父に見た幻想
周りの空間を鉛が満たしたような、ゆっくりと、けれど確実に流れる時間。
どれだけあがいても結果は変えられない。
こんなにゆっくりと、手に取るように見えているのに、打てる手立てはなにもなかった。
だから、この時間は拷問だ。
確定してしまった結果を、こんなにまざまざと見せつけられてる。
ぼくに出来るのは、これから確実にやってくる衝撃と苦痛を想像することだけ。
————そのはずだった。
「————ッ⁈⁈⁈⁈」
凍りついた時間の流れ。それをまるきり無視した速さで銀色の槍が飛来して、迫り来る巨体に突き立ち、貫いた。
直後、硬直したその横顔に膝が着地し、巨大な猪の身体を地面にめり込ませたまま数メートルを引きずって停止した。
轟音と土煙。
猪の顔面で除草された、帯状に伸びる血色の地面。その先にある人影は、とても見慣れた形をしていた。
猪の顔は半分潰れたようになり、割れ目からは中身がこぼれている。
それを確認してから、飛来した人物はゆっくりと槍を引き抜いた。
「お父、さん…………」
お父さんは答えない。肩は上下して、まるで限界を超えて走ったみたいに速い呼吸を繰り返している。
こんなに疲れた姿を見たのは、初めてだった。
いつも笑顔で、余裕を欠かさない。突然の出来事も、まるでいつもの日常で、慣れた作業みたいに対処できてしまう。
それがぼくが見てきたお父さんだ。
——本当に、危なかったんだ。
この時になって、ぼくはようやく理解した。
お父さんは、人間なんだ。
知識としては知っていた。当たり前だ。
けど、それ以上にお父さんは『聖騎士』だったんだ。
こんなにも余裕のない姿に初めて、ぼくはお父さんに『人間』を感じていた。
いつも、どこかに甘えがあったと思う。
どんな状況になっても、必ずお父さんが助けてくれるという、甘え。
それがどんなに危険でひとりよがりな考えなのか、その肩が上下する度に突きつけられている。
槍に体重を預けてから、お父さんはずっと沈黙していた。
その初めて見る姿に、ぼくもなにを言っていいのか分からなくて、ただただ罪悪感に息が苦しくなる。
しばらく、お父さんの背中を見る時間が続いて……。
そして呼吸が落ち着いたころ、振り返ったお父さんは口を開いた。
「————アトラ。お前は……お前は、先日あんな目にあったというのに、何も学ばなかったのか……⁉︎ 勝手に行動して、その危険も頭になかったのか⁈ お前には聖騎士に最も必要なものが欠けている‼︎ 今のは確実ではなかった……死んでいたかもしれないんだぞ…………」
絞り出すようなその声は、震えていた。その顔は、息子の死という悪夢に青ざめていた。
その声も、顔も、全部がぼくのせいで…………。
「ごめ……なさい……」
のどの奥が熱くなって、声がつっかえた。
お父さんはしばらく沈黙してから、『今日のことを決して忘れるな』と言って、傷だらけになった牡鹿の解体に入った。
ぼくは黙ってその作業を見て、時折渡される肉を受け取っては、まだ残るその体温を感じた。
解体に必要な時間は、想像していたよりずっと短いものだった。それは単に、お父さんの手際が良かっただけじゃない。この牡鹿の身体に傷が多くて、あの猪の牙による傷が中を強く傷つけていたからだ。
両手に持つシカの命を見る。
あんなに大きな身体から、ぼく1人で運べるだけの糧しか得られなかった。
本当は、もっと……なのに…………。
「アトラ」
頭にポンと手が乗せられて、その軽い衝撃で涙が溢れた。肉の量なんて、問題じゃない。ただ、本来と比べてこれだけしか受け取ってあげられないのが悲しかったし、守れなかったのが悔しかった。
命をムダにする生々しさが、辛かった。
「その気持ちは無くすなよ?」
「うん……」
解体されて、生き物から物になったシカの姿を頭に焼き付ける。これで、ぼくの初めての狩りが終わった。
その後、ぼくとお父さんは会話もあまりしないで村長さんと合流した。ぼくたちが見えるなり顔を引きつらせた村長さんの視線は、お父さんの方を向いている。
「ナ、ナクラム様……ソレは…………」
