一本の槍
「よし。後は私の魔力を流して——」
庇護対象であるクワン氏を中央に配し、4方には銀の細い杭が打ち込まれている。
聖騎士ではあるが、〈聖障結界〉を張るのは不得手としている自分は、こういった道具の補助を受ける必要があった。この『聖域杭』は、そのひとつだ。
体内の魔力が術式に従い杭へ作用すると、清浄な空気が場を満たし、穢れを否定する聖なる守りが現界した。
「ほおおぉ……!」
結界を目の当たりにしたクワン氏は目の前の光景に驚愕の表情を浮かべ、その場に跪き祈りを捧げる。
珍しいことではない。神秘を目にすれば、誰しも神を色濃く感じるものだろう。
とはいえ、邪魔する様で忍びないがこちらも急ぎだ。
「クワンさん。結界は張り終えました。私はこれより息子と共に奥の様子を見てきます。私が戻るまで、決して中から出ないで下さい」
「お、おぉ、儂としたことが申し訳ない。つい神聖な気にあてられてしまいましてな。これだから歳は取りたくないんじゃ……………………ナクラム様、アトラくんはどこに……?」
「アトラ? ……アトラ! ————しまった‼︎」
辺りを見回してもアトラの姿はない。
それがなにを意味するのかを理解して、心臓が跳ねる。
「っ——!」
何事かを言っているクワン氏に目もくれず、すぐに息子の後を追う。
おそらく息子が向かったのは声のした場所のはず。一見長い距離だが、走ってみればそう時間はかからないだろう。
(途中で追いつくのは無理か……⁈)
もはや気配を隠すことはしない。足音を殺すこともしない。下草の生えた足場を踏みしめ、抉られたような跡を残しながら疾走する。
一足進むごとに、巻き上げた土が樹々の葉に当たって、ザアッ、ザアッという音を立てた。
「くっ⁉︎ 聖痕が……」
肩の聖痕がわずかに疼くのを、冷や汗と共に知覚した。
その感覚はあの時と同じだ。アトラが狼に襲われた時と、まるで同じ反応をしている。
近くにいる家族の危険を、否が応でも伝えてくる。現実を受け入れ、踏み締める足に更なる力を込める以外に選択肢はない。
この瞬間にも、息子の身体は宙を舞っているかもしれない。なにかに押しつぶされているかもしれない。
頭の中に、苦悶の表情を浮かべて、しかし最後まで諦めず、父の助けを待っているアトラの姿がいくつも、あらゆる場面で浮かぶ。
振り払おうとしても、現にこれは妄想でない可能性を告げる聖痕が、考えるのをやめさせてくれない。
これが杞憂ではないという現実が、さっきから鳩尾をジリジリと焼いていた。
「ッ‼︎」
速度を上げる。普段隠れている聖痕は今や淡い光を放ち、身体能力を引き上げる。今この瞬間、この身体は聖騎士ナクラム・ヴィント・アーカーの性能を最大限に振るっていた。
前方にある森の樹々が、一瞬で遥か後方へと濁流の如く流れ去る。
こうなると障害となる樹々を避ける余裕はない。
「————————」
迫る太い樹々に、右手に携えた聖槍を合わせる。
バヅッという破裂音にも似た音と、抵抗感。
次の瞬間には、断ち切られた樹々の倒れる音を背中に聞いていた。
止まらない。
止まる訳にはいかない。
「————見えた!」
そして、ついに前方にその背中を捉えた。ここ1、2年の間に随分と大きくなってきた、息子の背中だ。
家を数ヶ月留守にして帰ると、その度に大人になってきているのを実感させてくれる成長が頼もしかった。
それと同時に、そんな息子の変化が分かるほど家を空けている事実に寂しさを感じる……そんなアトラの背中だ。
しかし、その背中も前方にいる黒い巨体の前には余りに小さく、頼りない。
「————⁈⁈」
悲鳴を上げなかったのは奇跡だった。
キリキリと痛んでいた胃が、息子の危機に収縮する。
全身に緊張が伝わり、視界から情報を得た脳は『息子を救う』という考えから、すぐさま『敵を滅ぼす』というものへと切り替わる。
その間にも、黒い巨体はアトラに迫りつつある。
アトラも上手い。フェイントを交えた回避行動という、日々の教えを見事に活かし、自分にできる最大限の動きを見せている。
だが、それでは足りない……。
猪は見た目以上に身軽なのだ。
予想は的中し、視界の奥でアトラは無防備な背中を突進の軌道に捉えられてしまっていた。
————どうする。
頭には凡ゆる手段とそこから予想される結果が幾重にも重なり、展開されていた。
あの猪をこの距離で殺せるか?
可否で言うなら、それは可能だ。
この距離は既に間合い。槍の投擲で、あの命を奪うことは容易い。例えあの体が倍の巨体であろうと、殺すだけなら問題ない。
そう言い切れるだけの経験をしてきた。
だが、ただ殺したのでは駄目だ。
それでは、あの巨体は止まらない。
命を失おうと、依然として速度は保たれる。
命を失おうと、あの鋭い牙が収まることはない。
アトラの命を奪うのが、生きた猪になるか、その死体になるかの違いにしかならないだろう。
必要なのは、あの巨体の軌道を変えるほどの衝撃だ。
突き立つに留まらないほどの高い威力がなければならない。
……それも可能ではある。
あの巨体を吹き飛ばす程度であれば、聖印の力を用いれば今すぐにでも可能だろう。
だが、これもまたできない。
あの巨体を吹き飛ばすだけの投擲は、あの猪を一瞬で貫き、大穴を空け、その進行方向に巨体を浚うだろう。
…………そして、それで終わらない。
それほどの投擲による余波は、確実に守るべき息子へと襲いかかる。
聖印に加減という概念はない。
つまり、槍の投擲による解決は図れない。
ある一件で力の大半を失う前のアリシアなら、こんな時に適した魔法を使うのだろう。
だが、今のこの身にそれはない。
なら————
数瞬の逡巡。
その間にも事態は悪化する。
————やるしかないか。
「————」
主の意図を察した様に、聖痕が呼応する。今までの比にならないほどの恩恵が全身を活力で震わせた。
その全ての力をかき集め、一点へと集中させる。
これから行うことに最適な状態へと、準備は一瞬で整った。
槍を飛ばすのが不可能ならば、自身が槍となり跳べばいい。
それが自分の出した結論だった。
出来ないなどあり得ない。
失敗などあり得ない。
聖騎士ナクラム・ヴィント・アーカーに、家族の命を守る為に出来ないことはないのだから!
「————ダァアッッ‼︎」
あらん限り、全ての力を解き放ち、足場を陥没させることでこの身を投擲する。
跳躍というにはあまりに凶悪な轟音。それはもはや爆音と言って差し支えないものだった。記憶を辿っても、これほどの力で地を蹴ったことはない。
1秒にも満たない瞬間を、聖騎士ナクラム・ヴィント・アーカーという一本の槍は空を裂き、その右腕を突き出して着弾した。
立ち込める砂煙と、土の雨。
煙の晴れた時、そこには目に光を失った巨大な猪が、太かった首の後ろ半分を失った姿で倒れているのだった。
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