第二十三話  苦痛の王子

 祭壇の部屋は、まさに次元の門の向こう側とは対称的な作りだった。隠し部屋の入り口は祭壇の部屋の左側。しかし、それ以外はほぼ同じ作りだった。


 二つの祭壇の間には紋章が刻まれた石碑。やはり光は灯っていない。その紋章は間違いなく苦痛を示すシンボルだろう。


 そして祭壇の前にはやはり棺桶のような台があり、左側の台には裸の男の左半身が寝かされていた。


 だが、決定的に違う要素がひとつ。


 右側の台の上に、片膝を立てて座っている男の姿があった。革でできていると思われる薄茶色の上下揃いの服を身に付けており、顔色は白い。線の細い、ともすれば美形といってもよい顔立ちに、肩ほどまであるブロンドの髪。切れ長の眼の色は金色に近い茶色だ。


「ようこそ、と言いたいところだけれど、本音を言えば今は来て欲しくなかったよ」


 見た目よりもやや幼く聞こえる声だった。


「苦痛の王子……ゲパルエル、だな?」


「そうだよ。僕がゲパルエル。そこに寝ているのが僕の兄さん、レパルエルだ」


 魔王には似つかわしくない話し方だ。


「何をしにここへ?」


「お前を倒し、封じるためだ」


 俺の言葉に、ゲパルエルはゆるゆると首を振った。


「レーヴェウスからきみの事は聞いているよ、改造人間。けれど、今は倒されたくはないし、戦いたくはないんだ」


 ゲパルエルの言葉通りなのだろう、その身体からはレーヴェウスやカッツエルのような覇気は感じられなかった。


「見逃せ、とでも言う気か?」


「そう……だね。から」


 そのものの言い方には、どこか隠された意図が感じられた。


「軽い手合わせ程度なら付き合わないわけでもないけれど、殺し合いたくはない、今は」


 これが本当にの王子なのだろうか?俺はもっと、他者に痛みを与え、その苦しみを糧にするような貪欲な魔王像を心に描いていた。


 だが実際はどうだ?目の前の青年からはそんな貪欲な姿など微塵も感じられない。


 それどころか、思慮や分別すら感じられる。


「貴様、本当に魔王なのか?」


 俺の問いに、ゲパルエルはまたもや首をゆるゆると振る。


「そう呼ぶのはきみたち人間や空の上の天使たちだろう?自分たちに都合の悪い存在をそのような名で呼び、倒し、封じる。きみたちの勝手な都合でね。僕らにだって生きる意味はあるし目的もある。きみら人間と何ら変わらない。そもそもきみら人間は、僕ら悪魔や天使の連中から生まれたのだから――」


 イズニフと、その子孫たる人間。全ては天使と悪魔の間に子が為されたことからはじまっている。そして流れている血は、悪魔からも受け継がれている。


「人間も悪魔も変わらないというなら、なぜ悪魔は人間を襲うんだ!?」


「人間は僕ら悪魔よりも深い業を背負うじゃないか。だから僕らはそれを糧とする」


 人の業が悪魔よりも深いだと?断じて違う、それは悪魔がその種を人に振り撒いた結果ではないか。


「それは、悪魔がありとあらゆる手段で人間を陥れているからだろう!」


「違うよ。僕らはただきみたち人間の耳元で囁いているだけだ。それに乗るのも、それに抗うのもその人間次第。それを言うなら、天使だって人間の耳元で囁くじゃないか」


 ゲパルエルの言っていることは――今までの悪魔とは違う。俺はかつてフォクスエルと対話した時のことを思い出していた。


「ヒュージ、耳を傾けちゃダメ!」


「そうですヒュージさん、それは悪魔の戯言です!」


 アリサとシュニィの声が聞こえる。けれど、これは聞いたうえで、俺が自分で考えねばならない問題だ。敵に耳など貸すなというアリサとシュニィの言い分もわかる。だが、悪魔と人間の違いという命題は、俺には避けて通れないものとなっている。それはこれからの戦いでも、きっと何度も悩み、立ち止まり、考えることだろう。


 だが、今は。


 人は何かを迷っている時に、己の中の天使と悪魔を戦わせる。天使の言い分、悪魔の言い分、そのどちらに転ぶかはその人間次第。しかし。


「ゲパルエル、お前の言うことはもっともだ――悪魔の言い分としては。だが、人間というのは清濁併せ呑む存在だ。だから一方的に悪魔の糧になることも、天使に都合よくつかわれることも違う。お前の言うとおり、決めるのは人間だ。だからこそ、今の悪魔が蔓延るこの世界のパワーバランスをニュートラルに保つために、俺は魔王という存在を打ち倒す」


