第13話 国境のトンネル

 夢にまで見たその時が来た。真夏の東京の日差しに肌を焼かれ、火砕流のような人混みに鍔広つばひろの帽子を落とされそうになりながらも、萌香もえかは希望一つを胸に目的地への道を急いだ。

 人通りも賑やかな秋葉原の大通り。「プラモデル」や「ミリタリー」といった文字が並ぶテナントビルの六階。蒸し暑いエレベーターを降りた先に、女の子達の憧れを詰め込んだようなその店はあった。

 ここを含め日本に三ヶ所しかない、ハロー!プロジェクトのオフィシャルショップ。空調の効いた店内に所狭しと並ぶのは、眩しい輝きを放つアイドル達の笑顔、笑顔、笑顔。


「わぁ……」


 思わず声が漏れてしまったのが恥ずかしくて、萌香は口元を覆ったが、店員も客も誰一人として彼女に振り向く者はいなかった。

 興奮と感動に小さな胸を踊らせ、同年代の女の子達や大人の男性達で混み合う店内を萌香は歩いた。こうした特別な場所でなければ手に入らない、生写真やコンサートツアーのグッズ、ファンクラブ限定グッズ。モーニング娘。もある。スマイレージもある。来春からの活動休止を発表したばかりのBerryzベリーズ工房こうぼうもある。 そしてもちろん、萌香の大好きな℃-uteキュートも。

 推しメンの鈴木すずき愛理あいりの生写真を手に取り、萌香ははあっと幸せに溜息をいた。この写真とあの写真のどっちにしようかなんて迷う必要はない。この日に備えて目一杯お小遣いを貯めてきたのだ。

 ここで全弾撃ち尽くしても悔いはない。次はいつ来られるか分からないのだから。

 萌香が幸せ気分で買い物カゴをいっぱいにしていると、すぐ後ろで女の子達の話す声が聴こえた。


「えー、どうしよう、迷う迷う。お金足りない。今月イベント行きすぎた」

「また来月来ればいいじゃん。バイト代入るでしょ?」


 ドラマやアニメで聞くそのままの東京言葉が、萌香の意識を真綿のような柔らかさで侵掠しんりゃくしてくる。グッズを選ぶ手が、無意識に止まった。


「そうだけどさー……。ま、いっか、今日はこれだけにしとこっと」


 レジへ向かうその子達の姿を、何の気なしに萌香の目は追いかける。

 高校生くらいだろうか、明るく染めた髪と、都会の流行りに乗ったファッション。おかっぱ頭の自分とは似ても似つかない東京の女の子達。


 ――いいな。あの子達は、いつでもここに来られるんだ――。


 中学生になったら東京に連れて行ってくれる、と、両親が約束してくれたその言葉を支えに萌香は今日まで生きてきた。東京より少し早い新潟の夏休みの終わり際、両親はその約束を守り、プチ家族旅行の行き先を東京に設定してくれた。

 ディズニーランド、浅草、スカイツリー。お決まりのコースを弾丸のように巡りながらも、萌香の心はここ秋葉原にばかり向いていた。AKBの前田敦子あっちゃんはもう居ないけれど、この街には熱く眩しいアイドルの輝きがある。新潟の地元には届くことのない無数の輝きが。


「いらっしゃいませ。当店ハロショのポイントカードはお持ちですか?」


 レジのお姉さんに聞かれ、萌香は一瞬びくりとしてから、「ないです」と小さな声で答えた。百円で作れますがお作りしましょうか、と促す店員の声に、思わず「はい」と頷いてしまってから、萌香はなぜか無性に恥ずかしくなった。

 次に来られるのは一年以上先かもしれないのに、ポイントカードなんて作っていいのだろうか。


「こちら、全国共通で使えるので、たくさんお買い物してくださいね」


 店員の甘い声に、反射的にこくこくと頷きながら、萌香は記入用紙に名前を書いた。続けて住所を書こうとして、一瞬躊躇ためらって手が止まる。新潟県上越市なんて書いて、ヘンに思われはしないだろうか。

 店員の言う「全国共通」が、実は全然「共通」ではないことを萌香は知っている。東京と大阪と名古屋にしかお店がないのだから――。


「ありがとうございました。またお越しくださいませー」


 ぎっしりとグッズを詰め込んだ袋を手に、萌香は店を出た。レジのお姉さんは結局、萌香の書いた住所を見ても顔色一つ変えることはなかった。きっと、この街では、お客さんの一人一人がどこの誰かなんて気にする人はいないのだろう。

 両親が待つカフェへの道すがら、萌香がきょろきょろと周りを見回しながら歩いていると、ビル壁面の大型テレビに映し出されるAKBのCMが目に入った。渡辺麻友まゆゆ指原莉乃さっしーら、今年の総選挙で「神7」に入ったメンバー達が、様々なアルバイトの衣装を着て、「バイト探しならバイトル」というお決まりのフレーズをアピールしている。「バイトAKB」という期間限定メンバーのオーディションの宣伝も合わせて行われていた。


「いいなぁ……」


 萌香が漏らした独り言が、秋葉原の雑踏に飲まれて消える。

 出来ることなら自分もアイドルになってみたい、と、いつの頃からか抱き始めたほのかな憧れは、萌香の中では具体的なアクションにまでは結びつかないままだった。歌もダンスも出来る気がしないし、それ以前に、夢を追って東京に出てくるなんて自分にはあらゆる意味で無理だ。

