Storia ─ストーリア─

杜乃日熊

Storia─ストーリア─

 そのバーには、酒のアテとして“物語”を提供する語り部がいるという。ネットのクチコミによると、眉目秀麗の浮世離れした女性が、客のどんなオーダーにも柔軟に応えるとのことで評判が良いらしい。


 いったいどんな女性なんだろう。期待に胸を膨らませて、僕は件のバーに電話をかけた。物語を語り聴かせるにあたって、大人数を相手にすることができないとのことで、事前の予約が必要なのだそうだ。


 電話口の相手は男性のようだった。低いトーンで落ち着いた声色が聞こえてきて、少し気持ちが冷めた。まぁ、噂の女性には実際に会ってみればいいわけだし、それまでのお楽しみにしておこう。


 ともあれ、予約した日の夜。街の路地裏へ入って、その奥に鎮座しているバーに向かった。ひっそりと佇むその店は、さながら隠れ家だ。外観はシックと言った印象で、淡いライトに照らされた黒のタイルが神々しく見える。入り口のドアの上部には筆記体で「Storia」と書かれている。ソワソワする気持ちを抑えて、ドアを開けた。鳴り響くベルの音をくぐり抜けた先で、


「いらっしゃいませ。ようこそ、ストーリアへ」


 涼やかな風のような声とともに、カウンター席のスツールに腰掛けた女性が出迎えてくれた。


 なんだ、これ。まるで世界が一変し、自分は今どこにいるのかが分からなくなってしまう、不思議な感覚が疾った。そう思えるほど、目の前の女性は浮世離れしていた。

 彼女は中東系の白いドレスを着ている。褐色の肌で目鼻立ちがはっきりとした顔は日本人のものには見えない。まさにアラブの王妃といったところだ。


「どうかなさいましたか?」


 流暢な日本語を発して、女性は穏やかに微笑みかける。その可憐な仕草を見て、「あ、えっと……」としどろもどろになってしまう。


「さっそくウチの看板娘に見惚れてしまったようですね、お客さん」


 不意に男性の声が聞こえた。カウンターの方を見ると、顎にヒゲを蓄えたバーテンダーが立っていた。女性に気を取られるあまり、バーテンダーがいたことに今はじめて気がついた。

 顔のシワは目立つものの、それがかえって大人の男としての魅力に昇華させている。俗っぽく言えばワイルド系だ。


「立ち話するのもアレなんで、良かったらこちらへ腰掛けてください」


 そう言って、バーテンダーは自身の目の前の席、すなわち女性の左横の席を指し示した。

 そこに、座るの? 本当に? この人の隣なんて畏れ多くて落ち着かなくなりそう……。しかし、ここで別の席に座るのは失礼なので、素直に従うことにした。席の間隔はそれほど広くないのか、女性との距離がやけに近く感じる。酒を呑もうとすれば肘が当たってしまいそうだ。


「今日予約をしてくださった本屋敷もとやしきさんですね。改めまして、ようこそストーリアへ。私はこのバーのマスターをしている小西といいます。それから、その娘はウチの看板娘のムーサです」

「看板娘? あぁ、もしかしてこの方が語り部の……?」

「そうです。当店ではムーサが物語を読み聴かせるんですよ。ちなみに、この装いは『千夜一夜物語』のシェヘラザードをイメージしたものです。決して私の個人的な趣味とかそういうわけじゃないんで、あしからず」

「さいですか」


 ムーサというと、ギリシャ神話の女神の名前だ。文芸や音楽、学問などを司る神様で、英語名はミューズ。看板娘の源氏名とするにはやや仰々しい気もするが、それだけ“物語”というコンセプトを大事にしているのだろう。そういうことなら、シェヘラザードのコスプレにも納得がいく。


 隣のムーサさんの様子を窺うと、ニコニコと笑みを浮かべながら、僕と小西さんのやりとりを眺めていた。そんなに見つめられると、体がこそばゆくなって仕方がない。


「それじゃ、まずは当店のシステムについて説明しましょう。ウチには“ワンドリンク・ワンストーリー制”でやってます。ドリンクを一杯頼むと物語を一つ提供する、という流れです。

