そして少年は少女と出逢う


 走っている間にも、事態は進行している。

 微かに聞こえた悲鳴は大きくなり、怯えの混ざる威嚇の声が響いてくる。

 一歩進むごとに空気には血の臭いが混ざりはじめ、今やとても無視できないほどの悪臭となっている。


「いったいどんな出血量なんだ……⁈」


 あまりに濃い臭いに、ついには錆びた鉄の味すら感じはじめた。まるで鼻から血を流し入れられている気分だ。


 しかし、その発生源に着こうかというところで、不可思議なことが起きた。


「っ、…………消えた?」


 思わず立ち止まる。息苦しいのを我慢して、鼻で深呼吸をする…………が、やっぱり消えた。


「臭いが……しない」


 自分がどうにかなってしまったんじゃないかと、かなり本気で疑った。

 けど、事実だ。現にあんなむせる程の悪臭が消えている。まるで最初からそんなものはなかったとでもいうみたいに…………。


 理解の追いつかない状況に、一瞬思考が固まってしまう。

 だから、その気配に気づいたとき、まるで突然そこに現れたのかと錯覚した。


「っ、え————…………」


 咄嗟に身構えたぼくの思考は、まるで予想していなかった出来事にまたも固まる。

 オオカミの獰猛な顔や開かれた顎と予想していた視界には、実際は同じ年頃の少女が映っていた。

 

 腰まで下りた黒の長髪。赤のアクセントの似合う上質な服は、見るからに家格の高さを思わせる。

 ぱちりとした大きな瞳は、服のアクセントと似た真紅の輝きを放ち、まるで宝石のようだ。


 相手の存在に驚いているのは、ぼくだけじゃなかった。

 その驚愕の色を隠さない瞳と視線が交差した瞬間、何か無視できないおぞましさと悪寒が湧き起こり…………次の瞬間には霧散していた。


「き……みは…………」


 かろうじて出た言葉は、驚愕と緊張の弛緩を器用に両立する、フニャフニャとした声。

 いや、なんかちがう……?

 フワフワとした気分だ。ボーとするけど、不快じゃない。

 警戒心がかき消されてく音が、どこか遠くに聞こえる。

 本能が掻き鳴らす警鐘も、どこか他人事に感じる。

 握っているはずの剣の感触も遠い彼方だ。


「びっくりしたぁ……なんで気づかなかったんだろ。そもそもルミィナの結界をどうやって…………」


 少女は首を傾げながら、何かを懸命に考えている。

 しかし、結局答えは出なかったのか、それとも今やることではないと思い直したのか、少女は軽く首を振って思案するのをやめにした。


 目が合う。


「槍はいっぱいだし……融かすのが1番……かな?」


 なにかしら答えが出たのか、少女はスッとこちらに手を向けてくる。

 その眼はいつの間にか、まるで温もりを感じないものに変わっていた。


「じゃあね」


 ひと言。そのたったひと言を境に、全身を死の気配が叩いた。


 ここから一瞬でもはやく脱しなければならないという確信じみた直感が、汗に、震えになって逃走を促す。


 不意に、頭の中にナニカが割り込む。


 ————逃げてはならない。彼女はそれを望んでいない。


 すぐに汗がひき、震えも止まり、何を恐れていたのか分からなくなる。


 ただ、自分が終わりだということだけを知っている。

 そんな感じ。

 何もかもが空っぽで、無気力な感覚。

 何に抵抗しようとしていたのかわからない。

 抵抗の仕方すらも思い出せない。


「————あ」


 今にも終わりを迎えようとする視界には、こちらに意識を向けている少女。

 その背後から、禍々しい単眼のオオカミがゆっくりと迫っているのが見えた。


 ぼくの知っているあのオオカミよりも、その体躯は一回り大きい。こんなのに襲われたらどうなるかなんて、いちいち考えなくとも分かる。


 ——助けないと!

