第5話 全国一斉オーディション


 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



『……これで最後じゃないから』


 ――聖菜せいなちゃん。


由佳ゆかなら絶対、この場所に戻ってこれるよ』


 ――榛香はるかちゃん。


 皆が自分を取り囲んでいる。明暗分ける蠱毒セレクションの果て、に足を踏み入れることを許された子達が。その名を聖別され、神の形代かたしろとなることを許された子達が。


「わたし……わたし」


 由佳は言葉の続きを涙とともに飲み込んでいた。目の前は真っ暗で、何も考えられなかった。

 今度こそ。今度こそ夢が叶ったと思ったのに。最後の最後で崖から手が離れてしまった。

 僅かな間の苦楽を共にした仲間達と別れ、自分には明日からまた、一般人としての暮らしが待っている――。


『大丈夫だよ。埼玉はアイドルの名産地だもん』


 くりくりとした瞳を涙に潤ませ、小柄な一人が由佳を見上げてくる。同じ埼玉に生まれながらも、自分とは全く違う世界を生きてきた彼女が。


美音みおんちゃん――」


『信じてるから。小嶋陽菜こじはるさん、渡辺麻友まゆゆさんに続く伝説を、わたし達で作る日が来るって』


 皆の笑顔が、優しさが、由佳の心には却って生傷に染みるように痛かった。


『待ってるよ。あなたが戻ってくるのを――』




 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「――ッ!」


 目尻に伝う涙の感触とともに、由佳は深い暗闇から目を覚ました。

 止まらない胸の動悸。汗を吸ったパジャマの冷たい肌触り。カーテン越しに差し込むかすかな明るさが、冬の夜明けを告げている。

 ベッドの上で上体を起こすと、生温なまぬるい涙が頬にこぼれた。


「……みんな」


 夢に見た彼女達の笑顔を思い返し、由佳は自分を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐く。

 何十回繰り返して見たか分からない、生々しい別れの記憶。文字通り夢のように終わってしまった、AKB48の第十五期仮研究生としての日々。

 ほんの少し何かが違っていれば、あの子達をと呼ぶことができていたかもしれない。自分に何かが足りていれば。自分がもっと可愛ければ。自分がもっと努力をしていれば――。


「努力は必ず……報われる」


 何百回、何千回と唱え続けてきたその呪文を噛み締めるように口にして、由佳はベッドから起き上がった。カーテンを開けると、見下ろす道は真っ白な雪に覆われていた。

 予定より早めに家を出ないと。由佳が部屋を出て一階に降りると、洗面所で弟と出くわした。


「うおっ。何だよ姉ちゃん、冷凍マグロみたいな顔して」

「してない! わたし可愛いもん。……そっちこそ、どうしたの、こんな早くに」

「部活だよ、部活。今日は対抗試合があんの」


 鏡に向かい、一丁前に髪のスタイリングを気にしている弟の姿に、思わずクスリと笑いが漏れる。どうせ試合で乱れてしまうだろうに、女の子のマネージャーに少しでも格好いい姿を見せたいのだろうか。


「姉ちゃん、今日もオーディションだって? 懲りないよなー、マジで」

「……諦めるって言葉は、わたしの辞書にないのだ」

 

 顔を洗ってリビングに行き、由佳は驚いた。まだ寝ていると思っていた父が、既に食卓で新聞を広げていたからだ。


「パパ」

「送るよ。積もってるし、早めに出た方がいいだろう」


 準備ができたら言いなさい、と、作ったような素っ気なさで言って、父は再び新聞に目を落とした。

 最初はアイドルを目指すことに反対だった父も、いつしか由佳の頑張りに理解を示してくれるようになっていた。由佳は再びこみ上げそうになる涙をこらえ、「ありがとう」と言葉を絞り出した。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「……今日のオーディションは、これまでのAKBのやつと少し違うんだろ?」


 除雪済みの大通りを行く道すがら、ハンドルを握る父が問うてくる。由佳はAKBの動画を流していた携帯スマホから顔を上げ、こくりと頷いた。


「チーム8って言って、都道府県で一人選ばれるの」

「一人だけか……。それはまた狭き門だな。何人くらい受けるんだ?」

「わかんない。わたし、受験番号ゼロ番台だもん」


 受付初日に自分が書類を送ったあと、一体何人の子がこの戦いに名乗りを上げてきたかなんて、由佳には知るよしもない。

 都道府県別の全国一斉オーディション。それが従来のオーディションと比べて有利なのか不利なのか、それすらも見当が付かなかった。だが、どんな戦いだろうと自分は飛び込むだけだ。この両手からこぼれ落ちてしまった希望を、もう一度拾い上げるその日まで。


「埼玉も人口多いからな。イナカの方が良かったかもな」

「……倍率の低さで受かったって、しょうがないよ」


 埼玉県の人口は全国で第五位。そして、埼玉がアイドルの名産地というのも嘘ではない。小嶋陽菜こじはるも、渡辺麻友まゆゆも、島崎遥香ぱるるも、市川美織みおりんも。そして、自分の力及ばず同期になれなかった、あの向井地美音みーおんも……。

 今回のオーディションにも、きっと県内から可愛い子が沢山集まってくるのだろう。その中のたった一人に自分が選ばれるなんて、分不相応な高望みかもしれない。

 ――だが、それでも。


『待ってるよ』


 先を行く者達の残してくれた言葉が、熱い血流となって由佳の身体を巡っていた。


『何があっても、負けないで』


 可愛さで、才能で、他の子達に勝てないとしても――

 執念しぶとさならば、誰にも負けない。挫けず、へこたれず、夢にかじりつく執念ならば。


 テレビ局の前の道には既に沢山の自家用車が停まっていた。埼玉じゅうの可愛さを全て集めたような、キラキラしたオーラを纏った女の子達が、それぞれの親に見送られて戦士の回廊を行く。

 あの子も、あの子も、なんだか全員が余裕の表情に見える。この子達の中で自分が何番目なのかと考えると、壁の高さに打ちのめされそうにもなる。

 だけど、信じることは出来る。何度地を這うことになろうとも、最後に笑うのは自分だと。


「頑張れ、由佳」

「うん、ありがと!」


 父に笑顔で手を振って、由佳は会場へと歩を進める。

 二〇一四年二月、チーム8全国一斉オーディション。彼女にとって四度目となるAKB48への挑戦が始まった。

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