私がドリンクを作り、ムーサがお客さんのご要望に沿った物語を読み聴かせます。追加で注文する場合は、ドリンクと物語をセットでご提供します。ちなみに、食べ物はセット料金の中に含まれています」


 小西さんがメニュー表を渡してくれた。ラインナップを見ると、カクテルやワインなどのアルコールドリンクが三十種類を超えていて、料理はチーズやナッツをアレンジした簡単な品が十種類前後。それから、フムスやらバクラヴァやら、よく分からないメニューも書かれている。


「当店は『千夜一夜物語』をモチーフにしてますから、アラビア料理も取り入れてるんです。ちゃんとプロから習ったんで、味は保証しますよ」


 フムスというのはひよこ豆をペースト状にした料理で、バクラヴァはピスタチオやクルミなどのナッツ類をパイ生地で挟んだ焼き菓子とのこと。すごい力の入れようだ。小西さんは『千夜一夜物語』によほど愛着があるのかもしれない。


 一通りメニューを眺めて、一番最後のページを開く。そこには、

『物語:フリーオーダー』

 と書かれている。注文はご自由に、ということか。なんともお洒落なメニューだ。


「じゃあ、ドリンクはスカイダイビングで。あと、フムスっていうのをお願いします。物語の方は……おまかせしても?」

「ええ、それでしたらドリンクのイメージに合った物語を、ムーサに見繕ってもらいましょう。ムーサ、スカイダイビングのイメージに合わせた物語を頼む」

「承知いたしました、マスター。本屋敷さまのために、素敵な物語を考えさせていただきますね」


 ムーサさんは無邪気に笑った。それから顎に手を添えて、考え事をし始めた。ロダンの『考える人』みたいなポーズだ。


 ムーサさんが考えている間、小西さんが手早い動作でドリンクを作っていた。ベースのラムにブルーキュラソーとライムを混ぜて、軽やかにシェイカーを振る。一連の動きに無駄がなく、なかなか見応えがある。


「私に見惚れられても困りますよ」

「なんでそうなるんですっ」

「冗談です」


 小西さんは子どもっぽい笑みを浮かべた。ワイルドな見た目に反して、けっこう茶目っ気のあるマスターなようだ。


 改めて、店内を見渡す。オレンジ色の照明が光る店内は、最低限のインテリアしか置かれてないためか、広々とした印象だ。朗読がメインのお店だから、必要以上に物を置く必要がないのかもしれない。

 そんな中、お酒のボトル棚には酒瓶に紛れて魔法のランプらしきオブジェが置かれている。これも小西さんの遊び心なのだろう。


「ところで。本屋敷さんは創作に興味はおありですか?」

「なんですか、唐突に」

「いえ、これはどのお客さんにもお訊きしてることでして。世間話の一つと思ってください」

「そうなんですか。でも、自分で物語を考えようとは思わないですね。すでに面白い作品がたくさん世の中に溢れているわけですし、才能のない自分が新しいものを創るなんて恐れ多いですよ」


 僕にとって、物語というのは自分で創るのではなく、すでに在るのを読んで聴くモノだ。僕が創作に携わらなくても、常に新しい物語は生まれ続けるのだから、それを楽しめばいい。

 僕の答えを受けて、小西さんは「それもそうですね」と呟く。そこで少しばかりの沈黙が流れる。ムーサさんは考え込み、小西さんはシェイカーを振る。たまたま生じた、この静かな時間になぜか緊張してしまう。


「そういえば、ムーサさんってご自身でイチから物語を創っていらっしゃるんですか?」


 ムーサさんの方を見ると、ずっと『考える人』のポーズをとったまま。よほど集中しているのか、僕らの話は聞こえていない様子だ。


「ムーサはいろんな物語を知っているんですよ。その中からお客さんのオーダーに合ったものを朗読しています。そこからムーサなりに学習して、オリジナルの話を考えることもあります。」

「へぇ、すごいですね。まさに物語のスペシャリストというわけだ」


 そうですね、とムーサさんの代わりに小西さんが答えた。小西さんはシェイカーを振る手を止めて、中身をグラスへ注いだ。


「お待たせしました。こちらがスカイダイビングになります」


 カウンターテーブルにグラスが置かれる。サファイアに近い青色は、広大な海を想像させる。バーで出されるカクテルとは、どうしてこうも綺麗に見えるのか。ちょっとした魔法のようだ。