 瞬時に浮かんだ考えは、身体に届く前に遮られた。


 ————彼女はそれを許していない。


 頭に割り込むそのナニカは、すぐに思考を止めようとする。

 こうしてる間にも、あのオオカミは少女へと近づいている。そのひとつだけの瞳を憎悪に染めて、確実な間合いまでにじり寄ろうとしている。

 いまだ、いま、動かないと。


 ————彼女はそれを許していない。


 ……るさい…………。


 ————彼女はそれを……、


「っ! ——うるさい‼︎」

「えっ⁈」


 唐突に、感覚が帰ってきた。

 身体は形を取り戻して、どうすればどう動くのか、考えなくても知っている。


 さっきまで自分がなにをしていたのか思い出せないけど、そんなことは後だ。


「危ない! ————シッ!」

「グャギャッ⁈」


 今まさに飛びかかられようとしていた少女の横を一足ですり抜け、その踏み込みを刺突に繋ぐ。

 その一撃はオオカミの勢いも助けになって、深く首と胸の間に突き刺さった。


「ッぷぇぐ⁈」


 ただ、それだけじゃ飛びかかったオオカミの身体は止まらない。ぼくは致命傷を負ったオオカミに体当たりされる形で、背中から地面に潰される。

 剣は身体に刺さったまんまで、地面とオオカミに挟まれた体勢でこれを引き抜くのは無理だ。


 そして、視界はオオカミの血塗れの顎下を見上げている。


 死んだ。


 言葉が浮かぶと同時に、自分の頭が噛み砕かれるのを幻視した。


「——はぁッ、はぁッ、はぁッ、はぁッ……!」


 息が苦しい。

 心臓は早鐘を鳴らすばかりで、うまく力が入らない。

 まるでオオカミを跳ね除ける力を、自分を動かすことに使ってしまってるみたいに。


 目を硬く閉じる。確実に来る痛みへの恐怖に、必死に抗った。


 …………………………………………まだ、痛みはやってこない。

 視界は真っ暗で、耳には低く弱々しい、けれども憎しみのこもった唸り声。


 恐る恐る細目を開けると、視界はさっきとほとんど変わってなかった。


 唯一の変化は、オオカミの顔が少女の方を向いているという一点だけ。

 魔物に睨まれている少女の表情は、この位置からだとオオカミの顎がジャマで見えない。


 そうしている間にもオオカミの呼吸は徐々に弱り、頭はゆっくりと下がってきて…………やがて力尽きた。


「うっ! ふぬ!」


 力尽きたオオカミに完全に塞がれた視界。

 なんとか抜け出そうとしても、疲れと安堵で参っている体だと難しい。


 重い身体に胸が圧迫されているせいで息が苦しいのも、うまく力が入らない原因の一つだった。


「ぐぅぅ~~~~~~…………ったはぁ! ふんっ~~~~……————ぅおぅあ⁈」


 なんとか抜け出そうと悪戦苦闘している中で、いきなり体にのしかかっていた重さが消えて、視界が明るくなる。


 圧力が急になくなって肺が驚いたのか、ぼくは状況の確認もよそに何度もむせた。


 すこし遅れて、重量を感じさせる音が頭上に聞こえて、同時に小さな振動を感じる。

 見上げるような姿勢で視線を向けると、あれだけ重たい身体のオオカミが、石ころでも投げたような離れた位置で横たわっているのが見えた。


 その姿はとても不自然なもので、まるで本当に放り投げられたみたいで……。


「…………あっ、そうだ!」


 呆けている場合じゃない。

 あの子だ。

 魔物に襲い掛かられて、睨まれて……きっと怯えてる。

 どんな言葉をかければいいのか分からないけど、ぼくと同じ迷子なら放っておく訳にはいかない。


「……………………」


 その子は、探すまでもなく目の前にいた。

 肘をついて上体を起こした状態のぼくと、その目が合う。


「だい、じょうぶ……?」

「………………………すごい」

「……あの、…………う?」

「すごいすごい! 私の『眼』も破って、助けようとしてくれたんだ!」


 突然、その子ははしゃぐ子供のような声で、何かを喜んだ。そこには人形みたいな無機質な雰囲気はなくて、見た目以上に幼くすら思えるほどの純粋な女の子がいた。


 女の子は機嫌をそのままに、グイイと体ごと近づいてくる。その距離感に、ぼくは挙動不審にならないように努力しないといけなかった。


「ね、ね! 『邪神』って聞いてどう思う?」

「っ……、それ『偽神』のこと? ……その呼び方はやめた方がいいと思うよ。ぼくは平気だけど、そうじゃない人の方が多いし……こわい思いをすることもあるから……」


 嫌な思い出を浮かべながら、ぼくは少し咎めるような視線を向けた……つもりだった。

 けど、当の本人はむしろ、どういうわけか瞳を輝かせている。


「……ん?」


 その瞳の色は、黒。

 それに、一瞬違和感を感じたのは……なんでだろう?

 何かが違うような……。

 珍しい色だったから? いや、珍しいけど、見たことがないことはない。


 その違和感に意識を向ける前に、女の子が口を開いた。


「わぁー! やっぱり洗脳もされてないんだ!」

「————————」


 その言葉に、心臓が跳ねた。

 なんでそんなことまで知っているのか。


 少女はいたずらが成功したような表情で、悪意ひとつない顔を向けてくる。

 逆にぼくは、隠していた悪事がバレたような、嫌な感覚がした。


「…………キミは……?」


 その問いは、ぼくの口から勝手に漏れたものだった。

 普通超えてはいけないラインを軽い調子で踏み越える突拍子の無さや、ぼくが強い衝撃を受けた『洗礼』の事実を知っている得体の知れなさ。

 そんな、どこからなにを訊けばいいのか分からない中で漏れ出た問いに、少女は満面の笑みで答える。


「ルカ! それが私の名前。いい名前でしょ?」


 胸を張って、宝物を自慢するように名乗った少女。


 ぼくとルカの出会いは、こんな奇妙なものだった。

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