「そうか、残念だ」


 ゲパルエルの顔には、その言葉通りに残念そうな色が浮かんでいた。だが、だからとて俺もこのまま彼を見逃すわけにはゆかぬ。今ここで打ち倒さなければ――。


「一つ。今ではない近い将来、僕らは再び相まみえることになる。必ずだ。その時まで戦いを先送りにすることも――」


「いや、できない。なぜなら俺は悪魔を地獄に送り返す者、改造人間ヒュージだからだ」


 俺はゲパルエルに向けて構えを取った。


 止む無しか、といった表情で、ゲパルエルが台から降り立った。と、少しずつその姿が変わってゆく。


 足は大地を駆けるのに最適化された獣のそれとなり、体つきがしなやかになった。顔には、眉間から鼻筋にかけて黒い筋が現れ、猫科の猛獣の持つ鋭さを浮かべていた。頭頂部にはソフトモヒカン染みたたてがみのような毛の流れが現れた。この雰囲気――かつてテレビや動物園で見た猛獣、そう、チーターのそれに似ている。


「ならば改造人間、全力で僕にかかってこい。その代わり僕は――全力で逃げさせてもらう」


 本来猛獣を追うべき狩人は、その力で全力を挙げて逃亡に向かうのだろう。俊足の獣の力を備えたこの魔王に、果たして俺はついてゆくことができるのだろうか?


 ゴクリとつばを飲み込む音が聞こえた。シュニィが緊張の面持ちで俺を見つめていた。


 アリサが呪文の詠唱に入る。


 俺は気を足に集中させる。今最大限できることは、目の前の魔王に意地でも食らいつくこと。


 じりじりとゲパルエルとの距離を詰める。ゲパルエルはいつでも飛び出せるように足を浮かせながら俺との間合いを測っている。


 と、その時だった。アリサの呪文の詠唱が終わると同時に、台に寝かされているレパルエルの半身の上に、鋭い氷柱スパイクが何本も現れた。


「ゲパルエル、逃がさないわよ。もし逃げるというのであればこの氷柱を――」


「やってごらん?」


 脅すでもなく、驚くでもなく、ゲパルエルは平然とそれを受け止めている。が、次の瞬間――ゲパルエルの姿が消え、とほぼ同時にアリサの目の前に現れた。その手は、アリサの頬に触れていた。


「――無駄だから」


 俺にはその動きが追えなかった。恐ろしいほどに速い。しかし、だからとて今のゲパルエルを見過ごすわけにはいかない。


「貴様、アリサから離れろッ!」


 俺は叫びながら、アリサの頬を触れているゲパルエルの腕をつかみに駆け寄る。だが、それも空振りに終わった。


 ゲパルエルの姿が、横たわるレパルエルの隣に現れた。


「大丈夫、きみの怒りを買うつもりはないよ」


 だがアリサは震えていた、恐怖に。ただそれだけでも、俺には怒る理由がある。


 アリサの緊張がぷつんと切れ、それと同時にレパルエルの上に現れた無数の氷柱が落下する。だが、それらはレパルエルの身体を一切傷つけるどころか、触れた瞬間に消失していた。