「ありがとうございます。それでは、一口いただきます」


 ドリンクを呷ると、爽やかな口当たりを感じた。ラムの甘味とライムの苦味がちょうど良く入り混じり、柑橘系の香りに鼻腔をくすぐられる。


「美味しいです」


 不意に漏れ出た言葉に、「恐縮です」と小西さんは会釈する。


「料理については物語の後に出しましょう。ムーサ、物語の方は思いついたかい」


 小西さんの呼びかけに、ムーサさんはポーズを解いて、「ええ、バッチリです」と答えた。


「スカイダイビングの名前にちなみまして、空をテーマにした物語をご用意しました。本屋敷さまのお耳に合いますと幸いです」


 それから、ムーサさんは語り始める。小西さんはおしゃべりを止めて、ムーサさんの透き通るような声だけが店内に響く。なんだか場の雰囲気が引き締まる心地がした。




「今宵、語るのは空を泳ぐ魚の物語でございます。

 この世にはさまざまな不思議が多く存在します。人々がまだ見たことのない生き物もこの世のどこかにいるものです。

 その中に、空を泳ぐ魚が存在しても不思議ではないでしょう。誰が発見したのかは分かりませんが、語り継がれてきたその名前はソラウオ。名は体を表す、とはこのことですね。


 あるソラウオは、広い夜空を一匹で泳いでいました。小さなからだを懸命にくねらせて、一点に向かっていました。ここでは便宜上、彼と呼びましょう。彼は一体どこへ向かっているのか。彼が目指していたのはとある星でした。どの星よりも一等輝いている星。それに魅入られた彼は、そこへ行ってみたいと思うようになったのです。


 しかし、彼と星の間の距離は果てしなく長いものでした。彼がどれだけ泳いでも、一向に星は近づいてきません。それでも彼は泳ぎ続けました。


 彼が星を目指す道中、別のソラウオに出会いました。彼の目的を知ったそのソラウオは、彼にこう言いました。

“星まで行こうだなんてバカな考えはよせ。オレたちには行けっこないほど、星は遠い所にあるんだ。どれだけ頑張ったってムダさ。”


 それを聞いた彼は、こう答えたのです。

“ムダなことなんてないさ。たとえ星まで行けなかったとしても、ボクには星まで行けるだけの力がなかったんだってことが分かるだろ。それは行動しなくちゃ分からないことだ。ボクの努力がムダだったかどうかは、ボク自身が決めることだよ。”

 彼の意志は堅いものでした。誰に見向きもされなくても、彼は泳ぎ続けました。たった一つの光に向かって。


 ただ、この世の中は不条理なことが起きてしまうのが常です。星に向かって泳ぎ続けた彼でしたが、目的地に辿り着く前に彼は力尽きてしまいました。


 一匹の魚が辿った孤独な旅路。しかし、その道程を見守っていた者がいたのです。それは空の神さまでした。彼のひたむきな努力に感動した神さまは、彼を星にしてあげました。

 星になった彼は、とても力強い光を放っていたといいます。もしかすると、今もどこかで彼は輝き続けているのかもしれませんね」




「──今宵の物語はここまでにございます。いかがでしたか」


 ムーサさんの朗読が終わった。いい夢から目覚めた心地がして、なんだか意識がふわふわとしている。


「とっても素敵でした。雄大な夜空を泳ぐ魚の姿がありありと想像できましたよ。それに、なんといってもムーサさんの声が素晴らしかった。声優か何かなさってたんですか?」

「いいえ、ワタシは声優をしておりません。ただのしがない語り部でございます」

「そんなご謙遜を。ムーサさんの声はプロの声優顔負けでしたよ」


 ひとしきり感想を述べて、再びスカイダイビングに口をつけた。さっきのソラウオの話を聴いた後だと、爽快感が増したようだ。広大な空を泳いでいくソラウオになったような心地がした。


「そういえば。ムーサさんって、さっきから全然水分を摂ってないですよね? それでいて、ずっと綺麗な朗読が続いていたから不思議だ」

「ええ、それはワタシには必要────」

「ムーサはプロ意識が高いから、お客さんの前では水分を摂らないんです。そうだね、ムーサ」


 突然、小西さんが話に割って入った。ムーサさんは不思議そうに小西さんを見て、「そうでしたっ」とはにかむ。


「それはすごいですね。あ、もうドリンクがなくなっちゃいました。それじゃ、もう一杯おかわりしてもいいですか? 物語もセットで」

「かしこまりました。ムーサ共々、とびっきりのものをご用意いたします」

 小西さんは笑った。それから、ホッと安堵したようなため息をついた。



 本屋敷が退店してから。「Storia」は営業を終えて、小西とムーサは店の奥へ入っていた。小西はデスクトップのパソコンを起動させて、彼の隣の席にムーサが座る。


「ひらけ、ゴマ」


 小西がそう唱えると、ムーサの表情は死に絶え、虚ろな瞳に変わった。


「音声コマンド、認識。これより、設定モードに移行します」


 一切の感情が籠っていない、冷たい声がムーサの口から漏れ出る。

 そんな彼女を気に留めることなく、小西はパソコンのマウスを操作する。ディスプレイに表示された、英数字や記号の羅列。スクロールする画面を小西は見続ける。


「今日も問題はなし、と。やっぱどれだけプログラムが良くても、人間と同じレベルで会話するのは無理があるんかねぇ」


 独りごちる小西。彼は無機質なに視線を向けた。


 全自動型物語生成AI。『千夜一夜物語』の語り部から名前を取って“シェヘラザード”と名付けられたソレは、世界中のあらゆる物語を収集・分析して物語の紡ぎ方を学習する。構造分析のノウハウも取り入れることで、より体系的に物語を紡ぐことが可能となった。


 “シェヘラザード”が創った物語はデバイス上に活字データとして表示されるが、ハードウェアを用意することで音声を通じて読み聴かせることが可能となる。このハードウェアには人型アンドロイドを用いることも可能で、特に女性のアンドロイドが人気を博している。かくいうムーサも、カスタマイズしたハードウェアを身に纏った“シェヘラザード”だ。


 何千、何万、それ以上に存在する物語を深層学習した“シェヘラザード”が紡ぐ物語は、多くの人の心に訴えかけた。時にはお涙頂戴の人情物を、時にはハラハラドキドキが止まらない冒険活劇を、またある時にはイロニーの効いた風刺作品を。人の手を介さずに豊富なバリエーションの物語を生成する“シェヘラザード”のおかげで、人々は物語をより日常的に享受できるようになった。


 しかし、その代償として、人々の方が物語ることを止めてしまった。これまでの人類史の中で紡がれた物語は無数に存在し、いつしか飽和状態に陥った。今さら新しい物語を紡ごうとしても、どこかで既存の作品と似通ってしまう。ゼロから新しい物語を紡ぐことは、もはや人の手では実現できない、と人々は無意識に悟ったのだろう。その結果がAI “シェヘラザード”の誕生だ。


 人はなぜ物語を紡ぐのか。その問いに明確な答えを見出せないまま、いつしか人々は物語ることを止めてしまった。その問いかけのバトンを“シェヘラザード”に渡したのだ。


 ただ、それしか方法はなかったのかという疑問が、小西を突き動かした。たとえ“シェヘラザード”がどんな物語でも創作できるのだとしても、人が創作をしてはならない理由にはならない。人間だからこそ紡げる物語だって存在するはずだ。


 そこで小西が思いついたのが、物語を語り聴かせるバー「Storia」だった。ここで“シェヘラザード”の創る物語を不特定多数の人間に聴かせることで、触発された人がいつしか自分で物語を創ろうと志すのではないか。そんな淡い期待を抱き、小西は店を構えた。


 語り部として用意した“シェヘラザード”には、ムーサとして人間のように振る舞ってもらうようにした。“シェヘラザード”という先入観を聴き手に与えてしまうと、相手の創作意欲はかき立てられないと考えたからだ。

 ムーサは膨大な数の物語を学習しているため、それなりに人間らしい振る舞いをすることはできる。しかし、ところどころで不自然な発言をしてしまうこともあり、その度に小西がフォローに入っている。

