第12話 始まる競争
梅雨のしとしとと降り続く雨が市役所本館四階の窓を叩いていた。
「
彼女はどうやら廊下で瀬賀を待っていたらしい。眼鏡越しの鋭い視線を向けられ、何か怒られるのだろうかと瀬賀はドキリとした。
だが、「雪女」とあだ名される彼女が、レディススーツで腕組みをしたままの次に発したのは、意外な一言だった。
「新潟にAKBを作るって話。あれ、瀬賀君の中でまだ生きてるん?」
「えっ――」
それはある意味、怒られる以上にドキリとする展開だった。昨年の会議で発言して以来、職場では一度も口にしたことのない話題だったが、まさかそれを今になって久住が持ち出してくるなんて。
「いや、ちょうど、もう一度ちゃんと考えなきゃなと思ってたところで」
「そう。ならよかった」
久住は腕組みを解き、スーツのポケットから
「動き出すなら早くしないと、マズイわよ」
瀬賀を自分の隣に手招きして、彼女は続ける。
「これ、秋元康さんが出てたラジオの記事。モタモタしてたら北海道に取られる」
先輩に命じられるがまま、瀬賀は彼女の隣に立ってスマホを覗き込んだ。そこに映し出されているのは、「テリー伊藤のフライデースクープ」というラジオ番組の放送レポートだった。秋元康が出演した六月十三日の放送回。出演者の語った内容が抜粋され、テキストで掲載されている。
AKB48を生み出した大物プロデューサーは、グループの今後の展望についてこのように語っていた。
『地方にももっとホームができていったらいいなと思ってやっているので、お誘いを受けてる部分もあるなか、やっていってます。今、日本国内では北海道を検討中。これからも、拠点は増えていくんじゃないですかね。海外も含めて』
雪女の白い指がスクロールした文面に、瀬賀ははっと目を見張った。
「北海道を検討中……」
自分の心臓が一際早く脈打つのを感じる。新潟へのAKB誘致構想を本格的に考えなければと思っていた矢先、冷水を頭からぶっ掛けられるような衝撃だった。
「そう。言ったでしょう、名古屋に大阪に博多と来たら、次は札幌あたりだって。しかも、その口ぶりだと、他の地域からも常時オファーは来てるようなんよ。本気でAKBを新潟に呼びたいなら、一刻の猶予も許されないわ」
先輩職員はスマホを仕舞うと、再び鋭い目を瀬賀に向けてきた。
「例の丸山君と、今日のお昼、一緒に行ける?」
一日たりとも足踏みしている余裕はないと、その目が語っていた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
幸いにも、瀬賀の声掛けに丸山は二つ返事で乗ってきた。庁舎地下の食堂は、雨ゆえに少ない外部の客と、雨ゆえに多い職員とが中和しあって、
瀬賀達とテーブルを挟んで向き合い、「いただきます」も早々に、久住は喋り始める。
「二人とも知ってるでしょうけど、新潟県のブランド求心力は年々後退する一方。三年前には二十三位だった魅力度は、去年は下がりに下がって三十五位。県は県で手を打つでしょうけど、市政も黙って見てるわけにはいかないわ」
周囲の利用者を気にしてトーンを抑えているのか、それでいて瀬賀達にははっきりと通る凛とした声で、彼女は告げた。
「瀬賀君のAKB誘致構想。これをちゃんとした形に仕上げて、開港百五十周年に向けた地域活性化プランとして上にぶつけたいのよ」
そして、彼女は、当庁屈指のアイドルオタクに向かい、先程瀬賀にした話を繰り返した。先日のラジオ番組で、秋元康が次の候補地を北海道と明言したこと。他地域からもオファーは相次いでいるようであり、早く動き出さねば手遅れになりそうなこと。
瀬賀が顔を向けて見ていると、丸山は「いや、久住さん」と、多少面識がある程度の「雪女」に対しても自分のペースを崩さず切り返していた。
「これは前向きに取ってほしいんすけど――まだどうにかなる、とボクは思いますよ」
雪女の目が、レンズ越しに「どうして?」と説明を求めている。
「秋元康の……というか、AKB運営の言うことって、基本、話半分に聞いといた方がいい部分もあるんすよ。台湾に
久住が小さく首を振ると、丸山は続けた。
「話が出たのは二〇一一年。二〇一二年にはオーディションをやる予定だったんすけど、結局ポシャって流れたままです。同じ頃に、バンコクにも48グループを作るって、秋元康がタモリさんの番組で言ってたんですが、そっちも音沙汰がないままなんすよ」
瀬賀は黙って同期の話に傾注していた。もちろん、彼にとっても初めて聞く話だった。
「だっけ、言及の仕方を考えても、この北海道の話も正直、眉唾物というか……。もしちゃんと話が動いてるなら、むしろ正式発表までは口をつぐむはずじゃないっすかね?」
まだ諦めるには早い、と丸山の丸い目は言っていた。それを受けて久住はこくりと頷き、「確かに一理ある」と一言同意を示してから、さらに続けた。