「僕らの封印とは、なにも行動ができなくなるだけではない。ありとあらゆるものから守られるんだ、封印が続く限りはね。たとえそれが僕らに対する敵意だとしても」


 つまりは封印されている限りは無敵、そういうことなのだろう。だからゲパルエルは焦ることも無く、冷静だったのだ。


「ならばなおさらッ!」


 一気にゲパルエルとの間合いを詰める。そのままの勢いで拳を叩き込もうとした瞬間、またしてもゲパルエルの姿が消えた。


「今のきみでは、僕には追い付けないよ」


 背後だった。いつの間にか背中を取られていた。


 なぜ動きが読めないのか……?ふと、昨日のエリカとの特訓を思い出した。


『気ばかり追ってると、逆に今みたいにあたしが気を消して攻撃したらついていけなくなるのよ。だから一つの感覚ばかりに頼っちゃダメ』


 そうか、今のゲパルエルからは一切の気が感じられないのだ。センサー情報の一部として気の探知を関連付けているから、必然的に俺はその情報に頼ってしまう。


 カッツエルとの戦いの時――まだ気を習得する前の、あの時の素早いカッツエルに、俺はどう対応していた?あの時俺は、がむしゃらに付いて行くことだけを考えて戦っていた。


 俺は後ろを振り返る。背後一メートル。ゲパルエルは、俺にいつでも攻撃を加えられる位置にいた。


「もういいだろう?改造人間。いくら試しても、この速度の差は今は埋まらない。このまま見逃してくれ」





  *  *  *



 僕はギリギリだった。


 まだ封印が解かれて二週間。力も満足に戻っていない。


 今は自分の糧とする苦痛を得るための手駒を地獄より召喚することで手いっぱいだ。自分自身の事すら満足に手が回らない。


 まだやらなければならないことは山ほどあるというのに。


 何よりもまず、兄さんの封印を解くだけの力を手に入れなければならないのに。


 手駒を召喚することで、日々じわじわと力は溜まる。だが僕が活動できるようになるまでには、少なくともあとひと月は欲しい。


 よりによって改造人間、なぜ今なのだ?


 今、まともに戦えば敗北は必至だ。レーヴェウスに頼まれた仕事すら完遂できなくなる。


 我ら悪魔のためにも、それだけはなんとしても避けなければならない。たとえその仕事のためにとしても。


 今の僕がこの改造人間に勝るのは、速度だけ。七人の序列の中で最も速度に勝る僕だからこその力。


 幸い、今の改造人間の動きを見る限りでは、その技はどこかアンバランスで、心技体の調和が乱れている。後の二人の人間の魔術も、躱すだけなら問題はないんだ。


 だから頼む、これ以上無駄な戦いは、今はやめてくれ。


 それに、僕に語り掛けてくる何かが言っている。この改造人間は、僕を高めてくれる糧になる存在なのだと。だとしたら、僕は彼との未来を見てみたい。


「もういいだろう?改造人間。いくら試しても、この速度の差は今は埋まらない。このまま見逃してくれ」





  *  *  *



 目の前のゲパルエルに数発の拳を叩き込もうとするが、そのどれもが無駄に終わる。


 気の探知を断ち眼で動きを追うも、見えるのは残像ばかり。


 この怪物に太刀打ちする術など、今の俺には無い。


 なんという絶望感か――。


 しかもゲパルエルは、。それが、今の俺には恐ろしい。


 俺はゲパルエルと対峙しながらも、アリサに念話を送った。




(アリサ……ごめん、今の俺には、この魔王は倒せない)


(そうね、見ていてわかる。ヒュージ、悔しいね)


(ああ、すごく悔しい。俺の修行不足だっていうのがよくわかる)


(ゲパルエルの言葉を、今は飲むしかないわね――少なくともここを生き延びれば、チャンスはまたあるから)




 アリサの言葉に俺は無言で頷き、ゲパルエルに向き合った。


「わかった、ゲパルエル。今は手を引こう。だが必ず――俺はお前を倒す。お前を超えてみせる」


 すると、ゲパルエルの顔に笑みが浮かんだ。


「ここは素直に礼を言うよ、改造人間。僕らの運命は激しく交錯している。この先何度も、僕と君は戦う運命にある。きっと、僕にとっての宿命のライバルとなる――。だから心の底から、今のきみの決断には感謝する」


 宿命の――ライバルだと?俺とゲパルエルの出会いは、天が、神が運命づけた出来事だとでもいうのか?


 だが、この魔王を超えた先に何かつかめるものがあるかもしれないことはわかる。越えなければならない壁として、今ゲパルエルは俺の前に高く、厚く立ちはだかっている。


「改造人間、僕の言葉を呑んでくれたことに対して、一つだけ感謝の忠告をしておこう。予測するにきみたちは次にモンモーデルへと向かうはずだ。ティガエルの眠る地に。彼は序列第二位、確かに強い。だがこれを知っていれば、倒すことは可能だ。


「仲間を……売るのか?」


 これだから悪魔というのは――


「いや、違う。奴ごときできみを失いたくない、そう思ったからだ」


 これまでのゲパルエルの話を聞く限りでは、これは額面通り受け止めてもいい話だと俺は思う。


 悪魔にも、魔王にもこういう男がいることは予想外だった。もしゲパルエルが悪魔でなければ、魔王でさえなければ、良い友になれたかもしれない――。


「ありがとう、忠告感謝する。ではまた必ず会おう、ゲパルエル」


 俺たち三人は、そう言って隠し部屋へと入り、そしてその扉を閉じた。






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