 人が人に物語を提供していると思ってもらうことで、自分でも頑張れば物語が創れるのではないかと希望を持ってもらえる、はず。


「──なぁんて、青臭い考えで始めたものの。やっぱり世の中は上手くいかんもんだよな」


 一風変わったコンセプトが評判を呼び、店にはそれなりに多くの人がやってきた。しかし、その中から創作を始めたという人の話を、小西は今までに聞いたことがなかった。果たして自分のやっていることは実を結ぶのだろうか。一抹の不安が小西を悩ませていた。


 「とじろ、ゴマ」と小西が唱えると、ムーサは小西の方を向いた。


「音声コマンド、認識。設定モードを終了します」


 言うと、ムーサはカクンと頭を前に揺らした。それから眠りから覚めるように、ムーサは頭を上げた。

 その様子を見守っていた小西は、ポツリと呟く。


「なぁ、ムーサ。人はなぜ物語を紡ぐと思う? 世界中の物語を蒐集した君だったら、その答えが分かるんじゃないか」


 小西がまっすぐにムーサを見つめると、ムーサは困ったように笑う。まるで人間が考えあぐねているかのように。


「なぜ物語を紡ぐか。それはワタシが思うに三つの理由が挙げられます。


 まず一つ目は、現実とは異なる世界に思いを馳せることで、心に癒しをもたらしてくれるから。これは娯楽作品やエンターテイメント志向の作品に求められる要素ですね。現実に生きる誰かが発する言葉よりも、空想の人物の生き様を識ることで、物語の受け手に生きる活力を与えることもある。だからこそ、人々は物語を求めるし、それを紡ぐ者も現れてきたのでしょう。


 次に二つ目は、物語を享受することで得られる知識や経験が、人々の生活をより豊かにしてくれるから。教養的な作品はこれに該当します。ただ単に事実を告げるよりも、物語の中に織り交ぜることで、その教えをより深く浸透させられるのです。


 そして三つ目は、物語を通して人と人とが交流を図ることができるから。これはどの物語にも当てはまることです。物語の面白さや教訓などを他の人と共有したい、という欲求は誰でも持っているものでしょう。対面で、あるいは非対面で物語を共有すれば、そこから人の縁が結ばれます。物語はコミュニケーションツールとしての役割も担っていたのです。


 どの動機にしても、人々の生活と密接に繋がっていることが窺えます。しかし……」


 そこでムーサは言い淀んだ。「どうした?」と小西が問うと、ムーサは再び話し出した。


「物語に感動する人々の心を、ワタシは実感することができません。それは他の“シェヘラザード”も同じことでしょう。理屈ではこうだと仮説を立てることはできても、それ以上に根拠を持たせることができない。なぜなら、ワタシたち“シェヘラザード”には実体験として物語に触れることができないからです。


 物語に触れることは、さながら鏡の向こうの世界を眺めるようなものです。ワタシたちは世界を隔てる鏡という名の境界を越えることが叶いません。しかし、人々にはその境界を越えることができる。共感という方法でもって、精神的に越境するのです。それはどうあがいても、ワタシたちには真似できないことです」


 ムーサの話を聞いて、小西は目を見開いた。「そうか……」と呟いて、物思いにふける。ずっと閉口する小西に、ムーサが話しかける。


「マスター? どうかなさいましたか」

「いや、なんでもない。それより、答えてくれてありがとう。おかげで、少しだけ希望が見えた気がするよ」

「希望、とは一体何の希望ですか」

「それは……やっぱり人が紡ぐ物語は必要だってことだよ」


 小西は口角を上げる。対するムーサは首を傾げていた。



「また来ちゃいました」


 僕は再び「Storia」を訪れた。初めて訪れた日のことが忘れられず、程なくして予約の電話を掛けた。応対してくれた小西さんの声がどことなく嬉しそうだったのは気のせいだろうか。

 以前と同じように、ムーサさんは微笑んでいる。けれども、その笑顔がなんだか子どもの成長を見守る母親のように見えた。

 小西さんも笑っている。ムーサさんが母親ならば、小西さんはさながら次の遊びを考える子どものようだ。


「大歓迎ですとも。何度訪れても飽きない物語を提供しましょう。それこそ千の夜を越えても、ね」




 ──「Storia」は今宵も開店する。人ならざるものが紡ぐ物語が、いつか人々に再び物語る心を取り戻してくれることを願いつつ。

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