尊きものへの冒涜


 ほぼ同時に放たれた2本の矢は、それぞれ雌雄のシカを見据えて空を裂く。

 しかし同時に放たれたはずのそれは、射手の技術によるものか、届く頃には僅かな差が生まれていた。

 

「あっ……!」


 視界で小さくなって飛んでいく村長さんの矢は、ぼくの矢よりも早く牝鹿の脇腹に潜り込んだ。

 パッと跳ねた2頭のシカは、弾かれたように駆け出す。そのとき、立派な枝角をもった雄のその後ろ脚に、ぼくの放った矢は今さらになって突き立った。動かれたことで、急所を大きく外して。

 ……失敗だ。


 牡鹿の後ろ姿は、こちらを振り向くことなんてせずに一直線で斜面を駆け上り、その向こうに消えてしまった。

 それを呆然と見つめてから、我にかえる。


「村長さんのシカは⁈」


 3人で急斜面を滑るように降りる。餌場には赤い液体がこぼれ、確かな致命傷を与えたことを示していた。

 血は点々とこぼれている。滴るというより、本当に絶え間なくこぼれ続けた感じだった。それはずっと続いていて、ついには斜面を上がっていった。

 血痕をたどるように視線を上げると————1頭のシカが、斜面の途中で力尽きていた。


「すごい……」


 静かな興奮に急かされるように、ぼくはシカの近くまで駆け寄った。


 狙うときと違い、目の前にしたシカはとても大きくて、息絶えてもなお存在感がある。こんな大きな生き物が矢の一本で倒れたのが、なんだか信じられない。

 そして、致命傷を受けてもこんなに走ったという事実もまたぼくを驚かせた。


 触れてみれば、当然だけどまだ熱い。間違いなく今さっきまで生きていたシカなんだ。


 後ろの2人が何かを話しながら歩いてくるまで、ぼくは目の前の大きな身体から手を離せなかった。その姿を側から見れば、きっともう失われた鼓動を探しているみたいに見えたと思う。


「よし。アトラ、急ぐぞ!」

「あ、え……?」


 そのまま解体が始まると思っていたぼくは、お父さんの言ってることが一瞬分からなかった。


「牡鹿を追うんじゃよ。傷つけた以上は仕留めてやらんと、いたずらに苦しめるだけじゃ。あんな傷でも膿めば死んでしまう」


 続く村長さんの言葉で、ハッとする。

 そうだ、ぼくが始めたことだ。最後まで仕留め切ることが、傷をつけた者の責任なのかもしれない。


 思考を切り替えて、シカの逃げた先を見据えて走る。すぐ後ろに村長さんをおぶったお父さんがついて来る。その2人を先導しながら、ぼくは自分のせいで手負いになった牡鹿を追った。



- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -



 斜面を登り、凹地を抜ける。少し高くなっているところから牡鹿を探しても、樹々が邪魔でよく見えない。

 ただ、追いかける手段は残されている。


「…………血?」


 よく目を凝らしてみると、微かに残された小さな痕跡。

 それは森のさらに奥に続いていた。


「走っていたんだな。足跡が分かり易い。この調子で走っているのなら、随分奥まで行っているか。走る必要があるな」

「まだまだかかるようじゃ。ナクラム様、重ければいつでも置いてくだされ」

「ははは、この程度で疲れはしません。聖堂騎士団の訓練には、自らの相棒である馬を担いで行うものもあります。聖騎士になる以前の頃ですが、私の得意とする訓練でした。それに比べればこの程度、準備運動にもなりませんよ」


 お父さんが聖堂騎士時代の話で村長さんを安心させようとする。だけど、その話を聞いた村長さんの表情は驚愕に引きつっていた。お父さんの思い出話には、時々とんでもない話がある。小さい頃からそんな話を聞いて育ったぼくにとって、やっぱりお父さんは英雄だった。


