遅すぎた開眼
その日は朝からひと雨降りそうな曇天だった。
まさに鉛色。重く垂れる雲が、空に分厚い蓋をしている。
目を覚まさないといけないのに、窓の外の陰鬱な空模様のせいで頭がなかなか目覚めてくれない。
今日だけは2度寝も良いかも、なんて考えて——
「ふっ‼︎」
ガバッと、気合いで体を起こした。
こういう時に眠気の未練を断ち切れるかどうかで1日が決まるんだぞ、とはお父さんの言葉だ。
すこし手こずったけど、それでもこうして起き上がったんだから、今日という日がぼくにとっていい日であってほしい。
……さっそくめまいがするけど。
ちょっと急に起きたのが良くなかったみたいだった。軽い耳鳴りとクラクラした感じが治るまですこし待ってから、ベッドから腰を上げる。
「さ、早く準備しないと!」
なんたって今日はカロンたちとの約束の日だ。遅れるわけにはいかない。すこし早く行くくらいでちょうどいいんだ。
微かな高揚が頭にのこっていたモヤを散らす。おかげで部屋を出るころには、思考は顔を洗ったときみたいにクリアになっていた。
「ん————?」
階段の踊り場まで駆け降りたとき、玄関が騒がしいことに気がついた。興奮した高い、というより裏返った声が耳に痛い。
なんだか大の虫嫌いのお母さんが、アリアのイタズラで虫を背中に入れられたときの声を思い出す。
あんなお母さんはあれ以来見たことがない。
あれでどんなものを口にするにも抵抗のない逞しさをもつお母さんだけど、お父さんが虫を焼いたのを食卓に並べたときはすごかったっけ……。
「……あれ?」
家庭内の真のヒエラルキーを知ることになった出来事を思い出しながら、階段を最後まで降りる。
すると、玄関にいたのは珍しい人だった。
曲がった腰と、いつも肌身放さないスカーフは間違いない。名前は忘れてしまったけど、間違いなく村長さんの奥さんだ。
「落ち着いてください……! 私も一緒に探します」
「ないのよう! どんなにさがしても、みつからないってえ……!」
村長の奥さんはお母さんに縋りついて、しきりに「ない」とか「見つからない」を繰り返している。
なんとなく、声をかけられない。
お母さんが玄関を早足で後にするのを見送って、ぼくも時間がないのを思い出した。
急いで着替えて顔を洗い、玄関から外に出る。
すると、奇妙な光景があった。
正門の向こう。この村では僕の家を除けば1番大きい邸宅の中は、まるで泥棒でも入ったみたいに荒れ放題だった。
開け放たれた入口からは、中でせわしなく動く人影が見え隠れしている。
「あ」
そんな見え隠れしていた村長さんと、窓越しに目が合う。なぜか目を丸くするクワン村長。
そのまま、体調が悪いのか青ざめた顔のクワン村長が家から出てきた。
「…………?」
クワンさんはぼくへ真っ直ぐに視線を向けて、正門をくぐって庭を通過して目の前まで来ると、ぼくの両肩を強く掴んだ。
「アトラくん、すまんが家から出んでくれ……! もうすぐ建材置き場の裏門がひらく。万が一のときはそこから馬車で逃げなさい……!」
「ぁ、え……、あの……?」
すごい剣幕だった。いつもは優しげなしわくちゃの顔も、まるで幽鬼みたいで、手の置かれている肩は信じられない力で締め付けられている。
「な、なにがあったんですか⁈」
怖くなって、助けを求めるような、悲鳴じみた声が出た。それで我にかえってくれたのか、クワンさんはハッとして手を放してくれた。
「…………すまん、アトラくん。ともかく村の正門には近づいてはならん。あそこは危険じゃ。幸いここには馬車がある、村の子どもらが集まるまでは————」
「村の正門……っ、すみません、失礼します!」
「な⁈ アトラくん! ならん!」
身体が弾かれる。村長の表情や声色から、何か大変なことが起きているのは明らかだ。
それを理解した瞬間、ぼくの身体を脊髄が支配した。
————走れ
間に合わなくなる前に、走れ。
何に間に合わないのかなんて、知らない。
間に合ってどうするかなんて、分かるはずない。
それでも、身体の指示に従った。
走る途中、正門へ向かう道程で、何度も人とぶつかった。
みんな逆方向へ流れて行く。
