洗礼の本質
リビングにはお父さんとぼくの2人だけ。
お母さんは、アリアを見てくると言って外の庭に行った。
……………………静かだ。
お父さんは何かを考えるみたいに目を閉じたまま、もう数分間黙っている。
それでも静かに待っていると、ようやくお父さんの目が開かれた。
その目はいつものお父さんとは違う。
聖騎士としてのものだと、すぐに分かった。
「アトラ、『洗礼』は知っているな?」
「うん。ぼくもアリアも受けたもん」
お父さんが口にした『洗礼』とは、ここシグファレムの国民なら誰もが知っている儀式だ。
この国では子どもが産まれた場合、なるべく早く教会へと赴き、洗礼を受けさせる。
この時に、その子どもはクリシエ教に迎えられ、晴れて教国の国民としての権利を得るのだ。
この洗礼を受けないと相続もできないし、何よりいざと言う時に教会の保護を受けることができない。
教会が町の中心になっている教国では、それは生きていけないことを意味する。
まして教国の国民はみんなクリシエ教の信者だ。受けさせないなんてあり得ないだろう。
「アリアのときは、ぼくも参加したしね。すごく緊張したけど」
アリアが産まれた時も、近くの教会のある町で洗礼を受けさせた。厳かな空気に気圧されて緊張しきっていたぼくに、優しい神父さまがアメをくれたのはいまだに覚えてる。まだ帰りたくないってぐずったっけ……。
「その洗礼だが、アトラとアリアが受けた洗礼は特殊なものだ。本来、『洗礼』は産まれたばかりの子供に信仰心を植え付ける〈儀礼魔法〉だ。それを受けている3人と受けていないアトラでは物事の認識にズレがある。それが、アトラの話したような事態となった原因だろう」
「————え?」
いきなりのことに、頭がついて行けない。
お父さんの口からつらつらと出てくる情報。そのどれもが聞いたことのないことで、同時に、聞き逃せない重大なものだった気がする。
「え、違……う? 植え付け……て、え?」
いきなり与えられた情報を咀嚼し切れていないぼくに、お父さんはもう一度、それを告げた。
「『洗礼』は〈儀礼魔法〉の一種だ。対象に神々への信仰心を植え付け、クリシエ教の教えに『順応』させる」
「え、いや、だって、それって……」
『洗脳じゃないか』————口には出さなくても伝わったのか、お父さんは複雑な感情を目に浮かべる。
それでも、その目は真っ直ぐにぼくへ向けられている。
「アトラ。この『洗礼』によって教国は大陸で最も治安の良い、安定した国であり続けている。レッゾア大陸の3強国に数えられているのも、この『洗礼』のおかげだ。ほらな、怖くないだろ?」
安心させるように、最後にいつもの口調に戻って、お父さんはぼくの頭を撫でた。
「それに2人は〈儀礼魔法〉を受けていないしな。聖騎士の家族は受けないんだよ」
「なんで?」
「アトラは人を騙したり傷つけたりするか?」
「しない」
「だからさ」
そう言ってまた頭を撫でる。なにかごまかされた気がするけど、あえて聞くことはしない。それよりも聞きたいことがあったから。
「お父さん」
「ん?」
「洗礼は……分かった。怖くない、必要なものなんだよね? でもさ、3人がおかしくなったのも洗礼のせいなんでしょ? なんで……おかしくなっちゃったのかな。『邪神』って言ったとたんに、人が変わったみたいになった」
「ああ…………それは父さんが悪かったんだ」
「?」
その言葉の意味が分からず、お父さんの顔を見上げた。
「『邪神』、『偽神』、『始まりの真祖』、『魔王』、『反逆者』…………これらは全て同じ者を指す言葉だ。今も多くの犠牲者を出している魔物の王は、国によって様々な呼ばれ方をされている。その中で唯一神性を認める呼び名の『邪神』は、教国ではタブーになっているんだ」
「だからそれを使ったぼくは不信心者と思われたってこと? でも本では『邪神』って」
「それが父さんの過ちだった。アトラが読んだのはおそらく教国の本じゃなかったんだな。本棚から抜き忘れた父さんが悪かった……」
大きなため息を吐いて、お父さんは肩を落とした。
