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「『武蔵野』でさ『桜は春咲くこと知らねえだね』ってお婆さんが言うところあるでしょ? あたしはあれが本質だと思うのよ。時期でもない桜の木を眺めている都会者がいたら、そりゃ、ね、馬鹿にするよ。いや否定するわけじゃなくて、え、なに?」

 再び、『常盤橋の決闘』を読みに図書館に行くと、先輩に出会った。

「だから、根岸兎角を知っていますか?」

「うん、だからさ『武蔵野』で『桜は春』……」

 一階の閲覧室は複数人用の丸テーブルが並んでいる。飲み物の販売もしており、閲覧室に入るとコーヒーの匂いが鼻をくすぐる。外を秋風が吹くと、カエデやイチョウから紅葉が舞う。今は、踏みしめられていない通路の落ち葉たちも舞うので、秋を集めたスノードームを見ているかのようであった。

「有名なのは、常盤橋の決闘だよね。病床の師匠のもとから逃げ、教えてもらった剣術を自分で作ったように言いふらし、江戸で名を挙げたけど、兄弟子に見つかってしまい」

「どう思います?」

「う~ん、なんとも」

「なんとも思わない?」

「いや、あたし介護福祉士の課程も取っているんだけど、介護から逃げ出したいって人って、たくさんいるよ。逃げられなくて、自殺しちゃう人もいるわけで。それなのに、事情も知らずに、良い悪いを語ることなんて、出来ないかな」

 先輩は紙コップに入った紅茶を口に含んだ。ベージュ色のサーマルニットに、ダウンベストを重ねている。以前はコーヒー党だったけれど、実習が入ってからやめたらしい。

 匂いがつくから、とのことだった。

「で、キミは何が気になっているの?」

「なにって」

「何か気になることがあったから、そんな質問をしたんじゃないかな」

 私はコーヒーを飲んだ。鼻腔びこうに豆の匂いが広がる。それなのに、なにか鼻の奥に別のにおいがこびりついているような気がした。私は丸テーブルの木目を見ていた。心臓の音を聞いた。生きているんだな、となぜかその時に思った。

「言いたくなければ、言わなくてもいいから」

先輩が肩に手を置いた。それはホットティーの紙コップを握っていたからか、温かい手であった。落ち葉を叩く音を聞いた。外へ目を向けると、秋風に、雨が混じっていた。

 わざと音を立てて、先輩は紅茶を飲み干した。

「……ところで、根岸兎角なんて、どこで聞いたの?」

「学生課の人から。あの、狐目の」

 雨で濡れた落ち葉が、ガラスに一枚、張り付く。

「わかった」

「なんですか?」

「その人、グリコ・森永事件の犯人なんじゃ」

 この日は『常盤橋の決闘』を読まずに帰った。

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