お見舞い
夜が終わり、山の向こうから溢れる光が空の闇を裂いて行く。森がにわかに活気を取り戻し、鳥たちのさえずりはやまびことなって村に落ちる。
空気は澄み渡り、山や森からの朝特有の匂いを運ぶ。
その空気を深く吸い込んで、カロンは朝の眠気を追い出した。
「…………フー」
吐いた息は一瞬白くなり、すぐに形を失った。
朝が冷えるようになってきた。もう少しすると猪狩りの季節がやって来る。
「う……」
猪肉の味を思い出し、カロンの腹が空腹を訴えた。
カロンのいる場所はセトナ村で井戸広場と呼ばれる場所で、空が完全に明るくなると村の人々が水を汲みに来る。セトナ村の日常的な光景だが、カロンがこの場所にいるのは朝の賑わいに加わるためではない。
「おい……まだかよアイツ……なにしてるんだ?」
空が明るくなっていくにつれて、カロンは遅れている待ち人が来る方向を確認しては、その姿がないことに焦り始めた。
そして数分後、カロンのがまんが限界に達する寸前で待ち人は現れた。
「なにもたついてんだよ……!」
「はあ……、はあ……」
息を切らせながら、シルスはいつもとは違う、髪をリボンでまとめた姿で現れた。遅れた理由を察したカロンは、呆れた表情を浮かべて怒りを収める。
「ここでさわいでても仕方ないか。ホラ、さっさと行こうぜ」
「ちょっと待ちなさいよ、本当によかったワケ?」
「…………なにがだよ」
「オランのことに決まってんでしょ。呼ばなくてよかったのかって言ってんの」
シルスはとぼけようとするカロンを責めるように、詰問調の問いを投げかけた。
「誘えってのかよ、アイツを」
「まだあのことを怒ってて、それが誘わなかった理由なら気持ち悪いってだけ」
シルスの語気は強い。
2人の視線はしばし衝突し、やがてカロンの方から目を背けた。
「誘うも何も、オレが行っても出て来ねーだろ、アイツ。行ったってまた『フクツー』だ。オレはまだあの時のことを許してないし、アイツ自身も会いたくないんだとさ! だったら話すことなんてないだろ」
「そう……わたしのときは『カゼ』だった」
「お前にも会わなかったのかよ…………なにがしたいんだアイツ」
会話はそれで途切れた。
朝の爽やかな空気と相反する空気が降りる。
無言でそうしていると、2人は周りの家からする物音が増えていることに気づいた。空は完全に明るくなっている。セトナ村の夜明けが終わり、朝の賑わいが広場に訪れようとしている。
「はやく行こうぜ! 話しかけられると面倒くせーだろ。走れ!」
「ちょっと! 行くっていってもどうやってアトラくんに会うの?」
シルスは走るカロンの背中を追いかける。後ろからは奥さん同士の朝の挨拶が聞こえた。タイミングとしてはギリギリだったといえる。
「正面の門からはバレるかんな、塀を越える!」
「それで見つかったら?!」
「お見舞いに来たでいいだろ! ほら、もっとはやく走れって!」
「絶対怒られるからね? 知らないから!」
そうは言いながらも、シルスの胸は『走っている』以外の理由でも高鳴っていた。
1つは、もしかしたらあの屋敷の中に入れてもらえるかもしれないという期待から。
もう1つは、アトラという少年に久しぶりに会えるかもしれないという期待から。
「なんだよ?」
「えっ! あ、ううん別に」
頭に浮かぶのは、自分たちを守ろうと戦う少年の姿。あの姿を見てから、とても人に言えない夢を見たりする。
それまではアトラという少年は、何度も夢見たきらびやかな世界の話を聞かせてくれる友人だった。
また会いたいと思うとき、頭の中にはいつもアトラの語る聖堂の様子や街並みへの憧れがあり、アトラ自身への興味よりもそれは強かった。
けど、今は違う。
シルスの中でのアトラは、確実に変わっていた。
「お、見えてきた! ——って、なんだこの音?」
「庭の方……? もしかしてアトラくん!」
「あ、おい!」
– – – – – – – – – – – – – – – – – – – – –
一閃。なんの小細工もなく最短距離を突き進む剣筋こそが、最も単純でありながら、同時に最も苛烈な攻撃といえる。それを避けるために今の行動をやめて、全力で身体を捻る。
「グぅぅっ!」
慣性を無視した急制動に、苦痛が口から漏れ出た。直後に頬を熱が焼き、火傷のようなジクジクした痛みが集中力を奪う。それでも足を踏ん張ってなんとか繰り出した突きは、笑えるほどあっさり躱された。
そして横手からの蹴り上げが身体を襲う。
「横がガラ空き……だッ」
「ベッ——!」
とっさに庇った腕に、絶妙な手加減をされた蹴り足が食い込む。
浮遊……衝撃……回転……。
その中でも冷静に姿勢を確認して、足の裏に感じた硬いものを蹴る。
視界が安定して見ると、直前までいたその場所には土埃が舞い、木剣を振り下ろした格好のお父さんが視線だけをぼくに向けていた。
「ふッ、ふッ、ふッ、ふッ……!」
「アトラ、呼吸を整えるんだ。過呼吸を起こし動けなくなるぞ」
「っ!? あ……」
