無明が辻・二
月面都市・ミズホの外れには、真原道場という名の小さな剣術道場が建っている。
何代か続くそれなりに由緒正しい剣術道場であるが――宇宙に人類が進出し、月面に複数の都市を築くに至った現代では、あまり流行っているとはいえない。
都市に擬似重力発生装置が敷設される以前は、筋力の維持を目的として運動が奨励――なかば強制だったとも――されていて、この道場もそれなりに流行っていた過去は有る……が、過去は過去でしかない。
現在は女性に無手での護身術を教えたり、近所の子供が体力つくりの運動がてら棒振りを習ったり、という程度であり、本気で武を修めようというものは居ない。
……とはいえ、それで食うに困るほどでもないので、この道場を取り仕切っている真原 時雨は大分呑気にしていたのだった。
今日は教え子が一人も来る予定も無く、暇を持て余した時雨は道場で胡座をかいていた。
もっとも、座禅、瞑想、といった聞こえの良いものではなく、ただ単にうつらうつらと、船を漕いでいるだけである。
一つに纏めた尾のような髪はゆらり、ゆらりと振り子のようにふれ、男が纏った和装を叩いている。
それはまるで退屈な猫のようで、今年で二十六――働き盛りの男の、平日の日中とはとても思えない有様であった。
と――
「あなた」
後ろから声をかけられて、反射的に時雨はぴんと背を伸ばした。
時雨の耳に届いたのは、しっかりと調律されたバイオリンの弦のように、凛と張った少女の声だった。
「ん、あぁ……うん……セリカさんか」
時雨がゆるりと首だけで振り返った先には、彼の妻――真原 セリカが立っていた。声と同じく、ぴしりと伸びた背筋で経ち、これまた真っ直ぐな視線が時雨に向けられている。
「あれ、今日学校は?」
「今日までは定期試験で、学校は昼で終わりです。忘れていましたか?」
つんとした態度と表情で、セリカはそう返す。
小柄なその身を包んでいるのが、近所の私立瑞穂高等学校の制服であるのは、彼女の身分が学生であると示している。
「あぁ……そうだった。じゃあ昼御飯まだだったよね。困ったなぁ、準備しておかなきゃいけなかったなぁ」
セリカに言われて時雨も思い出していた。今日は昼前に帰るから……と朝に言われて、じゃあ昼は自分が用意する――とセリカに返したのだった。
「昼の準備は私が済ませました」
「あぁ……」
バツが悪くなり、時雨は頬を掻いた。
どうもいけない。セリカとは一回り近くも歳が離れているのに、この妻の方が自分より余程しっかりしている。
昔からそうだった、と言えばそれまでだが。なんとも情けない話だ。
むしろセリカがしっかりしているのもあってか、結婚してからますます気が抜けているような気が時雨にはしてならなかった。
「ですから、早く来てくださいな」
「あぁ、はい……」
くるりと身を翻したセリカの後ろを、時雨はとぼとぼと歩いて着いて行く。
道場とは言っても、それは自宅と併設されたものに過ぎないので、居間に着くまではあっという間だった。廊下一本で直通である。
道場とは印象の違う洋間、テーブルの上には、セリカが用意した昼食が並べられている。
冷奴にサラダ、心太と、食卓に並んだ品は全て透明な
無言のまま、セリカと向かい合って時雨は着席する。
「……」
「……」
目を閉じたまま、口を開くことも無いセリカの姿に、どうにもこうにも困惑してしまう。先に動け、ということであるような。そうでないような。
主導権を与えられているのに、主導権を握られているまま。
まぁ、そんな事を考えても仕方ないか――と、時雨は思い直す。思い直したので、素直に対応することにする。
「……いただきます」
「いただきます」
手を合わせて時雨が言うと、セリカもそれに続く。どうやら、先に言え、ということであったらしい。
――うーん……
やはり、セリカは難しい、と時雨は思う。今ひとつ、どのような考えでいるのかが、すぐには分からない。
この、理解にワンテンポ遅れてしまう感じが、相手が年下の少女というものに由来しているのか、セリカ本人の気質に由来しているのか……
考えても仕方なし、セリカが用意してくれた昼食に箸を伸ばすことにする。
「美味しいよ、セリカさん」
涼し気な装いの食卓は、どれも口に運ぶと見目の通りに清涼感を感じるもので、それだけでも心地よく、その一方で、食感はバラエティ豊かだ。
つるりとした喉越しの心太に、しっかりした木綿豆腐の冷奴、あとは白米。どれも気が利いている。だが、一番はサラダだろうか。
素直にありがたく時雨は感じていた。
「……この程度、誰でも出来るものです」
それに対して、セリカは目線をそらして、冷たくすら有る態度でそう返してくる。
「……なんかごめんなさい」
どうにもこうにも、やはりこの妻のご機嫌は難しい。
口ほど嫌がっていない、というのは何となく分かるのだが。
うんうんと唸りながらも箸を動かしていると、懐に震えがあった。
「おっと」
和服の懐に入れておいた、多機能端末が振動でメッセージの着信を伝えていたのだ。
「見ないのですか?」
「いや、セリカさんとちゃんと食事してからにするよ」
「……そうですか」
また目を逸して、セリカはそう答えた。
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