お父さんの背には、いらない内臓を落とされた猪が背負われていた。
シカの解体を終えてから、お父さんは今から解体を終えるには時間がかかると言って、その場で簡単な処理だけ済まし、後は村に持ち帰ってから続きをすることにしたのだった。
そんなのできっこないと思ってたけど、現に山道をここまで運んだお父さんの息は大して乱れてもいない。
こうなれる日が、いつか来るのかな……。
最近のぼくは、ほんの少しの焦りを感じているのだった。
村長さんの折りたたみ式の背負い籠を借りて、抱えていた鹿肉を丁寧にしまう。肉の量の少なさに首をかしげていた村長さんだったけど、何かを感じたのか、そのことに関してあまり聞いては来なかった。
ただただ、初めての狩りの成果を喜び、肩をポンポンと叩きながら祝ってくれた。そのおかげで、なんとなく胸にあった冷たいものが溶けて、ぼくは森に入って初めて笑った。
そして森を村へと進み、もうすぐで帰れるというころには、もう陽は山の向こうに隠れて紺色の山影が辺りを覆っていた。
そんな中で見下ろす村はいつもとは違う雰囲気で、立ち止まった村長さんの隣で、しばらくぼーっと眺める時間が過ぎていく。
「————立派なもんじゃなぁ」
ぽそりと、ひとりごとのようにクワンさんは言った。
「儂がアトラくんくらいの頃は、毎日いたずらばかりでの? そりゃぁ大人を困らせとった。よく村の作物を勝手に食べては引っ叩かれたものじゃよ」
細く、懐かしむような視線は、セトナ村へ向けられている。ただ、その目が映しているのは、きっとあのセトナ村じゃなかった。
クワンさんは懐かしむ目をそのままに、時々何度も頷いていた。そして、少しの間を置いてから——
「うん……立派なもんじゃ。爪の垢を煎じてアレに飲ませてやりたいくらいじゃよ」
そう言って、困ったような笑みを浮かべながらぼくを撫でた。
「実はの、修道会から呼び出しがあったんじゃよ」
「え?」
唐突に出てきた単語に、聞き返す。
セトナ村で生活をしてきて、村の人からその単語が出てきたことなんて今まで1回もない。
「内容は、アトラくんの人格についてを6神様の名の下に偽りなく述べよというものでの……今後は定期的に町に行くことになるじゃろう。もう試験は始まっとるらしい。なんとも気の早いことじゃ」
「それって……修道院の……」
クワンさんが言っているのは、シグファレムの4分の1の修道院を統括する聖カノテアン修道会のことだ。
ぼくの場合、お父さんの推薦ということもあってか、どの修道院に入るのかを修道会が決めることになっていると、随分前に教えられていた。
その中で修道院に入るには人格調査を通る必要があることも聞いてはいたけど、こんなに早くから始まるなんてまさか思わない。
「6神様の名の下にと言われては、儂も脚色なく真実を伝える他ない訳じゃが——」
そこでクワンさんは1度ぼくを見て、フッと優しい笑みを浮かべた。
「——アトラくんの人格はよぉ~く知っとる。教養も礼儀もあり、優しさを持ったよくよくできた子じゃ。おかげで儂は胸を張って修道会の呼び出しに応じられる。心配することはないからのう」
「あ、ありがとうございます……!」
「本当はもうすこしはやく伝えたいと思っておったが、人格調査のことを知ると良からぬことを企むアホウに心当たりがあるでな。すこうし強引に機会を作ってしまった」
そう言って、クワンさんは一瞬顔をしかめて「すまんのう」と、小さくつぶやいた。
そしてその謝罪の意味を尋ねるより先に、クワンさんは歩みを再開する。
ぼくはその背中に疑問を投げかけることはしなかった。
セトナ村にぼくを貶めるような人はいるはずが無いし、何よりもクワンさんの言葉が嬉しくて、浮かんだ疑問はすぐにかき消えていた。
その後村に着くころには辺りはもう完全に暗くなっていて、村に戻ったぼくたちを真っ先に出迎えたのは、帰りの遅いぼくたちを探そうと集まっていた自警団の人たちだった。
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