第十四話  苦悩の乙女

 カッツエルが祭壇からトン、と降り立った。

 俺はいつでも動き出せるように、アリサの前で身構える。


「どっちからにしようか?」


 まるで見定めるかのように俺とアリサを交互に睨みつけてくる。


「決めた」


 その瞬間、カッツエルの姿が俺の視界から消えた。

 いや――いつの間にか俺の眼下に立っていた。そして、俺の胸に右手を当てていた。


「何ッ!?」


 まさに一瞬の出来事だった。カッツエルの右手から魔力のようなものが放出され――そして、まるで時が止まったかのようにあたりから音が消えた。




 そこには、俺とカッツエルだけがいた。何もない真っ白な空間で、いつの間にか人間態に戻っていた俺と、俺の目の前で空中に浮かびながら脚を組んで座っているカッツエル。


「へえ、面白い事で悩んでるね、あんた」


 まるで俺の心を読んだかのように、カッツエルが言う。


「そんなつまらない事で苦しんでるんだ?」


 アハハ、と小ばかにしたようにカッツエルが笑う。


「お前に何がわかる?」


「わからないわよ。ただあんたの苦悩をあたしの糧にしてるだけ」


 当たり前じゃないの、とカッツエルは続ける。


「貞操、しかも男のそれに何の価値があるの?」


 まるでゴミでも投げ捨てるかのような言葉だ。


「違う、貞操そのものじゃない、想い人を裏切らないという気持ちの問題だ」


「どっちだって一緒よ、あんたの自己満足でしょ?そんなの」


 いや、違う。


「相手があってのことだ、自己満足なんかじゃない」


「じゃあ、あんたを襲ったあの女の貞操はどうなのよ?そんなものとっくに穢されてるじゃない。そしてあんたはあの女の事、少しでも考えたの?」


 穢されたシュニィの貞操。そして、さらに自らの手でその穢れをより大きくしようと彼女は俺に跨った。


 あの時、俺は自分の事ばかりを考えていた。自分の貞操が穢され、アリサを裏切ってしまうという想いばかりが俺を支配していた。


 だが、では俺の上に跨っていたシュニィの気持ちを少しでも考えたか……?


 否。


 あの時の俺に、シュニィを思いやる心は無かった。彼女がああも苦しい思いをして、それでも俺を求めようとした理由を、俺はこれっぽっちも考えていなかった。


「考えて……いなかった」


 じゅるり、とカッツエルは唇を舐め回す。


「もっと悩め、もっと苦しめよ。それがあたしの糧となるんだよ」


 蔑む目でカッツエルが俺の目を覗く。


「あんたはあの女をすでに穢れたものとして扱っていたんだよ。そして自分が穢されることばかり気にしてた。最低な男だね」


 違う!俺はシュニィを穢れたものとしてなど扱っていない。あれは全て――


「呪いのせいだ!」


「呪いが悪いって?あれがあの女自身の意思で行われたことだとしても、あんたはそう言えるのかい?」


 何を言っているのだこの女は?あれがシュニィ自身の意思なわけが――


「あんたの匂いで欲情したんだろ?じゃなきゃダメだったんだろ?」


「違う!あれはシュニィが淫紋に操られていたんだ!」


 でなければ、俺が金縛りにあった理由が成立しないではないか。あれは淫紋と同じ色の魔力を発していた。あの淫紋による力だ!


「あの女が淫紋の力を利用したのだとしたら?あんたを求めるがあまり、呪いの力を逆に利用したのだとしたら?」


 そんなわけがない。長年聖女として自己研鑽を積んできたシュニィが、一時の快楽のためにそんな冒涜的な行為に及ぶわけがない。


「堕落した女がそこまで自制できるとでも思ってるの?」


「何が言いたいんだ貴様は!」


 すうっと目を細め、カッツエルは応える。


「別に何も。あんたの苦悩を楽しんでいるだけよ」


 ドクン、と激しい鼓動が俺を襲う。頭の後ろが痺れてくる。


「あんたも本当は、あの女のことも抱きたかったんでしょ?」


 違う、それは断じて違う。


「身体は正直だったんでしょ?」


 心と体の問題は別だ!


