M04. 時代の足音
第11話 黄昏のアイデンティティ
テレビの収録とその他の諸々が終わり、マンションに帰り着いたのは
「ただいまー」
二人の声が無人の廊下に重なり、人感センサーで照明が点く。玄関に靴を揃えて置くと、やっと一日が終わったという気がした。
「って、今さら突っ込まないけどさぁ」
「え?」
リビングのテーブルにコンビニ袋を置き、ソファにバッグを下ろしたところで、志津香がようやく半笑いで言ってきた。
「なんで普通にウチに帰宅してんの」
「突っ込んでるじゃん」
二人は顔を見合わせ、けらけらと笑った。それぞれ一人暮らしを始めてからも、かつて寝食を共にした親友の部屋に時折帰ることは、里英にとって日常の一部と言って差し支えなかった。
「いやぁ、ねー。寂しいんだよね、一人の部屋って。玄関開けたら真っ暗な廊下でさ。『ただいま』って言っても、だーれも『おかえり』って返してくれないと、なんか、この世界に自分一人しか居ないみたいに感じちゃって」
「もういいから、テラスハウス帰れよ」
小鍋をIHヒーターに掛けながら、部屋の主が懐かしい単語を口にする。
「イヤだよ、一時間半かかるもん」
軽口で答えて、里英はティーポットと茶葉を用意しにかかった。
脳裏に去来するのは忙しくも充実していた日々。矢の如く過ぎ去った三ヶ月の濃密な時間。あの経験をファンがどう評価するかはともかく、ドアを開ければ仲間達がいたあの家の記憶は暖かい。
「あ、
テレビを点けて真っ先に目に入ったのは、同期の出世頭が大物出演者達に混じって楽しそうに笑う姿。今年の総選挙では渡辺麻友に一位を奪取されてしまったとはいえ、指原の勢いは未だとどまるところを知らず、メディア出演も日に日に増える一方だった。
比べても仕方のないことではあるが、どうしても頭は勝手に比較を始めてしまう。今日、里英や志津香が収録していたのは、いわゆる
それでも有難い仕事に変わりはないのだが、指原が戦っている世界と比べると、どうしたって自分達の足踏みがもどかしく思えてしまう。
「ほらほら、
浴室からお湯の溜まり始める音がした。リビングに戻ってきた志津香が、IHヒーターを止め、里英が準備してあったティーポットに鍋のお湯を注いだ。
「
「
ここで堂々と笑っていい距離感が、里英には心地よかった。
だけど、親友とどんなに楽しく笑い合ったところで、先日の順位を書き換えられるわけではない。後輩の
自分がAKBで過ごしてきた八年という時間の価値は、所詮その程度だったのだろうか。
「
テーブルに二人分のカップを置いて、志津香が首を伸ばしてくる。
「何を?」
「卒業」
鼻腔をくすぐるハーブティーの香りとともに、親友の発したその単語がぞくりと胸に広がった。
勿論、里英とてそれを意識したことがないわけではない。夢を諦めて、あるいは次の夢を追って、戦友たちは次々と秋葉原の劇場を巣立っていった。先日、
一期先輩の志津香も立場は同じ筈だった。来年にはどちらが卒業していてもおかしくない。自分も彼女も、アイドルとして決してもう若くはないのだ。
出来ることならもう一花咲かせてから、という思いも里英の中にはあったが、その希望も先日の順位で挫かれてしまったような気がしていた。
「……アイデンティティが、さ」
「え、なに?」
湯気を上げるカップにそっと手を添え、里英は呟くように言う。
「せめぎ合ってるんだよね、わたしの中で」
「……何が?」
「アイデンティティが!」
彼女の小さな叫びを親友は笑って受け止め、「日本語で言えよ、知性派ぁ」と流してくれた。
「よくわかんないけど、自分がどこの誰なのかって話?」
こくりと頷き、里英は続ける。
「
「はいはい、また始まりましたよ、
志津香はテーブル越しに手を伸ばして、こつんと軽く里英の額をつついてきた。
「まあ、でも、その分だとまだまだ卒業はなさそうだね」
「……どう、かなぁ……」
このまま卒業したら不完全燃焼が過ぎるとは思うのだが、さりとて、自分がここでやり残したことが何なのか、具体的なイメージは全く浮かばない。
そんな自分の焦燥をよそに、時代は常に動き続けている。バイトルとタイアップした新企画の「バイトAKB」の募集や、SKEの七期オーディションももうじき始まると聞く。
現役生も下に沢山待っている。誰もがギラついた目をして、下剋上を果たそうと爪を研いでいる。
彼女達に道を譲ってあげるのが、古参の最後の仕事だろうか?
そこで、浴室のお湯が溜まったことを示す明るいメロディが耳に届いた。入浴の順番決めのじゃんけんを促す親友の声が、渦巻くネガティブ思考を有無を言わせず断ち切ってくれた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
なぜか親友と揃いのパジャマに身を包み、二つ並んだベッドの片方にもぐり込んでも、里英はなかなか寝付くことができなかった。
真っ暗な寝室に響くクーラーの風音が。下ろしたてだという夏用の
閉じた
自分は松井珠理奈と二人で楽屋裏の廊下を歩いていた。その時、曲がり角の向こうからふいに聞こえてきたのは、後進メンバー達の怨嗟に満ちた噂話だった。
『あの人、またフロントだって。何もしとらんくせに』
『やっとれんよね。いつまで本店の人に遠慮せんといかんの』
『ホントに。都合のいい時だけSKEに来るなって感じ』
それらが誰の声なのかはすぐにわかった。同時に、自分の頭は、心は、その状況を理解することを必死に拒んだ。打ち解けたと思っていた名古屋の子達が、裏では自分をそんなふうに思っていたなんて――。
と、その瞬間、一緒に歩いていた珠理奈が、跳ねるような勢いで廊下を駆け、後輩達に向かって怒声を響かせていた。
『あなた達の何倍も汗を流してきた先輩に、そんな口利ける立場かどうか――わたしの目を見てもう一度言ってみろ!』
彼女の後ろに追いついた自分に、直立不動の後輩達が、震え上がった表情で「ごめんなさい」と頭を下げてくる。
自分がふるふると首を振ることしかできずにいると、名古屋のエース・オブ・エースはキッとこちらに振り返って言った。
『とはいえ、わたしも同意見ではあります』
『えっ?』
『わたし達は本気で
五つも年下の彼女に鋭い目を向けられ、その時の自分は何も答えることができなかった。
お前は甘いのだと言われている気がした。
この地に生まれ、この地を背負って立つ者の覚悟。秋元プロデューサーをして「十年に一人の逸材」と言わしめた太陽の強者の瞳に燃えるのは、何処に居ようとも自分は名古屋の松井珠理奈だという、揺るがない
その時からだろうか。元々あまり好きではなかった「夢見る名古屋嬢」というキャッチフレーズが、輪をかけて口にしたくない言葉になったのは。
あれからもう一年以上が経つ。今年の総選挙で、珠理奈は玲奈とともに「神7」の地位を保ち、さらなるランクアップも果たした。SKEからのランクイン人数も昨年から更に増えた。名古屋で熱い気勢を上げる彼女達と比べて、自分はこの一年、一体何を頑張れたのだろう。
本当に、そろそろ考えどきなのかもしれない――と。
暗闇の中、卒業の二文字が頭をもたげる。
自分はこのまま消えていくしかないのだろうか。この世界に何も爪痕を残せぬままに……。
親友の寝息を隣に聞きながら、里英は胸の奥からこみ上げる何かを静かに呑み込んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます