第24話 人生の選択

「――以上が、最終審査に進む七十四名の方になります」


 厳かに締めくくられた審査員の言葉に、萌香もえかはただひたすらに心を震わせていた。こんな展開は、父も母も、そして萌香自身も、全く予想していなかったことだった。

 こんな自分が書類審査を通っただけでも信じられなかったのに。遂に二次審査の面接にまで受かってしまった。イナカの内気な中学生に過ぎない自分が、歌もダンスも出来ない自分が、なんと、NGT48のオーディションの最終審査にまで残ってしまった……!


「最終審査は二週間後、七月二十五日の土曜日に行います。場所については追ってご連絡しますので、当日は必ず保護者の方と一緒に――」


 審査員が大事なことを告げているが、萌香にはその内容の半分くらいしか頭に入らなかった。膝が震えて力が入らない。何かの間違いなのではないかと思った。


「大丈夫? 萌香ちゃん」


 呆然と突っ立っていると、後ろから誰かに名前を呼ばれた。びくっとして振り向いた先には、同じく最終審査に残った受験生の一人が立っていた。上品で美人で、でも溌剌はつらつとしていて――きらりと光るオーラを纏った彼女の呼び名を、萌香ははっきりと覚えていた。


「あ……さん」


 萌香が呼ぶと、彼女は「覚えてくれたんだ」とはにかんだ。


「そのニックネーム、友達が付けてくれたんさ。最初は恥ずかしいからやめてよって言ったんだけど、やっぱり、インパクト強そうだから使っちゃった」


 かとみな――加藤かとう美南みなみの笑顔に、萌香も自然に笑みを返していた。ニックネームを覚えれば同時に本名も頭に入ってしまう。秀逸な呼び名だと思った。

 自分だったら「たかもえ」になるのだろうか。変な語感だ。でも、二人揃ったらだな……。

 などと萌香が考えていると、美南はふと、萌香のカバンに付けた缶バッジを指差してきた。


「それ、前田敦子さん?」

「ハイ。ずっと大好きだったんです、あっちゃん。……あの、美南さんは? 誰が推しメンなんですか?」

「わたしは……あんまりAKBのことはまだ詳しくなくて」


 美南の答えに、萌香は思わず首をかしげていた。AKBに詳しくないのにこのオーディションを受けに来るというのが、萌香には不思議だった。

 だけど、目の前の彼女の笑顔には、そんな些細な疑問を吹き飛ばしてしまうほどのオーラがあって。

 きっとこんな子がセンターになるんだろうな――と、萌香は理屈抜きに思った。


「でも、強いて言うなら、高橋みなみたかみなさんかな」

「かとみなだから?」


 萌香が言うと、彼女はくすりと笑った。


「昔、AKBの総選挙のニュースを見たの。たかみなさんが、『努力は必ず報われる!』って言ってて。わたし、全然アイドルのこととか知らなかったけど……その一言には、すごくシビれたんさ」

「……わたしも好きです、その言葉」


 きっと、ここにいる皆がそうだろう。AKBが好きな人で、その言葉の重みを知らない人なんていない。

 先日のドラフトで指名された子達もそうだ。平凡な子でも、諦めずに頑張ればいつか光を掴める。そんなAKBドリームに魅せられて、誰もがこの世界の門を叩くのだろう。


「わたし、NGTのCMが始まるまで、芸能人になりたいなんて全然思ってなかったけど……でも、北原きたりえさんや柏木ゆきりんさんに面接してもらって、気が変わっちゃった。ここまで来たら、最終審査、絶対受かりたいよね」

「わたしも……美南さんと一緒に受かりたいです」


 この僅かなやりとりの中で萌香は確信していた。美南は絶対に受かるだろうと。頑張らなければならないのは自分だけだ。こんな素敵な子と並び立つことができるのなら……最終審査、死に物狂いで頑張ってみよう。


「じゃあ、二週間後にね!」

「はいっ」


 美南と別れ、両親のもとに駆け寄る瞬間、萌香は一人の受験者とすれ違った。彼女も最終審査に残った子の筈だった。八重歯がチャームポイントの可愛い子だった。

 だけど、受かった筈なのに、どうしてあんなに青ざめた顔をしているのだろう――



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 駐車場までの間、両親は日陽ひなたに何も言わなかった。助手席に乗り、サイドミラーに目をやった瞬間、日陽は初めて自分がどれだけ暗い顔をしていたのかに気付いた。


「元気出して。きっとまたチャンスが――」


 後部座席から気遣いの言葉を掛けてくれる母に、ううん、と日陽は慌てて首を振った。


「違うよ、落ちたんじゃないの。……でも、その……」

「日程、重なっちゃったんか」


 ハンドルを握る父の言葉に、日陽はこくりと頷く。

 重たい沈黙が車内を包んだ。

 こうなることが予想できていなかったわけではない。二次審査が七月に入ってからだと知らされたときから、悪い予感は日陽の中でずっと渦を巻いていた。二次審査が七月十一日なら、最終審査は七月下旬くらいになってしまうのではないかと。

