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ProjectTOKI 外伝『Episode:YUKA ~心の柱~』

Episode:YUKA ~心の柱~

 錆び付いた扉を押し、無人の屋上に出た瞬間、冬の冷たい風が男の頬を刺した。十年ぶりの故郷の街の空は、日本海側特有の暗い雲に覆われ、昔と変わらぬ息苦しい閉塞感をもって男をずうんと見下ろしていた。

 飛び降り自殺を図る者はなぜ靴を脱ぐのか――と、いつだったか三文さんもんコラムサイトの与太話で読んだのを思い出す。いざ自分がその立場になってみると、それは極めて合理的な行為であることが分かった。風の吹き付ける建物の屋上で、遺書を飛ばないように押さえつけるには、脱いだ靴がちょうど文鎮ぶんちんに持ってこいなのだ。


「……」


 靴下一枚では遮断しきれない冬のコンクリートの冷たさ、ふと手で掴んだフェンスの冷たさが、針の如く男の感覚を侵掠しんりゃくする。熱さ寒さを感じるこの身体、この生命いのちともあと数秒でおさらばなのだと思うと、寂寞せきばくの念は抑えられなかった。

 妻子もなく、実家の両親からも勘当されている自分には、死をいたんでくれる相手など居そうもない。それでも遺書を用意したのは、せめて他人に余計な迷惑を掛けずに逝きたいと思ったからだった。遺書がなければ、警察の人達は自分の死を自殺と断定できず、無駄な捜査に人手を割くことになるかもしれない。考えづらいことではあるが、無関係の誰かが自分をビルから突き落とした犯人として疑われてしまうかもしれない。

 投資の世界でもバタフライ効果エフェクトということがよく言われる。自分の僅かな行動が社会にどれだけの影響を及ぼすかと考えていくと、なかなかどうして、現代日本で他人に迷惑を掛けずに死ぬ方法などそれほど多くは無いのだということがわかる。自室で首を吊れば大家おおやや他の住人に迷惑が掛かるし、薬物を煽ればそれを提供した医者や業者が責任を問われるかもしれない。線路への飛び込みなど論外だし、雪山での凍死のような、自分が死んだことが何ヶ月も人に知られない死に方も困る。結局、オーソドックスな飛び降り自殺が一番マシだという結論に至るわけだった。


 そろそろ、逝くか――。


 ぎしぎしときしむフェンスに手をかけて、男がそれを乗り越えるべく足を出そうとした、その時である。


「ダメ! ダメダメダメーっ!」


 真っ黄色に裏返った甲高い声が、背後から男の鼓膜を突き刺してきたのは。


「――!?」


 男がフェンスを掴んだまま振り向いた、その瞬間。


「死んじゃダメ!」


 飛ぶような勢いで一目散に駆け寄ってきた何者かの影が、アメフトのタックルを思わせる強烈な勢いで、男の腰あたりに組み付いてくる。

 突然のことに身体が動かず、男はその突進に体勢を崩し、背中をフェンスに打ち付けられた。がしゃんと大きな音が鳴ったが、丈夫な金属のフェンスは皮肉にも本来の役目を果たし、男を転落から守ってくれた。

 コンマ数秒の後に意識が追いつき、男は自分に組み付いてきた者の姿を遅ればせながら認識した。それは小柄で華奢な人影だった。もしも成人男性の全力の突進であったなら、この程度の衝撃では済まなかっただろう。男の腰を両腕で押さえ込み、前のめりに倒れたその影は、そう――

 細い腕に細い脚、白い肌に黒い髪。男自身よりも遥かに非力な、しかし、それでいて強い意思の宿った目でキッと彼を睨み上げてくる、年端もいかない少女だったのだ。


「……間に合って……よかった」


 ここまで階段を駆け上がってきたのか、少女ははぁはぁと息を切らしていた。歳の程は高校生くらいだろうか、人形のような小顔に黒々とした目。だが、きっと笑えば可愛いのであろう彼女の顔は、今は焦りと怒りが混じったような必死の形相に歪んでいた。戸惑う男の顔を険しい表情で睨み付け、声を裏返らせながら、彼女は怒鳴るような勢いで言った。


「なんで、なんで死のうとしてたんですかっ! ダメですよ、そんなの!」

「な、何だよ、キミは――」

「何だじゃないです! 死んだらダメ! 死んだらダメですって、何があっても!」


 彼女はいつの間にか、自身の両手で男の片手を取り、言葉に合わせてぶんぶんと上下させていた。普通の人間なら生涯に一度する機会があるかどうかの、そのおかしな挙動は――

 何故か、妙にどうった動きであるように、男には見えた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「……俺は、東京の投資ファンドに勤めてたんだ」


