Overture - 萌香の始まり

 それは、忘れがたく心に刻み込まれた、小学四年生の夏のことだった。

 八月二十四日の水曜日という日付を萌香もえかは今でも覚えている。その日に合わせてTSUTAYAツタヤに連れて行ってもらうことを、彼女はずっと前から母と約束していた。ここのところ土砂降りが続いていた上越じょうえつ市の空は、この日に限ってはウソのように晴れ渡っていた。


『一つだけお願いがあります。私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください』


 先日の総選挙で涙ながらにそう語った不動のセンターの輝かしい姿が、幼い萌香の頭の中ではずっとリフレインしている。

 どうして彼女のことを嫌う人が多いのか、当時の萌香にはよく分かっていなかった。それでも、たくさんの人の好意と悪意を一手に受け、前を向いて戦い続けるその人の姿は、萌香の心に鮮烈な残像を刻みつけていた。


「お母さん、はよう。売り切れちゃうかも」


 母の運転する車がTSUTAYAの駐車場に停まるが早いか、萌香は母を急かすように助手席から飛び出した。母は「売り切れんよ、こげなイナカで」と苦笑いを浮かべていた。

 だが結局、萌香の言うことのほうが正しかった。こんな小さな街にもアイドルのファンは居るらしく、目当てのCDはまさに売り切れ寸前だった。「発売日」の前日が店頭販売の解禁日となる業界の慣例など、当時の彼女には知るよしもなかった。

 僅かに残った面置きの一枚を取り上げて、萌香は食い入るようにそのジャケットを眺めた。前田まえだ敦子あつこ大島おおしま優子ゆうこら「かみ7セブン」と呼ばれるメンバーを筆頭に、輝かしきアイドル達が中華風の衣装を着て画面に収まっていた。


「へええ、本当に人気なんらね。東京の人達は本当に『フライングゲット』してるかもしれんねえ」

「お母さん、早う、レジ、レジ」

「はいはい。そういやあ、お母さんの頃にもあったんよ、『おニャン子クラブ』とかさ……。いつの時代も変わらないんさね」


 会計を終えて車に戻ると、萌香は早速CDを取り出して、車載プレイヤーに滑り込ませた。恋い焦がれたその音楽が、狭い車内に鳴り響き始める。

 車が動き出す頃、萌香は気付いた。CDのケースに一枚のチケットが入っていたことに。


「フライングゲット……AKB48祭り……参加券」


 瞬間、萌香の脳裏に閃くものがあった。これが――テレビで見た、あの、握手券というものではないか?


「……お母さん。握手券だよね、これ」

「え? お母さんに聞かれても分からんさ」


 ニュースや歌番組で見たことがある。AKB48の握手会では、前田敦子らメンバーとじかに触れ合い、言葉を交わすことができるのだ。

 たちまち、萌香の胸に微かな期待が湧き上がってきた。この券があれば、自分も前田敦子あっちゃんに会える……?


「……行きたいな。握手会……」


 だが、彼女がぽつりと呟いたその希望は、母の何気ない一言であえなく砕け散ることになる。


「でも、そういうのやってるのは東京らろ? ちょっと簡単には行けないさ」

「……そうなん? なぁんだ……」


 やっぱりそうなんだ、と彼女は思った。自分の住む街が、いわゆる都会とは違うことを、萌香もこの年になって何となく理解していた。

 ――都会に生まれなきゃ、憧れの人に会うこともできないのかな。

 それは幼い身で割り切るにはあまりに切ない現実だった。車載プレイヤーから流れる「フライングゲット」の激しい歌詞を聴きながら、萌香は使い道のなさそうな握手券をいつまでも眺め続けていた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 時に二〇一一年八月。後にAKB48の黄金期と呼ばれるその時代。


 本間ほんま日陽ひなた十一歳。

 加藤かとう美南みなみ十二歳。

 荻野おぎの由佳ゆか十二歳。

 中井なかいりか十三歳。

 高倉たかくら萌香もえか十歳。


 いずれ新潟の街から全国へ羽ばたく若鳥達は、未だその待ち受ける運命を知らず――

 各々の未来を包んだ硬いからの中で、いつ動き出すとも知れない青春の時計を握りしめていた。


 ――羽ばたきの瞬間ときまで、あと千四百五十八日。

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