 日陽の学校の海外研修は二週間ある。奇跡的にその予定と被らず、研修の前か後に綺麗に最終審査の日程がハマってくれるなんて、そんな都合のいい幸運が果たしてあるものだろうかと。


「……お父さん、お母さん。わたし……アイドルになりたい」

「だけど……研修、行かなくて平気なんか? 卒業に影響はないんか?」

「……」


 日陽には俯くことしかできなかった。両親に嘘など言えるはずがなかった。

 学校の先生からは、いやというほど聞かされていた。この研修に参加しなければ、大学進学の道は実質閉ざされてしまうと。

 お金のことだってある。中高一貫のこの学校に入った当初から、後期課程の初めにある海外研修に参加するために、毎月決して安くはない旅行費用を積み立ててきたのだ。お金など一円も稼げない自分に代わって、三年間、親が払い続けてくれた大切なお金だった。


「仕方ない。今回は諦めなさい。人生、こんなこともあるさ」

「……でも」


 東京の子なら次の機会を待てばいいだけかもしれない。だけど――

 新潟にAKB48の姉妹グループが出来る初めての機会。NGT48の一期生の募集は、今、この時しかない。

 二期生の募集や、次のドラフト会議なんていつあるかわからない。自分が高校生の内にそれらが開催される確率は、きっとそんなに高くはないだろう。


「ごめんな、日陽。チーム8のとき、お父さんがあんなに後押ししたせいで……お前の人生に要らん希望を持たせてしまったな」


 父に言われて、涙が溢れた。


「バレエはこれからも続けたらいい。だけど……お前にはやっぱり、普通に大学に行って、普通の大人に――」

「わかったよ」


 喉の奥から絞り出すように、日陽は消え入るような声で言った。


「アイドルになるのは……諦めるよ」



 ……家に帰ってから、自室に引きこもって、日陽はどれだけ泣いていたかわからない。

 チーム8のオーディションに落ちたのが悔しくて、今度こそ絶対受かりたくて再挑戦したのに。やっとここまで来ることができたのに。運命は、最後の最後で、自分がアイドルになることを許してくれないのか。

 父の言う通り、仕方がないのかもしれない。夢はいつか覚めるものだ。自分にとって、アイドルは泡沫うたかたの夢に過ぎなかったのだ。

 枕に涙を染み込ませ、日陽はベッドに身を横たえたまま、携帯スマホで何度も何度もAKBの動画を再生し続けていた。遠くへ行ってしまった希望。届かなくなってしまった希望を、名残惜しく抱きしめるように。

 ネットの海に意識を委ねていると、ある一つの記事が目に止まった。「宮脇みやわき咲良さくら、医者の夢を諦めてアイドルに」――ネットニュースの見出しには、そう書かれていた。


「さくらちゃん……」


 HKT48の宮脇咲良。先月行われたばかりの選抜総選挙で、初めて「神7」に入り、注目を集めているメンバーだった。若いメンバーの多いHKTの中でも特にキラキラしていて、憧れのアイドルの一人だった。

 その宮脇咲良が、総選挙の直前、トークアプリでファン相手にこんなことを語っていたらしい。「自分は進学校で医者を目指して勉強していたが、アイドルになるために全てを捨ててきた」――。

 日陽の目は、心は、しばらくその記事に釘付けになっていた。自分なんかとは比べ物にならない決意。彼女には、そこまでしてでも追いたい夢があったのだ。そして彼女は今、人生を懸けて選んだ道で、誰もが羨む栄光を手にしている――。


 ――ならば、自分は?


 始まる前からリタイアするのか? こんなことで夢を諦めるのか?

 先生に叱られて、親を心配させて、大学に行けなくなるという――


「……諦めたくない」


 自分の声帯をひとりでに震わせたその声を、日陽は意識のどこかで聞いた。

 凍てつきかけた心の深奥で何かが燃えている。それは――幼いあの日、劇場で出会ったシアターの女神達が燃え移らせてくれた炎だ。

 北原里英。柏木由紀。あの日、仰ぎ見た彼女達の輝きに、自分はやっと手を伸ばせるところまで来た。

 ここまできて諦めることなどできない。人生全てを懸けてでも追いたいものがある。

 己の中に居る何かが叫んでいるのだ。夢を掴めと。


「――お父さん、お母さん!」


 気付けば日陽は部屋を飛び出し、両親の姿を求めてリビングへと駆け下りていた。


「わたし……オーディションをやめない」


 涙を拭って言い切ったその言葉に、父と母は真剣な眼差しを向けてきた。


「選ばれなくても絶対後悔しない。このチャンスに賭けたい!」


 見えない何かに突き動かされるように日陽は声を張った。両親の目の色が、確かに変わったように見えた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 二次審査からの二週間はあっという間だった。七月二十五日、その日の富山の空には薄く雲が掛かっていた。ネットで見たら、新潟は幸い晴れているという。