そして何度も謝ってきたけど、元はと言えば約束を破ったぼくが悪かったんだから、気にしていない。
それよりもぼくがベッドで過ごした3日間、やたらと夜にお母さんの怒鳴り声が聞こえていたナゾが解けた気がする。お父さんのこれを怒っていたのか…………。
「それじゃあ、1つだけお願いを聞いて欲しいんだけど、いい?」
「ああ、なんでも言ってくれ。なにか欲しいものでもあるのか? 父さん結構稼いでるからな、大抵の物は買ってやるぞ? あ、でもアリアには内緒だからな」
「ううん、物じゃないんだ」
今のお父さんなら、ぼくの願いはなんでも聞いてくれるだろう。そこにつけ込むみたいで気は引けるけど、どうしても聞いて欲しい願いがあった。
もう2度と、あんなことを繰り返さないために。
「お父さん、ぼくに戦い方を教えて。人が相手のときだけじゃなくて、魔物が相手でも勝てるように。今までの生き残るための戦い方じゃなくて、護って、勝つための戦い方を教えて欲しいんだ」
「————————」
あの日、お父さんが助けに来てくれなければぼくたちは死んでいた。今朝見た夢が現実になっていたかもしれない。
もう2度とあんなことはしたくないけど、もしもう1度ああなったら、そのときこそは大切な人を護れなくちゃいけない。そのためにも、今までの逃げる隙を作ることを考えた鍛錬じゃなくて、人を護りながら敵を突破して、撃退することを考えた鍛錬が必要だ。
そんな想いを込めたぼくの願いを聞いたお父さんは、一瞬驚いた顔した後、嬉しそうに笑いながらぼくの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「任せろアトラ! ああ、お前は本当に良い子に育ったなぁ、誰に似たんだ? 父さんか? ははははは!」
久しぶりのお父さんの笑い声が、まだ秘密基地の件から離れきっていなかったぼくの意識を日常に引き戻す。ようやく日常に戻れた気がする。あの悪夢も、もう見ないで済むのかな……。
「よし、そうと決まれば善は急げだ。アトラ、木剣を持って庭に出るんだ。父さんがみっちり教えてやろう!」
「うん!」
お父さんの号令と共に、お母さんがいないのを良いことに猛ダッシュ!
階段を駆け上がり、手すりを踏み台にショートカットも挟んでの最短コースを攻めたぼくは、自室の木剣を手にしてリビングへ駆け戻った。
お父さんはいない。もう庭にいるのかな?
「にしても、やっぱりこっちの木剣はしっくりくるや。こっちならもう少しうまく戦えたのかな?」
木剣の感触を確かめながらやる気充分で玄関にたどり着く。するとそこには小さくなったお父さんと、腕を組んでいるお母さんの姿があった。
いやな予感がする…………。
「アリアが庭で遊んでいるのが分からないの? 鍛錬なら朝やれば良かったでしょ!」
「花壇には近づかないつもりではあるんだが…………そ、それにだ! 何があろうとアリアを危険には晒さない! 例えアトラの手から木剣がすっぽ抜けようと、俺であれば止められる!」
「何があろうと? アトラは昨日まで立ち歩くこともできなかったのよ?! ナクラムはアトラのことが心配じゃないっていうの?!」
「ぐ……む、ぅ……」
お父さんは答えに詰まって唸っている。
ぼくのお願いを叶えてあげたいけど、お母さんの言うことも正論で参った……そんな感じだ。
「アトラ?」
「ッ!?」
柱の影から2人のやりとりを盗み見ていると、お母さんの鋭い視線に捕まった。
肩が跳ねて、思わず直立不動になる。
すごい……迫力が、すごい…………。
「駄目だからね————?」
「はいッ!」
こんなにお腹から声を出すのは初めてだったと思う。
お母さんはぼくの返事に納得してくれたみたいで、いつもの優しい顔に戻って、またアリアのいる庭の花壇に歩いて行った。
後に残されたのは力及ばず敗れた聖騎士と、怒られなかったことに胸を撫で下ろしている小心者の2人だけ。
「…………明日にするか!」
「うん、それがいいね」
結局この日は自室で本を読んで過ごし、鍛錬は翌朝からになった。
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