何度も服を掴まれ、肩を掴まれ、懇願するような声で行かないでと。
それも全部振り払う。
静止されるほど、足は一層回転して、心臓は信じられないほど早金を打った。
そして、あっという間にその光景を前にしていた————
「か…………ろん……?」
村の入り口前に広がっている、見たことのない男たち。手には剣や槍を携え、刃先を自警団の人たちに向けている。
そんな男たちの足下に、
うつ伏せで倒れた、友だちと呼べるひとがいた。
「————————」
落ち着きかけていた呼吸が、一瞬で言うことを聞かなくなった。
頭の中は、今目の当たりにしている光景に漂白されて…………本当にくるしい。
ありえない。
ちがう。
そんなはずがない。
どうしてアレをカロンなんて思ったんだろう。
こんなの、カロンが知ったら、なんて……。
だって、そうだ。
服装も体格も、たしかにすこしだけ、ほんの少しだけ見知っている。
けど、違うだろ。
だって……カロンの頭はあんなに平たくない。
あんな潰れて、割れた頭じゃ、ない。
だって、だって、あんなの、何度も踏みしめて踏みしめて……死んじゃうじゃないか————
「カロン————————」
なのに、不義理な冷たい自分がバカなことを口にした。
となりにいる若い人が、剣を男たちに向けながら何か言ってくる。守ろうとしてくれるのはいいけど、ぼくとカロンの間に入らないで欲しかった。
それでも剣は有り難いから、突き飛ばして取り上げる。
いつも使う剣と比べると、軽かった。
涙は一滴も出ない。
視界を霞ませるなんて不手際は犯さない。
そんなことをしたら、やりたいことができない。
心と体が、同じ目的のために完全に協力する。
こんなに自分が思い通りになったことはなかった。
ただ、さっきからうるさいくらいの耳鳴りと、大切な友だちを足蹴にしていることだけが、どうしようもないくらい不快だっただけ。
「ギゅ」
1人目の男は、そんな声とも音とも分からないのを最期の言葉にした。
「ハガッ」
崩れ落ちる1人目を、突っ立って見ていた2人目の最期はこれだった。
「て——」
3人目。
「やろう! ちょうしに——がぇあッ⁉︎」
4人目。
今のは危なかった。
お父さんに見せてもらった、ぼくの戦い方をさらに再現する。
より正確に。より忠実に。
今ここにいるのは、あのときのお父さんだ。
あのときの聖騎士を、完璧に再現する。
動きだけじゃなく、思考ごと、完全に。
目が痛くて、頭が重くなるけど、再現した。
「やべえ……頭! こいつ、やば——」
よそ見をしているのを仕留めると、ぬめりと温かいものが手に伝う。
なにも感じない。
人を殺すのがこんなにかんたんなんて知らなかった。こんなかんたんに死ぬなんて、実感が湧かない。
人の命がこんなに軽くて、それを奪う剣がこんなに軽いなんて、予想外だったしどこか間違ってる。
こんなに死にやすいのに、よくぼくたちはあのオオカミから生き延びたな、なんて幸運を思い出して、急に悲しみに襲われた。
それを振り払うために、また地を這うように踏み込んで、のどを貫く。
「? ……ああ」
妙な手ごたえ。不快なそれは、剣が真ん中から折れたものだった。
自分の剣ならこんなことも無いのに。
そんな不満を我慢して、汚い男の汚い剣を拾う。
「オ”、ぎォ……!」
それを、やはり汚い男の体に埋没させる。
今更気がついた。
この現実感のなさ。抵抗感のなさは、ぼくがこの男たちを人間だと思えていないからなんだ。
ズキリ、と……目が激しく痛んで、正気に戻りそうになってしまう。
この今の感覚を手放したら、もう一度再現できる気がしないから。
「おおいィ! こっちみやがれクソガキィッ‼︎」
うるさい声。
痛む目の奥を刺激する、不快な声。
頭も痛いし、何より気が散るからすぐに静かにしようと思って、視線を向けて————
————瞬間、身体の熱が一瞬で醒めるのを感じた。
「オラ、ン?」
こっちを見る怯えた視線と目が合って————
————ぼくは、正気に捕まった。
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