「いいや同じさ。結局はあんたも色欲にまみれた人間。そこにいる魔女とは散々よろしくやってるんでしょ?魔女を抱くのと聖女を抱くのに何の違いがある?どちらも同じ女じゃないの?」


「違う!俺はアリサを愛している。そして彼女も俺を愛してくれている。愛があるかどうかだけでもまったく別だ!」


「愛なんて幻想よ、あんたたち人間のね。その言葉を言い訳にしているだけ」


 まるで甘美な何かを味わっているように、カッツエルは愉悦の笑みを浮かべた。

 苦悩を糧にしているとこの魔王は言っていた。そして今、俺をその苦悩の真っただ中に叩き込み、俺の苦悩をしゃぶりつくそうとしている。


「かわいそうな聖女様。想い人に拒否されて、それでもその人と恋人の近くに居続けなきゃならないなんて。あんたその聖女様の気持ち、わかってるの?」


「シュニィが俺に惚れているなどありえない!」


 シュニィの目の前で俺とアリサがあれだけ仲良くしているのだ。ましてシュニィは最初、俺たちを夫婦だと誤解していたのだ。そんな馬鹿な話があるか。


「あんた本当に美味しいわね。久しぶりだわ、ここまでしゃぶり甲斐のある人間。それに比べて――」


 不意に、俺の横にアリサの姿が現れた。


「――この女、何にも悩みが無いのね。あんたもつまらない女に惚れたものね」


「貴様ッ、アリサを侮辱するなァッ!」


 瞬間、周囲の景色がガラスのように砕け散った。

 俺の目の前には、俺の胸に手を当て、そして俺を見上げ驚いたような顔をしているカッツエルがいた。


 俺はすぐさまカッツエルを突き放した。


「あたしの精神空間を逃れた、だと?しかもちっぽけな怒りごときで!?」


 視覚情報ではほんの一、二秒しか経っていなかった。ほんのごくわずかの時間で今のやり取りが行われていたというのか?


「カッツエル、アリサを侮辱した罪、お前の命で贖ってもらうぞ!」


 言うと同時に、俺はカッツエルへと上段蹴りを放った。が、さすがは魔王、その反応速度は速い。左腕で俺の蹴りをガードするとともに、その勢いを逃がすように横へ跳ぶ。


「わ、私をどうしたって?」


 アリサの言葉に、


「あとで話す!」


 と応え、俺はカッツエルの動きを追う。


 すぐさま体勢を立て直し、カッツエルは両手の指の爪を伸ばした。その鋭さ、刃物どころではない。まるで何でも貫く針か何かのようだった。


 カッツエルの貫き手が俺に迫る。いくら俺が頑丈にできているとはいえ、アレを喰らうのはマズい。


 最小限の動きで貫き手を避けながら俺も拳を放つが、カッツエルの敏捷さは凄まじく高い。俺もその動き自体は目で追うことができるが、身体が付いて行くかどうかは別問題だ。何とかして動きを抑えなければ、こちらの技も入らない。


 何度か攻防を重ねるが、お互いに攻めあぐねている。


 と、カッツエルの貫き手が俺の左上腕に突き立った。が、これは悪手だ。俺は左上腕の人工筋肉に力を込めた。カッツエルは手を引き抜こうとするが、俺の筋肉で爪が締め付けられ、動かすことはままならない。そこをすかさず俺の左手がカッツエルの右腕を掴む。