 少女に手を引かれ、建物を連れ出された男は、市内を貫く川のほとりのベンチに少女と並んで腰を下ろしていた。いいと言ったのに、少女は男に飲み物をおごると言って聞かず、男の手の中には今、半ば押し付けられた自販機の缶コーヒーが熱い存在感を放っていた。


「リーマンショックから業界が立ち直りかけた頃の入社でさ。四年前に始まったアベノミクスの波に乗って、まあ、上手いことやってたんだよ。……わかるか? アベノミクス」

「……あはは、ユカ、ちょっと難しい話は得意じゃないかなー」


 少女は男と目を合わせてけらけらと明るく笑った。飛び降りを決死の形相で止めに掛かった数分前の彼女と、本当に同じ子なのか迷ってしまうほどの変わりぶりだった。


「……何十億、何百億って金を転がしてたんだよ。自慢じゃないが、この歳で」

「何百億~っ!? えっえっ、お兄さん、スゴイじゃん! 石油王じゃん、それ、もう!」

「石油王ではないけど、まあ、ウデはある方だったよ、俺は」


 こんな子供相手に自慢しても仕方がないが、少なくとも男が言ったことは事実だった。実際、同期や先輩達と比べて、自分に抜群の投資の才覚があったことは如実に数字が証明していた。

 だが、いざ切り捨てられてみるまで、男は気付かなかったのだ。いかに才能があろうと、所詮は自分など社会の歯車、使い捨ての駒に過ぎなかったことに。


「……ある時、上司の身代わりで不祥事の責任を負わされて……あっという間に全てを失った。もう死ぬしかないんだよ、俺には。だからキミも、俺と行き合ったことなんか忘れて――」

「だから、ダメだって! 死んじゃったら本当に終わりじゃん!」


 少女が横から男の両肩を掴んで揺さぶってくる。男が首を横に振っても、少女は諦めず男の目をまっすぐ覗き込んできた。


「会社を追い出されちゃったなら、お兄さんが自分で、投資?って言うの、なんかお金儲けるソレしたらいいじゃん。才能あるんでしょ!?」

「子供が知ったようなこと言うなよ。この世界は元手が無きゃ何も出来ないんだ」


 彼女の肩を掴み返して遠ざけ、男は言った。


「投資ってのは、十万や百万で出来ることじゃないんだ。元から金を持ってるヤツだけが金を増やせる――そういう世界なんだよ。貧乏人には金を掴む最初のチャンスすら巡ってこない。この社会はそういうふうに出来てるんだ。金と無縁の世界に放り出されてみて、俺は改めてそれを思い知らされたよ」

「でもでも、ゼッタイお金を増やせる自信があるなら、借金してでもやったらいいんじゃない? ほら、サラ金とか、お金貸してくれるところあるじゃん」

「定職もないヤツに誰が纏まった金なんか貸してくれるんだよ。もういいから子供は黙ってろよ」

「もうっ、さっきから子供、子供って! こう見えて、ユカだって一応、一人前にお仕事してお金稼いでるんだからっ」


 頬を紅潮させて少女が声を張る。出まかせには聞こえないその言葉に、男は思わず目を見張った。どう見ても高校生くらいにしか見えない彼女が、一人前に金を稼いでいるだと……?


「……どうせバイトか何かだろ」

「違うもん。前はバイトだったけど、今は本職のだもん」

「は……?」


 無い胸を張り、えへんと少女が笑顔を作る。男が呆気に取られていると、彼女は「だから」と神妙な顔を作って続けた。


「お兄さんの言うこと、あたしにも分かるよ。ファンの人に注目してもらえるのは、ずっと前からグループにいる先輩達や、最初から人気のある子達ばっかり。無名な子には有名になるチャンスも回ってこない。格差?って言うのかな、人気の子とそうじゃない子の差はどんどん広がっていく。――それでも」


 男の両肩に再び手を載せ、その顔をじっと正面から見つめて、彼女は言う。


「『努力は必ず報われる』って、信じて頑張ってるの。今は暗闇の底でも、誰かがきっと見ててくれるから。諦めずに頑張ってれば、いつかきっと誰かが光を当ててくれるから」


 いつしか彼女の瞳には涙が光っていた。男がごくりと息を呑んだそのとき、彼女の両手が彼の肩から離れ、そっと彼の片手を包み込んできた。


「だから、お兄さんも、死んじゃうなんて言わないで。あの空だって――」


 少女に手を握られたまま、男はつられて空を見る。分厚い雲は晴れる気配がなかった。それでも少女は、黒い瞳を涙に煌めかせ、男に訴えてきた。


「今は曇って見えるけど、あの雲の向こうには青空が広がってるの。どこまでも……世界に繋がる青空が」

「……!」

「だからだから。お兄さんも頑張って生きて。生きて、ユカの出る公演聴きに来て。握手会にも遊びに来て。もう一回お金持ちになって、総選挙でいっぱいユカに投票してっ。お願いだからっ」


