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 寒々しく葉を落とした桜の木を見て、なぜか胸にこみあげるものがあった。季節の木々は、あんなにも賑やかに色をつけ、目を楽しませているのに、虫にやられた一本の桜木が、心を揺るがすことがあった。それをなんと表現したらよいか。幽玄ゆうげんだろうか。

「ノスタルジィですよ、それは」

 図書館に向かう途中、狐目の事務員に話しかけられた。

「世界を異郷的エキゾティックに感じているのです。文章を引用するなら『親しい者たちという中心を喪失してしまった世界がなお在る。世界から意味がこぼれ落ち、しらじらと漂白されてしまってなお、世界はたんにあるのです』。レヴィナスですね」

 なぜか、学食に誘われた。白いテーブルが距離を取って並べられており、マスクをしたまま食券でやり取りを行う。私は何も頼まず、事務員は“きつねそば”を頼んだ。

 狐だからか、と少し考えた。

「お父様は、残念でしたね」

 蕎麦から湯気が立っている。

「あまり好きな親ではありませんでした。憎まれ口ばかり言う……や、こんな話をするつもりは、どうも、今日はおかしいみたいで、帰ろうと思います」

「泣いていらっしゃいますよ」

「泣いて……?」

 事務員から渡されたハンカチを頬に当てると、確かに濡れていた。

「介護のために休学して、夜も二時間おきに起こされたりして、嫌な思い出ばかり残されてるのに、こんな。私は、葬式でも泣かなかった。なのに、なんで」

 悲しいわけではない。ただ、何か、本当に何なのかわからない感情が、堰を切ったように目から溢れた。顔が熱くなるのを感じた。白いハンカチに染みが広がっていった。

 目元をぬぐっていると、変わらない声音で事務員が言う。

「人間は想像する生き物です。山を見て神と呼び、影を見て妖怪と呼ぶ。散った桜を見て、春の桜がどれほど美しいかを楽しむのです。たとえば、武蔵野などという何もない野原を楽しめたのは“ある”ことを知っている人間だけです。現に、貴族のような人たちでしょう? 武蔵野を美しいと表現しているのは。地元のものはそれを笑う。美しくないのです。何もないのです。だから、美しいのです」

 そうして、事務員は三日月に唇をまげて笑った。狐のようだった。

「あなたは、世話をしたという記憶があるから、それがないという現実に耐えられないのです。それは、この世界に、父親がいないということの証明でもありますから」

「世話をしたのに、財産はみんな、長男が持っていきました」

「一人の人間の中で、人間の部分はどれくらいあるか」

「ドストエフスキィ?」

「そして、人間の部分を如何に守るべきか。わかります。お金が欲しかったんじゃない。ただ、あなたがお世話をしたという事実を、無かったことのようにされたことに、違和感がある。親子という枠組み、家族という枠組み、それらを失ったように感じた」

 一口も蕎麦に口をつけず、事務員は話し続けた。

「根岸兎角は、武蔵野に逃げ落ちた。何もなかった。師匠を失い、名声を失い、家も財産も捨てて逃げてきた。萱原かやはらの続く何もない野を見て、何を思ったのでしょう」

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