 一度掴んでしまえばこっちのものだ。吸盤で右腕をがっちりホールドした。


 動きを封じたカッツエルの顔面に拳を叩き込む。


 さすがに殴った程度で陥没するほど敵はヤワではないが、確実にダメージは蓄積しているだろう。


 冷静さを欠いたカッツエルが左手を振り回すが、俺もそれを簡単にあしらい、今度はその左腕に拳を浴びせる。そして隙を見て、俺はカッツエルの腹に膝蹴りを叩きつけた。


「ガハッ」


 血の混じった胃液らしきものを吐き出し、カッツエルの身体がくの字に折れようとするが、俺は容赦なく左腕を捻り上げ、カッツエルを立たせる。


 例え見た目が小娘だろうが敵は魔王だ。ダメージを入れられるうちに入れておいた方が後々有利に事が運ぶ。


 俺はバックルのルビーに指を這わせる。


『フレイムモード』


 シュニィの凛々しい声と共に俺の拳に炎が宿る。


 容赦なく、爆裂する拳を顔面といわず腕といわず、雨あられと叩き込む。

 もはや美少女の面影など欠片もない。血と煤と火傷にまみれ、半ばぐったりとしている。


 だが俺にはわかる。この程度の攻撃でも、魔王たちは真の姿を取ると、とてつもない破壊力を秘めた存在となることを。だから俺は容赦はしない。


 もう何度目になろうか、カッツエルがぐったりするのを無理矢理引き上げ、何度も爆裂する拳を叩き込む。


「ク、クソがぁッ!」


 憎まれ口を叩いているうちはまだまだだ。


「フロッグ爆熱パンチ」


 ありったけの炎を宿し、その顔面へと叩き込む。同時にボンッと激しい爆発が起き、カッツエルの頬が破れ、歯が剥き出しとなった。しかもその歯は何本か折られている状態だ。


 ボディブローを入れ、カッツエルの身体を宙に浮かばせる。そして落下に合わせて再び膝蹴りを入れる。


 グバァッ、とカッツエルが血反吐を吐いた。

 悪魔的といわれようが、やめる気は無い。魔王として生まれたことを後悔するがいい。


 アリサを侮辱したこと、シュニィを貶めたことは万死に値する。


「ウォリャァッ!」


 俺の拳がカッツエルの左上腕を叩き折った。


「ギャアァァッ!」


 カッツエルの絶叫も俺の耳には届かない。

 俺はすかさず、左腕に突き立ったカッツエルの爪に手刀を叩き込んだ。バキバキッと爪や指が折れる音が響き渡る。


 刺さったままの爪を抜き取り、それを一握りにまとめ、カッツエルの肩口に突き立てた。そして、今だにつかんだままの右腕の関節を決め、そこに再び手刀を叩き込んだ。ベキリと鈍い音を立て右腕を折ると、ボロボロになっているその胸目掛けて中段蹴りを入れ、カッツエルを近くの壁に叩きつけた。


「レーヴェウスのように真の姿とやらがあるのだろう!?変身してみろ!俺は容赦なくそれすら打ち破るぞ!」


 俺は思わずアリサに顔を向けた。アリサはゴクリ、と唾を飲み込んでいた。

 アリサとて戦いが綺麗なものではないことを知っている。俺の鬼神の如き戦いを、彼女は何度も見ている。俺の拳が何のために振るわれているのかを彼女は理解している。

 俺の戦いが如何に悪鬼のごとく映っても、アリサだけが俺のことをわかってくれればそれでいい。


「ぜ……絶対に、許さんぞ、人間……」


「お前を地獄に送り返す者の名を教えてやる。俺の名は改造人間ヒュージだ!」


「改造……人間、だと?おまえが……レーヴェウスを一度打ち破ったという……あの改造人間なのか!?」


 自由の利かない身体で、カッツエルはゆらゆらと立ち上がった。


「クソがぁっ!最初から全力で戦っていればッ!あたしはこんな事にならなかったッ!」


 瞬間、カッツエルの目が輝いた。と同時に、あの時のレーヴェウス同様、カッツエルの姿が大きく変わってゆく。


 身体がどんどん大きくなり、脚はネコ科の獣のようなそれへと変貌を遂げてゆく。背中から、もう一本ずつ新たな腕が生えた。いつの間にか骨折も回復している。その指には一本一本が刀のような爪が生えている。


 顔は少女だったそれから変貌を遂げ、人とも猫ともつかぬ顔へと変わっていた。そして、特徴的だった猫耳の下には真横に伸びる角。


 幼さの残る身体のラインと、小さくふくらんだ乳房だけが、かつてそれが少女の姿だったことを物語っている。体高は五メートル強。


 だが、その身体にはどこか迫力が欠けていた。そう、悪魔特有の羽が無いのだ。


 いや、カッツエルの敏捷さを考えれば、むしろこれが自然か。


 ぎらりとカッツエルの目が輝いた。

 と同時に、俺の身体が宙に浮いていた。尻尾だった。尻尾によって身体が宙に飛ばされた。そこを二本の腕の爪が襲う。


「ゲッコー丸ッ!」


 瞬時に背中からゲッコー丸を抜き、かろうじて鞘でそれを受けると、俺はあえて鍔までその攻撃を流して防御壁を展開させた。

 キリキリとまるで黒板に爪を立てたかのような音と共に、カッツエルの爪が防御壁を擦る。


 着地と同時にゲッコー丸を抜刀し、鞘をベルトに挟んだ。

 と、突如俺の身体を中心に魔法陣が浮かび上がった。不思議と身体が軽くなっていく。


「ヒュージ、もうひと暴れ頑張って!」


 アリサからの支援魔法だ。視覚情報でも筋力増強のサインが出ている。


「そんな剣一本であたしの爪に敵うと思ってるのか!?」


 まったく口の減らないお嬢さんだ。


「いくぞッ!」


 言うや否や、俺はカッツエルの腕の一本目掛けて跳躍した。狙うは爪だ。

 案の定、俺の動きに合わせて爪を振りかざしてくるところを――一閃。キンキンキンキン、と甲高い音と共にカッツエルの爪が四本切断された。そしてその切り口からは、銀色の炎が立ち上がる。


