Overture - 由佳の始まり

「努力は必ず……報われる……!」


 ニュースやインターネットを通じてたちまち全国を駆け巡ったその言葉は、多くの人々の心を動かした。

 彼女の覚悟を褒め称える者。彼女の人生観に憧れる者。自らもそれを実践しようと決意する者……。

 そして、埼玉は越谷こしがやの街にも一人、彼女の言葉に希望の灯火ともしびを見出した少女が居た。


「パパ、ママ、決めた。わたし、アイドルになる!」


 夕食の席で由佳ゆかが高らかに宣言すると、両親はしばし固まり、揃って目をぱちくりとさせた。弟と兄がすかさず茶々を入れてくる。


「まーた姉ちゃんが変なこと言ってる」

「その顔でアイドルなんか無理無理。カガミ見て来いよ」

「なんで!? わたしカワイイもん!」


 兄のからかいにムキになって言い返す由佳を、まあまあ、と父がなだめにかかる。


「落ち着いて考えなさい、由佳。なりたいと思ってなれるものじゃないぞ。そもそも、芸能人になるには、まずオーディションっていうのを受けてだな」

「もう見つけてるもん、オーディション。これこれ、見て見て。AKB48第十三期生オーディション!」


 携帯電話の画面に映したそれを由佳が見せつけると、家族は一様に眉をひそめた。


「……これを受けたいのか? AKBって、あのAKBだよな?」

「これだけじゃない! もっと調べて、今から受けれるオーディション全部受ける!」


 彼女は本気だった。ずっと自分の中でくすぶり続けていた夢に、なぜか、今なら挑んでもいいような気がしたのだ。

 しかし――。


「姉ちゃん、何か悪いものでも食べた?」

「無謀な夢は止めてやんのが親の務めだろー」


 男兄弟が好き勝手にはやし立てる中、父は難しい顔をして、ただ一言、「ダメだ」と言った。


「ええぇ、なんで!」

「考えてもみなさい。仮に本当にオーディションに受かったとして、どんな暮らしが待ち受けてると思う? 毎日のようにレッスンやらイベントやらで、まともに学校に通うことも、友達と普通に遊ぶこともできないんだぞ。それだけの心血を注いでも、下積みから抜け出せる子はほんの一握りだ」


 父の言葉は由佳の胸に重たく響いた。今や国内の全姉妹グループを合わせて二百人以上のメンバーを抱えるAKB48。その中で、総選挙で選抜入りしたり、シングルのセンターを務めたりできるのは、本当に一握りの者だけなのだ。


「……わたし、努力するもん。努力は必ず報われるって、が言ってたもん!」

「他の子達だって努力はするだろう。日本中から何十人、何百人と可愛い子が集まってくる中で、自分が一足飛びに人気者になれると思ってるのか? 見通しが甘いんじゃないのか?」


 父の真剣な目に、由佳は押し黙った。兄弟達ももう茶々を入れてはこなかった。


「親が願うのは子供の幸せだよ、由佳。自由もプライバシーもない、成功する保証もない、それでいて将来のつぶしも利かない。パパはそんな危ない道にお前を進ませたくはないんだ」

「……でも」


 でも、の続きを由佳は言えなかった。父が頭ごなしに夢を否定するのではなく、自分のことを思って言ってくれているのだということは、十二歳の彼女にもよく分かったから。



 夕食の後、由佳は自分の部屋の机に突っ伏して、携帯電話に映したYouTubeの画面をぼんやりと眺めていた。

 弾ける笑顔で歌い踊るのは、倍率数百倍のオーディションを突破してAKBの一員となった子達の中から、さらにふるいにかけられ選び抜かれた筋金入りのトップ集団。

 自分なんかがそのいただきに立つことを望むのは、やはり身の丈に合わない夢なのだろうか。


「由佳、入るわよ」


 物思いに沈んでいた彼女の耳に、軽いノックと母の声が響いた。

 そっと扉を開けて部屋に入ってくる母に、由佳は携帯の画面から目を離して顔を上げる。


「ママは、受けてみてもいいんじゃないかと思うわよ。オーディション」

「えっ……?」


 由佳は思わずがばっと飛び起きていた。反動で回るチェアを押さえ、彼女は母に向き直る。


「まあ、難しいとは思うけど。一度は当たって砕けてみなきゃ、諦めるにも諦められないでしょ。パパには、ママから話してあげるから」

「……うん、ありがとママ! わたし、砕けないけどね!」


 己の頬に流れ込む熱い血流を感じながら、由佳は叫ぶように言った。

 とにかく動き出すしかない、と思った。

 父が言った通り、努力しても必ず成功するとは限らないのかもしれない。だが、それでも、挑んでみないことには何も始まらない。

 たとえその一回でダメでも、何度だって挑戦してやろう。テレビで見たあの人の輝きに、いつか自分も追いつくために。

 忘れられない中学一年生の六月。AKB48第十三期生のオーディションは、応募の締切まであと一ヶ月に迫っていた。

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