 富山駅の駐輪場に自転車を停めると、聞き慣れた声が背後から降ってきた。


「おいコラ、中井!」

「げっ、先生。なんで!?」


 りかは素で驚いて目を見張った。ジャージ姿の担任教師が、腕を組んで仁王立ちしていた。


「なんで、じゃない。採用試験の会場に行くなら電車じゃないだろうが。制服も着んと、オメカシして、電車に乗ってどこに行こうってんだ?」

「……どこだっていいじゃん」


 自転車の前カゴからバッグを取り上げ、りかは上目遣いに担任の顔を見上げる。


「ていうか、なんでりかが駅に来るってわかったの」

「お前が現れるんじゃないかと思って朝から張っとったちゃ」

「コワっ。文春かよ」


 彼が自分の前に立ち塞がる理由は、りかにもよく分かっている。今日という日がどういう日か。


「お前、わかってんのか? 今日の試験をすっぽかしたらどうなるか」

「……いいもん。そうだ、りか、やっぱり大学行きたい。保育士になるのも、大学でもっとちゃんと福祉の勉強してからっていうか? ホラ、せっかく進学校に入ったんだから」


 りかの見え透いた誤魔化しに、担任はギロリと鋭い目を向けてくる。


「そんなこと言って、お前、こないだの模試も仮病で休んだだろ」

「違う違う、仮病じゃない。ほんとに熱があったの。信じてよ、先生」

「嘘つけ。アイドルのオーディション受けてるんだろ、お前」


 りかはぎょっとなって身を強張こわばらせた。学校の誰にも知られていない筈なのに、どうして。


「……誰がチクったの?」

「先生を馬鹿だらするなよすんなま。お前の第一志望くらい、目ぇ見りゃわかるちゃ」


 格好付けるでも何でもなく、担任はさらりとそう言ってきた。驚きの震えを打ち消すように、じわりと温かい何かがりかの身体に広がりかけた。


「NGT48……か。まったく、厄介なものが出来てくれたもんだ」


 独り言のように呟いてから、彼は一歩近付き、りかの目を覗き込んだ。


「教師としてはお前を止めんとならん。……だが、言って止まるヤツじゃないんだよなあ、お前は」


 自分の口元がほころぶのをりかは感じた。家族と他校の友人以外で初めて、本音を言っていい相手が目の前に立っているような気がした。


「そうだよ。生きたいように生きろって、りかの大好きなアイドルが言ってくれたの」

「……ったく、どこのどいつだ、そいつは。文春に撮られちまえ」

「あっ、先生、ひっどー。偏見すぎ。アイドルがみんな撮られるようなことしてると思うなよ」


 りかが指を差すと、担任は諦めたように深く息を吐いた。


「先生、ゴメン」

「謝るな。いいか、俺は今日ここには来なかった。生徒が採用試験をサボって出掛けるところなんか見てない。いいな?」


 彼の言葉の意図を理解して、りかはこくこくと頷く。


「行け、中井。そして現実を思い知らされて戻ってこい」

「……やーだね。こっちが思い知らせてやるから。りかが正しかったってこと」


 新潟行きの電車が出るまでもう時間がない。犬を追い払うように手を振る担任に、ぺろりと舌を出して、りかは駆け足で駅のホームを目指した。

 せっかく担任が面倒を見てくれた進路。家族を安心させることのできる道。そうした健全なもの全てを――人生全てをなげうってでも追いたい何かが、この先にある。

 りかの身体を突き動かすものは、いつか憧れのアイドルに言われた言葉、ただ一つだった。


 ――生きたいように生きたらええんやで、あなたらしく。


 りかの大好きな渡辺美優紀みるきーは、昨年、週刊文春にスキャンダルをすっぱ抜かれ、ファンやアンチから心ない言葉を浴びせられることも増えていた。そのアイドル生命を風前の灯と評する声さえ少なくなかった。

 だけど、そんなことは関係ない。かつて彼女が掛けてくれた言葉の価値は――彼女が今まで自分に与えてくれたものの価値は、決して無になるわけではない。今までもこれからも、彼女はりかの永遠のアイドルだった。

 偶像とは、信じる者の祈りを受け止める神の依代よりしろ。その輝きに希望を見出す者が地上に一人でも残っている限り、あまける翼がうしなわれることはない。

 自分の進む道に間違いはないとりかは確信していた。だって、みるきーは今も戦っているのだ。己が何者なのかを証明し続けるために。


 ならば、中井りかあたしは何者なのか?

 その答えなら、生まれた時から決まっている。迷うまでもない。これから皆にも認めさせてやる。


 ――あたしはお姫様アイドルだ。

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