 中学生になった自分は、望むなら、あの「バイトAKB」のオーディションに書類を送ることだってできる。だけど、その活動場所が主に東京であることも萌香は知っていた。応募資格に「合格後、日常的に東京都内のレッスン場へ通える方」という一文が入っているのも、全部知っているのだ。


本当にほんね沢山ふっとつ買い込んだねえ。もういいん?」


 カフェでの合流後、母に聞かれ、萌香は少し迷ってから、ふるふると首を振った。


「あと……AKB劇場もやっぱり見ときたい」

「え? AKBは抽選外れちゃったんでしょ?」

「見るだけでいいんさ」


 萌香がAKBに会えないことをどれだけ寂しがっていたか、ちゃんと分かってくれているのだろう、両親は嫌な顔一つせず萌香のお願いに付き合ってくれた。

 片手にハロプロのグッズを、片手に秋葉原の観光マップを持って、萌香は両親と一緒にその聖地を目指した。目的のビルまでは歩いて数分もかからなかった。ドン・キホーテの壁面に掲げられた巨大な「AKB48劇場」の看板。多くのスターを生み出した伝説の場所だ。


「劇場っていうから、お母さん、もっと大きなホールみたいなん想像してたんよ」


 営業時間中で、かつ公演の時間外ならロビーまでは誰でも入れると聞いていたので、萌香は「はよう」と両親を引っ張って八階を目指した。エスカレーターから見える壁面には、AKBの歴代シングルやイベントのポスターがびっしりと貼られていた。

 辿り着いた劇場ロビーは、聞きしにまさる夢の場所だった。廊下の壁にずらりと並んだ、額縁入りの現役メンバー達の写真。母にグッズの袋を持ってもらって、ファンの男性達の群れに揉まれながら、萌香は夢中で携帯ガラケーのカメラにロビー内の様子を収めた。メンバーのプロフィール写真なんて公式サイトでもどこでも見られるけれど、自分が念願のこの地を踏んだ記録を残しておかなければならないと思った。

 前田敦子あっちゃんが居なくても、今のAKBにも素敵なメンバーは沢山いる。例えば十五期生の込山こみやま榛香はるかがそうだ。白い歯を見せて笑う彼女の写真を携帯のフレームに収めると、萌香の口元も自然に緩んだ。


「俺、もう二ヶ月当たってないんすよね」

「俺もずっと干されてるわ。研究生公演も今無いしなぁ」


 ふと、近くの男性達が苦笑交じりに言いあう声が萌香の耳に届いた。二ヶ月も申し込み続けてそれでも当たらないのか、と、萌香は少しびっくりした。

 チームBの「シアターの女神」という曲では、公演にやっと当選したファンの感激が歌われていたが、AKBの劇場公演というのはどうやら本当に当たらないものらしい。それなら、たった一度申し込んだだけの自分が当選するはずもなかったな……と、妙に納得がいった。

 それでも、東京の人達はまだいい。外れても外れても、何度だって繰り返し応募すればいいのだから。


 劇場を去る間際、萌香が名残惜しくちらちらとロビーを振り返っていると、母は優しく言ってくれた。


「そんなに寂しがらなくても、また来れるっけ。東京は逃げないさ」

「……うん」


 東京は逃げないけど、憧れのメンバー達はいつか卒業してしまう。それに、AKBやモーニング娘。はともかく、℃-uteキュートのようなメンバー固定のグループはいつまでも存在が続くものではない。いつか訪れるまでに、自分は一度でも生の彼女達を見ることができるのだろうか――。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 東京駅の新幹線ホームには新潟行きの「Maxマックスとき」が待っていた。一階席は窓から何も見えないからという父のこだわりで、行きと同じく切符は二階席だった。荷物を抱えて狭い階段を上がり、萌香は三列シートの窓際に小さな身体を押し込めた。

 うぅんと伸びをする母の席越しに、東京は楽しかったかと父が疲れの混じった笑顔で聞くので、萌香は小さく「うん」と頷いた。早くまた来たいな、とは言わなかった。

 車内の慌ただしさも一通り落ち着き、列車は静かに動き出した。

 帰りも長い旅路だ。この新幹線で越後えちご湯沢ゆざわまで行き、特急「はくたか」に乗り換えて直江津なおえつへ。東京と萌香らの町との間には、地図で見るよりずっと遠い距離がある。来年開通する北陸新幹線も、萌香らの町には――脇野田わきのだ駅から新しく生まれ変わる上越じょうえつ妙高みょうこう駅には、最速型の「かがやき」は停車しないというウワサだ。


「トンネルを抜けると雪国だった」


 新幹線が最初のトンネルに差し掛かったところで、父がぼそりと言った。その「雪国」が湯沢の町であることを、萌香は学校の先生から聞いて知っていた。


「……今、夏だよ?」


 一応の突っ込みを入れて、萌香は真っ暗な車窓を眺める。イナカの女の子のおかっぱ頭がそこには映っていた。

 幾重ものトンネルを抜けた先で待っているのは、何も変わらない地元の暮らしだ。

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