無明が辻・三

 食事を終えると、時雨は道場を出た。

 天気予定では雨は日を閉ざしてから。傘の必要はない――そう考えて、月硝子ムーングラス製の天蓋を見た。

 ミズホに限らず、人間が居住可能な月面都市は、全てドーム状の天蓋に覆われている。そして、定期的に雨を降らせる事によって空気中の埃や塵を洗浄し、湿度の調整を行っている。

 天蓋は半透明であり、漆黒の外――宇宙が、そして今の時間なら青い地球がよく見える。

 地球から出てみた所で、人間という生物が地球環境で生活するように設計されているということは変わりない。ならば、地球環境の仕組みを模倣してしまうのが、最も簡単に生活圏を作ることが出来る方法だ。

 そんな事を考えながら、時雨はミズホの町並みを歩く。立ち並ぶビルは、天蓋と同じく月硝子ムーングラスで表層が出来ているが、流石に天蓋ほどの透明度も無く、色もある程度バリエーション豊かだ。

 それらが立ち並んでいる様は、まるでステンドグラスが無数に並んでいるかのような絢爛さと輝きを持っており、地球からの観光客が目を瞠るものであるという。

 建物だけでなく、道路や街灯、信号灯なども、透明度を限りなく抑えた月硝子ムーングラスで作られている。

 誰が呼んだか、月面都市は硝子細工の都市、宝石の街とのことだ。

 そんな輝く光景も、月の生活者である時雨にとっては見慣れた光景に過ぎない。

 歩いているうちに時雨は待ち合わせ場所の喫茶店へと辿り着き、足を踏み入れた。

「おっと、お疲れさま」

 声をかけてきたのは、奥の席に座っていた男だった。時雨より一回りは年上の白人男性で、腹回りにやや脂肪を溜め込んでいるのは年齢以上に運動不足ゆえだろう。

 スーツを着たその男は、ハロルド・ロビンソン。食品製造から治安維持、果てはエンターテイメント産業まで手を伸ばす、ミズホで一番の複合企業・セレナアルテカの警備部に所属している。時雨との付き合いもそれなりに長い。

 先に着いて待っていた都合か、ハロルドはフルーツあんみつをつついていた。

「また甘いもの……太りますよ」

「その時は、君の道場に世話になるさ」

 喫茶店よりは甘味処、という言葉の方が似合うその店の奥まで足を踏み入れ、ハロルドの向いに座った。

 席に備え付けのスクリーンで時雨も商品を注文した。昼食を済ませた後でも有るし、軽くみたらしだんごと茶のセットでも。

 そうして注文を済ませると、時雨は問うた。

「それで、まさか一緒に甘いものでも――というだけでもないでしょう?」

「まぁ、そういう付き合いで君を呼んでも良いのだけれども、さすがに就業時間中にそうもいかないだろうね。ところで、それで良かったのかい? ここの注文は経費で落ちるよ?」

 和風エプロン姿の女性店員が運んできた、だんご二本とお茶を見て、ハロルドは言う。

「まぁ、あまり食べて夕食を抜いたりすると妻に叱られますし」

「なるほど尻に敷かれているわけだ。一回り近く下では無かったかね?」

「そうですが、僕より余程しっかりした女性なので……勿体ないくらいでして。いや勿体ないな僕には」

「そこまで卑下しなくとも……」

「客観的な事実という奴です……そろそろ本題に入ってもらっても? なんかあんみつ突いてばかりで話が進んでない気がしますし」

「まぁまぁ、このあんみつも、無関係ではないのだよ」

 そう言って、ハロルドは透明度の高い翡翠色をした月硝子ムーングラス製の器から、青い果物をスプーンで掬ってみせる。

 蜜に和えられて、てらりと光る様は、内に秘めた甘味や瑞々しさと合わせて官能的ですらある。

「それが、何か」

月面菜ムーングリーンの一つ、ジェリーフィッシュだ……と言っても、まぁ知っているか」

「妻が結構好きみたいですね。よく買ってきます」

「それは今後もご贔屓に。君からも買ってやると良い。まぁ、これを作っているのも、セレナアルテカのグループ企業の一つ、月庭菜園なわけで、その工場がこのミズホにあるのも知っているかね?」

「いえ、そこまでは」

 言われると、一般社会にもう少し関心を持つべきだろうか、と時雨はぼんやりと考えてしまう。セリカにも色々言われそうだ。

「まぁ、それは良いか。で、月庭菜園で製造した月面菜は、各月面都市へと輸送されているわけだけれども……その輸送車が辻斬りにあってね」

「辻斬り――ですか?」

「そう、辻斬りだ」

 言って、ハロルドはスプーンの上の月面菜ムーングリーン――ジェリーフィッシュを口へと運んだ。

殲刀機カタナ持ちの侍に、襲撃を受けたのさ」

「護衛はつけていたんですか?」

「まぁ、通り一遍……という所では有るけれどね。殲刀機カタナはどうしても、扱う人間に左右されすぎるよ。質の安定が難しい」

 言って、ハロルドは溜息を吐いた。

 殲刀機カタナは、ブレイン・マシン・インターフェースを用いて操縦者である侍の動きを精密にトレースする――というよりも、精密にトレースしすぎてしまうのである。

 殲刀機カタナの前身となったのは汎用作業用機械である。作業機械としては、アームやマニュピレーターの精密動作精度も一般人のそれをトレースする分には非常に有用である。

 しかし、刀を握って振るわせる域まで行くと、精密なトレースが仇となってしまう。殲刀機カタナは侍の出来る動きを極端に逸脱することが出来ない。

 達人の動きをさせたければ、達人の侍に操縦させるしか無いのである。

「つまり――」

「代わりの護衛を依頼したい、ということだね。君に」

「既に、御社の侍を斬り捨てている相手が狙っている輸送車を?」

「そうなるね」

「うわー……」

 露骨に嫌そうな顔をしてみる時雨に対して、ハロルドはふふっ、と笑いを漏らした。

「そんな顔をしているけれども、引き受けてくれるのだろう?」

「……まぁ、前向きに考えますけれども……」

 渋い顔をしたまま、時雨は肯定した。

 道場で人に教えるよりも、こうして刀働きをしたほうが遥かに儲かるのだからどうしようもない。

 人の世で生活するとはそういう事だ。

 それに――

「ふむ、快い返事、ありがとう」

「そうでもないですけどね」

「まぁまぁ、そう言わずに。うちの殲刀機カタナに残っていた、辻斬りのデータも提供もするから」

「ほぅ」

 思わず身を乗り出した時雨に向かって、ハロルドはにたりと笑った。

「それだよ、それが君の本質だ」

「どういう意味で?」

「もう、乗り気だろう?」

「む……」

「君は刀が振りたくてたまらない人間だって事さ」

 私にとっては助かることだけれどもね、と高く笑うハロルドに対して、時雨は一言返すのが精一杯だった。

「妻と相談させて下さい」

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