 跳躍の頂点で身体を翻し、再度別の腕に狙いをつける。そして再び一閃。またしても甲高い音と共に別の手の爪が三本切断され、切り口から銀の炎が上がる。


「この炎は何なんだ!?その剣は一体何なんだッ!?」


 悪魔を焼く浄化の炎。そして邪悪を断つ神刀・真月。遥か東の国で鍛えられ、そして大天使によって祝福されたと言われる退魔の刀。


「貴様ら魔王たちを倒すための魔剣ゲッコー丸だッ!」


 今、刀を構えている俺に死角はない。

 またしても不意を打つようにカッツエルの尻尾が伸びてきた。その動きはあまりにも素早いが――斬れる。


 ザンッ、と刃の軌跡が尻尾を捕らえ、その半分を切断した。もちろんその断面からも銀の炎が立ち上る。


 だがその隙にカッツエルの残る爪が俺に迫る。しかし返す刀でそれを受け流す。またしても鍔から防御壁が発生し、その爪全てを食い止めた。


 そして俺はその勢いでカッツエルの足元に一気に駆け寄り、その脚に向けてゲッコー丸を突き立てた。と同時に力を加え、一気に下へと斬り裂く。ドバっと鮮血がほとばしり、その傷口からまたしても銀の炎がメラメラと燃える。


「貴様ごときに……貴様ごときにッ!ヒュージ!」


 脚の自由を奪った今、すでにカッツエルはもはや敵ではない。


「退魔の結界ッ!」


 俺はそう叫びゲッコー丸をカッツエルの足元に突き立てた。と同時に、カッツエルを取り囲むように銀の光の結界がカッツエルの自由を奪う。


 今こそ、最期の時。


 俺はカッツエルの横を駆け抜け、その後ろの壁目掛けて大きく跳躍した。

 俺の足には燃え滾る炎がゴウゴウと纏わりついている。

 跳躍の力を壁の三角蹴りでさらに強め、俺は大きく身体を旋回させた。




「フロッグ――灼熱トライアングルドリルキック」




 カッツエルの背中に、灼熱に包まれた俺の脚が急激なスピンを伴い突き刺さる。

 その蹴りはやがてカッツエルの背骨を砕き、じゅうじゅうと肉を焼く音を立てながら、その内臓をまるでミキサーのようにかき回し、そして腹腔に大きな穴を空けながら、やがて強固な腹筋を貫き、俺は反対側へと突き抜けた。

 回転の勢いはそのまま止まることなく、床に突き立ち床石を散らす。が、俺はそこで反対側の足を立て踏ん張り、自らの回転を止めた。


 俺がゆっくりと振り返ると、そこには絶望の色を浮かべたカッツエルの顔があった。


 アリサが俺に駆け寄ってくる。俺はフレイムモードを解除し、アリサと共に成り行きを見守る。


 やがてカッツエルの身体が縮んでいった。最初に会った時の少女の姿へと。俺がボロボロにした姿ではなく、ただ腹部に大きな風穴を開けた状態だった。


「あたしは……死ぬのか」


「いや、殺さない。永劫封印する」


 俺の言葉に、アリサが魂の封印石を取り出した。


「まさか……魂の、封印石……!」


 カッツエルの顔に、更なる絶望の色が加わった。


「生涯この中で苦しみ続けるがいい、魔王カッツエル」


「い、いやだ、頼む、やめてくれ、その中だけは!嫌だッ!」


 ボロボロに涙を流しながらカッツエルは懇願する。


「そう言って命乞いした人間を貴様は今までどれだけ殺してきたんだ!?」


 言って、俺はアリサに向かって頷いた。


「アリサ、頼む」


 半ば緊張の面持ちで、アリサは古代魔法語を呟き始めた。おやじさんに教えられた封印の詠唱だ。


『魂の封印石よ、不浄なる悪魔を永劫の絶望と共に封じ給え』


 その詠唱が終わると共に、カッツエルの身体が徐々に消滅してゆく。その顔には絶望の色が浮かんだままだった。そして薄っすらと残った半透明の身体が、やがて赤い光となり、石に吸い込まれていった。石の中には、小さく赤い光がぽつんと一つ宿った。





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