無明が辻・四

「良いですよ」

「良いんだ……」

 時雨は帰宅して、リビングにいたセリカにハロルドからの依頼について話をした。

 まぁやめておけと言われるだろう――と、考えて、恐る恐るといった感じで話した時雨としては、拍子抜けする返答である。

「ええ、あそことはお義父様の代からの付き合いもあるでしょう? お断りするわけにもいかないのでは?」

「そう、なんだけれども……」

 と、時雨は考えてしまう。

 もやっとした違和感を感じて、答えが遅れる。

「なんですか、もしかして、私が止めるとでも思っていましたか?」

「大分」

「私だって、あなたの妻で、もう子供ではないつもりです」

 つん、と答えるセリカ。

「あー、そっか……」

 ぽりぽりと時雨は頭をかいた。

 ――そんなに気を張らなくても良いのになぁ。僕よりも大分しっかりしてるのに。

 もう子供ではない、という言葉を大人は出さない。

 そんな事は、セリカだって本来なら分かる程度の事でしか無い。なのに自分の事だからか、目が曇ってしまっている。

 それが、時雨の妻である――或いは、あろうとしている――セリカが常に抱えているものなのだろう。

 そこには背伸びしなければ届かない、と考えてしまうのだろうか。そう考えても無理がない年の差が有るのは確かではある。

 しかし、そんな事は本人の人格、能力でさくりと乗り越えられてしまう程度のものでしかない。

 セリカ個人がそれに足りていないかというと、時雨にそういう気はしない。

 ハロルドに言った言葉は、心からの真実である。

 セリカは自分には過ぎた女性だ。

 だが、と時雨は思う。

 それを素直に言葉に出すことが、既に彼女を子供扱いしている事になりはしないだろうか?

 彼女を慮って、本人が行って来いと言っているのを、辞めるというのも、似たような事に時雨には思えてくる。

「なにか?」

「いや……なにも」

 考え事が長すぎたらしい。怪訝な目を向けてくるセリカに向かって、時雨はそう返す。

 もうこうなってしまった以上、仕事は受けるしか無い。

 受けたくない、というわけではない。むしろ、受けたいけれども、セリカが……というつもりでいたのだから、好都合ではある。

 だが、やはりセリカの事を考えるとなかなか難しいわけで……

 ――いや、もはや、行くしか無いか。

 居住まいを正して、時雨は言う。

「セリカさん」

「……なんですか?」

「無事に帰ってきます」

 時雨がそう言うと、セリカはぎゅっとテーブルの上に置いた手を握りしめた。

「当たり前です」

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