 少女の勢いに押され、男は思わず頷いてしまっていた。

 公演とか握手会とか総選挙とか、正直何を言っているのかはさっぱり分からない。だが、この子にこんなに懇願されては、もう、死ぬしかないとは言えそうになかった。


「……わかったよ」


 喉の奥から絞り出すように男は言った。いつの間にか自分の喉も嗚咽で潰されていることに、男は初めて気付いた。

 何故だろう、目元に熱いものがこみ上げてくる。少女に握られていない方の袖口でそれを拭い、男は少女の目を見下ろした。


「もう少し生きてやるよ。……クソッ」


 こんな年端もいかない少女に言いくるめられてしまうのは、全く心外ではあったが――

 生きて欲しいと誰かに望まれることが、こんなにも胸を熱くするものだったのだと、男は生まれて初めて知った。

 この世界でただ一人、この少女だけが、おまえは生きていていいのだと認めてくれたのだ。


「やったっ! やったやった! ユカ、嬉しいっ」


 男の腕を引きちぎらんばかりの勢いで、少女は握った手をぶんぶんと振り回してくる。はあっと一つ溜息をついて、男は言った。


「だけど、握手会? 総選挙? 悪いが、そういう力にはなれないぞ」


 今すぐ死なないとなれば、途端に首をもたげてくるのが金の問題だった。


「……金さえあればな。十億や百億とは言わない、たった一千万だけでも手元にあれば、いくらでも増やしてやれるのに」

「あっ!」


 どうにもならない男のぼやきに、少女は何かを閃いたような顔になって、たちまちベンチから立ち上がった。腕をぐいっと上に引かれ、男は反射的に彼女を見上げる。


「じゃあ、ユカが貸してあげるっ。三千円」

「三千円?」

「付いてきてっ」


 街のランドマークの大橋を渡り、パタパタと早歩きで連れて行かれた先には、宝くじの売り場があった。所狭しと並べられたノボリには、年末ジャンボの売出し最終日と書いてある。


「ねっ、宝くじ買おうよ。ユカがお兄さんに三千円貸してあげるから、お兄さんはそれで年末ジャンボ十枚買うの」

「はぁ?」

「十枚買ったら、ゼッタイ一枚は三百円の当たりが入ってるでしょ? お兄さんは、それでモバイルに入会して、ユカに投票するの。もし三千円当たったら、モバイルのアカウント十個……は作れないから、CD買って投票するのっ。千円で一票。三千円で三票!」

「……そりゃあ、素敵な票田だな」


 男は失笑を禁じ得なかったが、少女は跳ねるような上機嫌さで夢物語を続ける。


「それでねそれでね、一億円当たったら、えっと、一億÷千だから……」

「十万票だ」

「ぎゃっ、すごい。ゆきりんさんに勝っちゃう」


 少女に千円札三枚を押し付けられ、結局、男は言われるがまま宝くじを買わされていた。年末ジャンボの連番が十枚。全く馬鹿げた投資だった。法律に定められた宝くじの回収率は五十パーセント。三百円の投資に対する期待値は百五十円。買えば買うほど額面の半分を損していく計算だ。

 だが、何故か悪い気はしなかった。どうせ、この子に救われた命だ。年明けに戻ってくる三百円だか三千円だかを握り、六月にあるという総選挙まで生きてみるのも悪くない。


「お兄さん、約束だからねっ」

「ああ。約束するよ。この十枚がいくらに化けても、全額、キミに突っ込んでやる」

「うんっ。あ、でも、全額そのまま突っ込むのはダメ。お兄さん、投資の天才なんだから、十倍百倍に増やしてから投票してっ。あとあと、その時はユカだけじゃなくて、ユカの仲間達にも投票してあげてっ」

「はいはい」


 ヘンなところでちゃっかりしている子だ。だが、そんな鬼も狸も笑い転げるような皮算用が、なぜか男も楽しかった。

 生きてやろう、もう少し。自分を救ってくれたこの子のために――。


 街には夜のとばりが下りようとしていた。これからまだ自主レッスンに行くのだという彼女に素直に驚嘆しつつ、別れを告げようとした時、男は大事なことに気付いた。


「そういえば。聞いてないぞ、キミの所属とフルネーム」

「あっ、そうだった! もう、お兄さんのこと引き止めるのに必死で、全然、自己紹介とかしてる余裕なかったもん」


 そして、右手の人差し指を、男の眼前にぴしりと突きつけて――


「いい、しっかり覚えてねっ。あたしは――」


 自信満々の笑みとともに、彼女は所属グループと名前を告げた。


(完)

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