第3話 七百人と七万人

「あっはは、『オタクにだけ喜んでもらってもしょうがねえ』か。まあ、そりゃそうだよな」


 前を行く丸山まるやまの自嘲ぎみな笑い声が曇天に溶けてゆく。日没まではまだ一時間ほどあるはずだが、日本海へと繋がる空はいつものごとく薄い雲に覆われ、一足早く夜のとばりが下りかけているかのようだった。

 街のシンボルの萬代ばんだいばしを見やり、やすらぎてい緑地の舗装路を革靴でのろのろと踏みしめながら、瀬賀せがは通勤カバンを持った手を大きく振り、はぁ、と一つ溜息をいた。


「俺の考えが甘かったんさ。AKBが世の中全体にウケてるんだとしても、普通はテレビやCDだけだっけ。わざわざ遠くの街まで追いかけてくんのは……」

「よっぽどのガチオタしか居ない。その通りなんさ」


 能天気と自虐の混じったような笑いを滲ませながら、丸山は肥えた顔をこちらに向けた。


「まあ、そこは、別の発想って言うかさ。他の街からオタクを呼ぶんじゃなくて、この街の普通の人達を楽しませるアイドルを作るでもいいんじゃね? よそから客を連れてくるだけが地域活性化じゃねえだろ」

「普通の人達を楽しませるアイドル、ねえ」


 瀬賀は彼の言葉をオウム返しすることしか出来なかった。今はそれ以上に頭が回る気がしなかった。

 市内を貫く信濃しなの川の美しい流れも、晴れない心で見下ろせば爽やかさを欠く。

 

「ちょっと、あの子達に聞いてみっか」


 丸山が出し抜けにそんなことを言った。「へ?」と瀬賀が生返事を返した時には、同期は既に足の向く先を変えていた。

 川の流れを望む小さなベンチに、市内の中学校の制服を着た二人の女の子が並んで腰掛けている。


「ねえ、君達さ」


 瀬賀が止めようとするよりも早く、丸山はごく当たり前のように彼女達に話しかけていた。ベンチの手前側に座る少女が「はい?」と反応するのを待って、彼はにこにこと笑いを浮かべたまま言葉を続ける。


「アイドルに興味とか、ある?」

「え……?」


 瀬賀が丸山の背中に追いついたとき、ベンチの奥側の少女が、ふわりと髪を揺らして顔を上げるのが目に映った。

 制服の肩にかかるつややかな黒髪。目鼻立ちの整った、落ち着いた雰囲気の美少女だった。

 と、そこで、手前側のショートヘアの少女が、奥の子を庇うように大きく腕を広げ、瀬賀らを見上げて言った。


「なんですかー、スカウトですか? ダメですよ、この子は箱入り娘なんだから」

「わたしはそんな」


 奥の子は小さく首を振った。その何気ない所作までもが、どこか上品な育ちの良さを感じさせた。

 瀬賀がハラハラしながら見ていると、丸山は彼女達のベンチと一定の距離を保ったまま、「いやいや、スカウトじゃなくて」と平然と会話を続けている。


「ボクら、市役所の者なんだけどさ。新潟の街の活性化について考えててさ。今時のJCジェーシーって何が好きなんかなって」


 女の子達に職員証を見せ、肥満体を揺らして快活に喋り続ける丸山の姿に、瀬賀は呆気あっけにとられていた。

 見ず知らずの中学生への突然の声掛け。二人連れでスーツを着ているからまだいいものの、一人であれをやったら、最悪、通報案件かもしれない。しかし、そんな後ろめたさを微塵も感じさせないのは、ひとえに彼のキャラのせるわざだろうか。

 そういえば、彼にはアイドルの現場で親しく話すオタク仲間も多いと聞く。現場に出かけるタイプのオタクというのは、彼のようにグイグイと他人に絡んでいける者が多いのだろうか……。


「アイドルかー、AKBは好きですよ」


 そんな丸山のキャラが功を奏したのか、手前に座るショートヘアの子は、こちらに警戒心を抱く様子もなく、あっけらかんと答えてくれた。


「『RIVERリバー』、『ポニシュシュ』、『ヘビロテ』、それに『Beginnerビギナー』! あ、それと『ギンガムチェック』も歌えます」

「おお、スゴイじゃん。総選挙見た?」

「見ました見ました! 指原さっしーの一位もビックリでしたけど、わたし、高橋みなみたかみなの八位が悔しくて」

「ほぉー、そこに悔しさを感じるとは、君、なかなかのツウだね」


 多分、丸山の世界の標準からすれば、この子くらいのファン度でも相当ヌルイのだろうな……などと思いながら瀬賀が様子を見ていると、ショートヘアの彼女は「やった、褒められた」と無邪気に笑って、隣の友人の肩をぽんぽんと叩いていた。


「ホラぁ、やっぱりAKB好きな人って多いんだよ。美南みなみちゃんも、もうちょっと興味持とうよー」

「わたしは……」


 セミロングの美少女は変わらず控え目な表情を浮かべていたが、それでもしっかり丸山や瀬賀達に顔を向けてくれているところに、失礼をすまいという彼女なりの配慮があるように見えた。よく出来た子だな、と思うと同時に、同期の遠慮の無さが申し訳なくも思えてくる。