言われて初めて、自分が呼吸の制御を忘れていたことに気づく。反射的に浅い呼吸を速める肺を押さえ込み、しっかりと吐いて、ゆっくり吸う。
胸に手を当てて、顔は少し上向きに。これが落ち着くためのぼくのルーチンだ。
「すぅ…………はぁあぁ…………」
指先に感覚が戻ってくる。感覚が戻るまで、指の痺れに気がつかなかった。お父さんに指摘されなかったら、ぼくはすぐにでも動けなくなっていただろう。
「……………………ふう」
「……落ち着いたか? ——よし、顔色も戻ってきたな」
「うん、もう大丈夫。続けよう、お父さん!」
今のところ、何度もお父さんに攻撃を仕掛けて、その全てを弾かれていた。こうして目の前に立つたびに、お父さんが聖騎士であることを再確認させられる。
全く隙がない。ない隙を無理やり作るために虚を突こうとしても、慣れない動きに自分が隙を作ってしまう。
だから結局堅実に立ち回ろうとして、やはり攻めあぐねてしまうのを繰り返していた。
お父さんは木剣の構えを解くと、軽く手を挙げて終わりの合図をした。今日はここまで。
「そろそろ汗を拭いて着替えるぞ。アトラの疲労も限界だ————っと、父さんタオルを忘れていたな。持ってくるから、木剣をいつもの場所に立てかけといてくれ。午後に余力があれば続きだ」
「分かった…………」
早口で言い終わるなり、お父さんは足早く家に入っていった。いつもなら閉めないドアを閉めて。
「なんだろ? なんか様子が——ん?」
お父さんの様子を訝しみながらも、とりあえず木剣をいつもの位置に立て掛けようと動かした視線を、何か丸いものが通り過ぎた。
それは視界の端で芝生の上を転がり、止まる。
「石?」
それはなんの変哲もない石だった。だけど、石がこの場所にあるのは不自然だ。家の庭は、お母さんがアリアのためにと石をすべて取り除いている。
「っ」
また石が飛んできて、今度は足に当たる。
飛んできた方向に目を向けると…………塀の外にある木の上で、今まさに石を投げようと腕を振り上げているカロンと、その横でカロンに石を供給するシルスが目に入った。
…………なにしてんの、君たち……?
「……、…………。……!」
なにか手招きでこっちを呼んでいる。
ぼくはまだお父さんが来てないのを確認してから、そそくさと塀を越えようとする2人のところに駆け寄った。
「よっ、アトラ。元気そうじゃんか」
「よっ、じゃないよ! 2人ともなんで——ムグゥ?!」
「アトラくん、見つかっちゃうから……! 声大きい……!」
ぼくはシルスの言葉に頷く。驚いてつい大きな声を出してしまった。後ろを見ると……よし、お父さんはまだ来てない。今さっき家に入ったばかりだから、もう少し時間がかかるはずだ。
「おいシルス、いつまでそうやってんだ。もう大丈夫だろ」
「あっ!」
「——ぷは」
カロンの言葉に、シルスはパッと口から手を離した。
どことなく赤いシルスは不思議に思いつつも、ぼくは初めから気付いていた違和感について聞かずにはいられなかった。
「…………オランは?」
「————————」
質問は2人にしたつもりだ。だけどぼくとシルスの視線は、自然とカロンに向いていた。
カロンは一瞬だけ目をキツく細めて、居心地悪く頭を掻く。
「フクツーでカゼだってよ」
「腹痛と風邪? オランは体調を崩してるのか……」
「真に受けんなよ」
「え?」
イラ立ちを含んだ言葉に、ぼくは一瞬なにを言われたか分からなかった。
驚いたのは聞いた側だけじゃないらしく、言った本人も目を丸くして、ピシャリと自分の頬を叩いてから深いため息を吐く。自分自身を責める様に。
「オラン、私たちに会ってくれないの」
「どういうつもりか知らねーけど、秘密基地での日が会った最後だ。それからずっと引きこもってんだよ」
「そう、なんだ……」
てっきりカロンと衝突したのかと思っていたが、実際はもっと悪い。出て来てくれないと、話すことすらできない。
どうしようかと考えていると、カロンがそんなことよりと続ける。
「んなことより、見たぜアトラ! なんだよすげー強いな! あれが言ってた朝の特訓か?」
「ああ、まあそうだね。ぼくはお父さんが家にいるときは戦い方を教えてもらってるから」
「見てるこっちがハラハラしちゃった。自分の子どもに手加減なしなんて、聖騎士様も結構こわいんだね。となりでカロンが騒がないか気が気じゃなかったんだから」
「はあ?! 声を出してたのはお前だろ! いちいち『あっ!』とか『きゃっ!』なんて騒いでたじゃんか! むしろオレの方が焦ったくらいだ」
その言葉を皮切りに、2人の間で言葉の応酬が始められる。オランがいなくても変わらないそのやり取りに、ぼくは安心感と共に寂しさも感じてしまう。
なんとかオランに会わないといけない。このままはいけない気がする。けどその前に、カロンがオランと会ってもいいかどうか判断する必要がある。
カロンのオランへの憤りは、こうしてふざけている中でさえ忘れられていないように感じられた。
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