは死に、数十分後に目を覚ます。自分の名すら忘れて、どのような想いで友人の手を握っていたかも忘れて、吸血鬼は徘徊をはじめるのだった。
(続きは本編第1話へ)
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