「だけど、こうも考えられる。今の時点では、秋元さんは適当なことを言っただけかもしれんけれど――北海道の地域活性化を考える人達は、このチャンスを見逃しはしない。この発言一つを切っ掛けに、一気に話が具体的に動き出す可能性もある」
ぞくり、と背筋が凍るような思いがした。この人は流石に、自分達よりも一歩先を見ている――。
隣の丸山もそれを認めて頷いていた。
そうだ、仮に秋元康が「次は新潟を考えている」などと述べていたら、自分達はどうするか。「なんだ、もう話が動いているのか」と鵜呑みにして静観している、などということはないだろう。適当な発言と見抜いた上でなお、それを千載一遇のチャンスと見て、嘘から
北海道の人々がそうなっていない筈がない。既に競争は始まっているのだ。
危機感を二人と共有できたことを見て取ったのか、久住は箸を持たない方の指をぴっと立て、述べた。
「動き出すなら迅速に。テーマは一つ。『地域に愛されるAKB』を新潟に作ること」
張り詰めた弓の
「瀬賀君は覚えてるでしょうけど、ウチの課長がこう言ったんよ。『地域活性化は老若男女の全てに受け入れられる必要がある。オタクにだけ喜んでもらっても仕方ない』――と」
「ええ。当時、コイツから聞きました」
「AKB誘致構想が成り立つかどうかは、まさにその一点を突破できるかに掛かっているのよ」
瀬賀も丸山も、揃ってごくりと息を呑んだ。
「丸山君のアイドルに関する知識は、きっと、この役所で一番でしょう。率直な意見が欲しい。先の指摘を踏まえて、『地域に愛されるAKB』を作ることは可能かどうか」
怜悧な雪女の視線が丸山をまっすぐ見据える。彼は箸を置いて軽く腕を組み、少し唸ってから、数秒と経たず答えた。
「それは……やり方によっては出来ないことはないでしょう。外から客を呼ぶのは一旦、二の次にして、まずは新潟エリアの一般層への訴求を最優先にする。その点、劇場というハコがあるのは48グループのフォーマットの強いところでしょ。……いや待てよ、それだけじゃねーな……」
彼の思考が回るのを邪魔してはならないと、瀬賀はただ黙って様子を見ていた。また数秒置いて、丸山は再び口を開いた。
「久住さんは、この春出来たチーム8については?」
「少しは知ってる。『会いに行くアイドル』でしょう」
「流石ですね。……で、これは市政より県レベルの話になっちゃいますが、『会いに行くアイドル』の新潟県内バージョンを作るってのでどうかと。新潟市内の劇場でファンを待ち受けるだけじゃなく、県内の各地方に積極的に出向いて、地元の人との接触を深めていく。そう、例えば、『雪まつり』みたいな地域のイベントに積極的に出たり、各地の商店街を訪ねるような企画があってもいい。徹底的に地域密着にこだわって、県民全員が新潟48を箱推ししてくれるような土壌を作る」
「新潟48……」
丸山が発したその仮称を、雪女の冷涼な声が反復した。
「先例に従えば、
彼の説明に耳を傾けながら、瀬賀は不思議な心の高揚を覚えていた。
これまでに丸山から聞かされてきた意見の集大成。チーム8の「会いに行くアイドル」というコンセプトとの融合によって、「地域に愛されるAKB」という漠然とした青写真が、にわかに色づいてきたように思えた。
さながら、日本各地から集められたチーム8のメンバーが「会いに行くアイドル」として国じゅうを巡るように。県内各地から新潟市の拠点に集まった少女達が、県内各地をくまなく回ってファンを集めるような、そんなアイドルの在り方が確立できれば……。
「わたし達には時間がない。時代の足音は容赦なく近付いている。翌年の東京五輪に向けて国内全体の景気も盛り上がる二〇一九年……この機を逃したら、新潟の復権は五十年遠ざかるかもしれない」
限られたランチタイムの中、久住は
「ボクも色々考えときます。何か閃いたらコイツに共有します」
「お願いね」
丸山と別れ、瀬賀は先輩に付いて、部署に戻る廊下を歩いた。窓に打ち付ける雨は未だ止む気配を見せず、
ほとんど久住と丸山の話を傍聴するだけに終始していた自分が少し情けないが、思わぬ形でAKB誘致構想が前進しそうなことが瀬賀には嬉しい収穫だった。北海道をはじめとする他地域との競争は大変だろうが、それだけにやり甲斐もある。
「なんか、意外でした。久住さんがAKB誘致に乗ってくれるなんて」
前を行くレディススーツの背中に瀬賀が言いかけると、彼女は「そう?」と、歩きながら振り返ってきた。
「もっと意外な話をしてあげましょうか」
「え?」
「わたしも昔、一度だけアイドルのオーディションを受けに行ったのよ。東京に通えなくて諦めたんだけどね」
流し目を引き、何でもないことのように雪女は言った。今日一番の衝撃に瀬賀が絶句したとき、狙い澄ましたように彼方の空で雷の鳴る音がした。
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