「君はあんまりAKBとか知らないの?」


 丸山が問うと、美少女は「すみません、AKBはあんまり」と綺麗な声で答えた。


「あ、でも、Negiccoねぎっこさんなら、少しは」

「ほぉ!? ご当地アイドル派か、渋いね。Negiccoのライブとか行ったことあるん?」

「設営してるところを見るだけなら。去年、新潟LOTSロッツのときに」

「設営?」

「父の会社の方達が、Negiccoさんのライブにも関わってて」


 何を自慢するでもない調子で、彼女はさらりと述べた。隣の子が声を弾ませて、「この子のお父さん、スゴイ立派な社長さんなんですよ」と言葉を重ねてくる。


「社長令嬢さんかぁ」

「いや、そんな、わたし自身は大したもんじゃないんで」


 白い頬を少しばかり赤らめ、彼女は顔の前で小さく手を振る。


「今年はNegiccoの十周年だけど、また何かやる予定あんのかな」

「あ、こないだ父が言ってました。今年は新潟テルサで大きなライブやるぞって。去年の倍以上のお客さんを動員するからって、張り切ってます」


 見知らぬ美少女は、今までで一番饒舌じょうぜつになってそう語った。Negiccoアイドルの話だからではなく、父親の話だから語りたくなるのだと、その黒い瞳に書いてあるような気がした。

 その僅かなやりとりの中で瀬賀は感じた。立場を鼻にかけるでも何でもなく、等身大の職業人としての父親を尊敬しているその少女の自然な空気を。


 邪魔して悪かったね、と丸山が断るのに合わせ、瀬賀は最後に一言だけ「ありがとう」と女の子達に声を掛けて、その場を辞した。元気よく手を振るショートヘアの子の横で、美少女がぺこりと小さく頭を下げてくる姿が彼の網膜に鮮やかな残像を残した。



「いやあ、あの社長令嬢の子、オーラあったなあ」


 彼女達のベンチから十分遠ざかったところで、丸山が小さめの声で瀬賀に言ってきた。


「お友達には悪いけど、俺は断然あの子の方を推すね。あれは絶対アイドルになる器だよ」

「アイドルには興味なさそうだったじゃん、本人」

「そういう子が案外センターになったりするんだよ。秋元康はそういうの好きだっけなー」

「ふぅん……」


 秋元康の好みは知らないが、瀬賀は何となしに思い浮かべてみた。先程の美少女がきらびやかなアイドル衣装を纏い、ファンの前で歌い踊る姿を。

 ――何だか違うかな、都会らしくキラキラしたのは。

 AKBのことなどほとんど知らない自分でも、何となく、テレビで見かけるアイドル達のあのギラついた輝きが新潟の街に合わないのはわかる。この街に根ざすアイドルの姿というものがあるとすれば、もっと、こう、素朴で温かみのある感じの……。


「何だろうなぁ、新潟のAKBって……」


 萬代橋まで差し掛かったあたりで、瀬賀はほとんど無意識にそう呟いていた。肯定するでも否定するでもなく、ただ純粋に、難しそうだな、と思った。

 そんな彼の心情を知ってか知らずか、丸山がふいに声のトーンを戻して言った。


「いいじゃないかねっけ、新潟48。秋葉原アキバさかえにならってエリア名を冠するなら、万代BND48か? 古町ふるまちRYUTistりゅーてぃすとがもう居るしな」


 その万代ばんだいエリアへ繋がる大橋を渡り始めながら、アイドルオタクは続けた。


「地域密着を打ち出してさ。『やすらぎてい』でPV撮ったりしてさ。まずは新潟の人達にウケるだけでもいい。そこから48グループの看板を活かして徐々に知名度を拡大して……。現にNegiccoがそんな感じじゃないか。全国への一歩はまず地元で地盤を固めるところからなんさ」

「Negiccoね……」


 先程の美少女の父親が仕事で関わっているという、新潟発のご当地アイドル。テレビやタウン誌で見かけることも多く、新潟市民でその名を知らない者は居ない。

 ――と言いながら、瀬賀はそのライブに行ったことは一度もなかったし、どんな歌を歌っているのかもほとんど知らなかった。十周年というのも今日初めて知ったのだ。

 この街の「普通の人」達に対するアイドルの影響力なんて、やっぱりそんなものなのだろうか。


「なあ、Negiccoのライブって、動員客数はどんくらいなんだろう?」

「さあ? 俺はメジャーアイドル専門だっけな。新潟LOTSっていうと……」


 丸山は素早くスマホを操作し、瀬賀の問いに答えてくれた。


「あった。二〇一二年九月、新潟LOTSにてワンマンライブ『Negicco Live in LOTS』を開催。七百人の会場を満員にした――だってさ」

「七百人……」

「今年はテルサでライブやるって言ってたな。新潟テルサ……収容人数千五百人。なるほど、確かに二倍以上だねっけ」


 ――去年の倍以上のお客さんを動員するからって、張り切ってます、と。あの子の語った言葉がふと瀬賀の脳裏をよぎる。


「七百人……。七百人か……」


 同時に思い出されるのは、昼の会議のメモに書きつけた数字。AKB48選抜総選挙、日産スタジアムの動員客数は七万人。


「それが新潟と東京の差……か」


 瀬賀の呟きに、丸山は小さく笑った。彼の頭にもきっと、二日前にその身をもって体験したという、東京のアイドルの桁外れの集客力が思い出されているのに違いなかった。

 スマホをスーツのポケットに戻し、現実を知る男が言う。


「夢物語はこのくらいにしておくけ?」

「……そうだな……」


 この街にAKBの支店を呼ぶなんて、きっと夢のまた夢だろう。

 時に「裏日本」などと呼ばれた新潟の憂鬱。雲に覆われた空が夜の色に染まっていく中、瀬賀は日本海に注ぐ川の流れに目を落とし、全国区になりきれない我が街の行方を思った。

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