 視線を前に戻して、シカの追跡に意識を戻す。シカはきっとまだ走っている。ある程度距離を縮めるためには、ぼくたちも走って追いつかないといけない。


「アトラ。脚を負傷しているシカは必ず休もうとする。どこかで座り込むはずだ。そこで今度こそキメるんだぞ? 落ち着いて狙えば当たる。大丈夫だ」

「……うん」


 お父さんの言葉を背中に受けて、いよいよ追跡を始めようとしたとき、森の向こうからシカの甲高い声が聞こえた。


「——っ⁉︎」


 それはまさに悲鳴だった。命が潰える直前に絞り出された、興奮と苦痛、そして恐怖の詰まったその声は、あるいは断末魔と呼べるものだったかもしれない。


「お父さん!」

「……クワンさん。危険かも知れないので、少しここで待っていて下さい。念のため〈聖障結界〉を張っておきます。結界から出ずに————」


 お父さんが走り出すのを待たずに、ぼくはすぐに駆け出していた。下草を音を立てて踏みしめて、森の奥へ奥へと進んでいく。


「ハァッ、ハァ、ハァ、ハァッ——!」


 はやく、はやく、はやく、とにかく走る。

 走って、走って、息も苦しくなって、服が汗で重たくなるくらい走ったとき、急に開けた場所に出ていた。


「————————」


 そこは樹々もまばらな、下草の平原。すこし形の崩れた円形に広がる平原には、奥に小さな池も見える。


 そんな開けた場所の、何も視界を遮るものの無い場所で、牡鹿は横たわっていた。

 その身体は後ろ脚以外にも、横腹に大きな裂けたような傷が開き、間違いなくそれが原因で死んでいるのは疑いようがない。

 表情はあんな悲鳴を、断末魔を挙げたとは思えないほどのうつろな死に顔。


 そしてその身体は不規則に、痙攣するみたいに動いている。……いや、違う。んだ。


「大きい……!」


 牡鹿の身体を執拗に何度も突いているのは、体高がぼくほどもありそうな大きな猪だった。

 大きな牙をもつその猪は、何がそんなに憎いのか、執拗に、何度も何度も殺したはずの死体を傷つけている。


「この……やめろ!」


 自分でも、何でこんなに怒りが込み上げたのか分からない。それでも、何か大切なものを冒涜された気持ちがして、ぼくはすぐさま弓に矢をつがえる。


 大猪はギョロリと血走った眼を一瞬向けると、すぐに興味を失ったように、また冒涜を再開した。


「っ⁈」


 弓弦を引き絞る。狙いは興奮のせいでうまく定まらない。

 だけど、それでもいい。当たりさえすれば。あの行為をやめさせることさえ出来れば。


 矢を放つのに、躊躇はなかった。

 

「プギギュ……ッ⁉︎」


 偶然にも、矢は大猪の側頭部に命中した。

 突然の不意打ちに驚いた大猪が、見た目に似合わない声を上げる。


 けど、それだけだった。大きなシカだって仕留められる矢は、硬いものに当たる音を残して、突き立つことなく地面に落ちる。

 血走った眼が、ぼくを睨んだ。


「……………………」


 今さら、危険な状況だと気がついた。今から矢を取り出して、つがえて、引き絞って、放つ……無理だ。そんな時間はもうくれない。

 

 大猪の頭がこっちを向く。

 ぼくの武器は弓を除けば、腰にある短剣くらい。

 

 弓を投げ捨てて、腰から残された唯一の武器を引き抜いた。…………小さい。ジャマな枝を払うには頼もしい重みの短剣が、大猪を前にするとまるでペーパーナイフでも持ってるみたいに軽く感じる。

 戦うには、あんまりにも頼りなかった。


 大猪の体が一瞬沈む。

 ————クる!


 大きく太った猪は、その重く鈍そうな見た目を裏切る速さを見せた。

 みるみる巨体が迫り、その圧迫感に体が硬直しようとする。心が諦めようとする。


 そんな弱気に鞭打って、ぼくは必死に思考を巡らせる。

 まず殺すのは無理だ。ぼくの手にある短剣じゃ、きっとどうやっても致命傷を与えられない。

 だから、今は少しでも粘って、傷つける。そうして嫌がってくれて、攻撃を緩めてくれればいい。


 とにかく、まずはこの突進をなんとか回避しないといけない。横に走ってかわすなんて、論外だと思う。絶対に軌道を変えてくる。足だってあっちが速いんだから、逃げ切れないしかわせない。

 やれるとしたら、ギリギリまで引きつけて一気に横に身を投げること。これなら…………いけるはず。


 方針を決めるのと、引きつけるギリギリのタイミングはほぼ同時だった。

 右に一瞬フェイントをかけてから、思いっきり左に身を投げ出す。


「——フッ‼︎」


 時間がゆっくりと流れる。

 大猪は一度、ぼくのフェイントに乗せられて軌道を変えた。そこまでは、身を投げ出す直前に見えていた。


 ただ、嫌なチリチリとした感覚を覚えて、ぼくは時間と同じ鈍い動きで、ゆっくりと首だけで振り向く。

 焦らすように遅い動きで変わる視界の端に、大猪の顔を正面から見た。


「な————⁈⁈」


 あり得ない急制動。

 大猪は一度は軌道を変えながら、無理やりにもう一度軌道をねじ曲げて、ぼくの背後目掛けて加速していた。


 今さらどうしようもない、絶望的姿勢。

 ぼくはすでに身を投げ出して、この体は次の瞬間には地面に倒れようとしている。

 かわせない。……どうにもならないのを、体に反して動ける頭で、理解してしまった。

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