第44話 淡く色付く七分咲き

 



 ゆっくりと目を開けると、ぼやけててよく見えない。

 何度か瞬きするうちにハッキリと見えたその天井は、いつもの部屋じゃなかったけど……教室の天井だって思い出すのにそんなに時間は掛からなかった。


 あぁ、もしかして昨日のは夢だったのかな? 

 そんなことが不意に頭に浮かぶものの、


 手には湯花の体に触れた感覚が、

 体には湯花の温もりが、

 鼻には湯花の匂いが、

 そして、湯花の唇の感触。その余韻が……まだハッキリと残っていた。


 そんな自分の体の異変に、夢じゃなかったことがわかった瞬間、


 やっちまったぁ。


 情けない言葉が頭を過る。

 やっぱ夢じゃない。現実だったんだ。昨日、あの4階の教室で俺は、俺と湯花は……キスをした。

 柔らかくて、温かくて、心地良くて、いつまでもこうして居たい。唇が触れ合っているだけで、こんなにも幸せなのかって心から思った。


 それからのことはよく覚えてない。

 どれだけの時間、そんな姿のままで居たのかすらわからない。


 ただ、どっちからということもなく唇を離して、目と目が合った瞬間に、お互い恥ずかしそうに目を逸らしたっけ。


 そして一言、


『いこうか?』

『うん』


 それからはずっと無言だった。でも、手だけはずっと……握ってた。


 思い出すだけで、顔から火が出そうなくらい熱くなる。けど、それと同時にパッと浮かんでくる後悔の2文字。


 やっちまった。ちゃんと付き合ってないのに、返事もしてないのに、自分自身が湯花のことどう思っているかすらわからないのに……ケジメも付けないまま、その場の雰囲気でキス……してしまった。


 いや、確かに湯花はいつもと違ってた。めちゃくちゃ、何て言うか……最初は泣きそうなくらい不安そうだったはずなのに、徐々に何かを求めるような甘えるような雰囲気。

 でもだからって……もしそれが俺を試す為の行動だったとしたら? あぁ、所詮雰囲気で流される程度の男なんだって呆れられてないか? くっ、それは嫌だな……ってなんで俺こんなに焦ってんだ。嫌われるの怖がってんだ。あぁもう、意味が分かんねぇ。


 自分の気持ちが整理できず、俺は思わず寝袋から飛び起きる。辺りを見渡すと他の皆はまだ寝ているみたいで、横のスマホを手に取ると画面に表示された時刻は5時半。


 昨日だったら野呂先輩のイビキでとっくに皆起きてたはずだけど、今日は安らかな寝息だけで、イビキは全く聞こえない。そういえば昨日アリス先生が何かやってたな。野呂先輩の叫び声が聞こえたと思ったけど……あの後のことはフワフワしてて正直覚えてない。


 どんだけ有頂天だったんだよ俺。覚えてないだけで、なんかやらかしてないはず。はぁ……なんにせよ2度寝なんてできないよ。今の内に顔でも洗って、心も体もスッキリ目覚めさせるか。


 静かに教室のドアを開け廊下に出ると、俺はトイレの方へ向かって歩き出す。外はすっかり明るくなってて、改めて肝試しの時との違いに驚きを隠せなかった。


 昼と夜でこんなにも違うもんなのかねぇ。

 そんな時だった、


 タンタンタン


 誰かが階段を上がってくる足音が聞こえたかと思うと、それは次第に大きくなってきて、


 タンタンっ!


 ん? 誰だ。こんな朝早く……って、うおっ!

 勢いそのままに階段から廊下に飛び出してきた人物。それはまさしく……


 とっ、湯花!?

 さっきからその様子が気になっていた湯花だった。


 マジかよ。お前タイミング良過ぎじゃね? ……いや。なんでこんな時間に……いやいや違う。そもそも昨日あんなことしちゃったんだぞ? 思いっ切り逃げられたらどうする。一発アウトだ。チャラい男に認定間違いなしだ。


「あっ……」


 そんな1人でザワついている俺をの姿を見た湯花の第一声はそれだった。しかも少し顔が俯いたときたもんで、


 あぁ、こりゃ最悪の事態かな? 

 心の中で試合終了を告げる笛が鳴らされようとした時だった、


「海……? おっ、おはよう!」


 顔を上げた湯花は、いつもの笑顔を見せながら朝の挨拶を口にした。

 あれ? とりあえず逃げてないし、怒っても……軽蔑してそうな雰囲気でもないよな。てことはとりあえず一安心か。


「あっ、あぁ湯花。おはよう」


 でも……なんか顔赤くないか。あっ、走ってきたからか。そもそもなぜこんな朝早く。


「こんな朝早くに何してんだ? しかも3階に」

「てへへ、朝ご飯の支度だよ。雅ちゃんとかもう家庭科室居るし」

「えっ!? マネージャーの人達って、こんな朝早くに起きてんのか」

「そうだよー」


 マジか……朝に関しては俺達全員、完全に7時に家庭科室って認識だったわ。でも、考えてみればそれを準備してくれてる人は、準備の為に朝早く起きてくれてるんだよな。


「なるほど……それで、湯花はなんで3階に?」

「日南先輩が色々朝のメニュー考えて来てくれたんだけど、そのメニュー本教室に忘れちゃったみたいでさ。だから私がひとっ走り」

「いい朝錬してたって訳か」

「正解正解」


 出たな? ポジティブシンキング。でも湯花、おまえ練習も普通にやってたじゃん。それに加えて多田さん達の手伝いって……キツくないのか。


「でもさ、疲れてないのか?」

「んー疲れより、楽しさの方が大きいかな」


 ったく、朝日に負けないくらいの笑顔見せるなよ。ホント、こいつのこういうところ憧れるよ。

 ……家庭科室で朝ご飯の準備ねぇ、俺も時間余って暇だし、戦力になるかどうかは知らないけど手伝いに行ってみようかな。


「なぁ湯花、俺も手伝いに行ってもいいかな」

「えっ!? 海が? もちろんだよっ」

「じゃあ俺着替えてくるよ。メニュー本取って来たら、皆にも言っておいてよ」

「了解! ……待ってるから」


 ドクン


 あれ? 何で俺、湯花の笑顔見て……気のせいか?




「じゃあ私卵焼き作るねー」

「頼んだ湯花ちゃん」

「おねがーい」


 包丁捌きもさることながら、卵焼きの手際良過ぎじゃね。もしかして本当に料理全般得意なのか? 


「よいしょっ」


 しかもなんだよ……エプロンにフライパン振ってる姿、結構似合ってるじゃん。


 ドクン


 それになんだか……


 チクッ


「いてっ」


 ヤッバ、ボーっとしてたら缶詰の切り口に指当たっちまった。


「かっ、海大丈夫? ちょっと待ってね」


 えっ、湯花? いや、ポケットの中に手入れてなにを……


「あった。指出して」


 って絆創膏? なんで持ってんだよ。しかも当たり前のように手が触れてるんですけど。


「湯花ちゃん準備良いねぇ」

「ふふっ、私達よりマネージャーしちゃってるじゃん」

「いやぁ、私ってそそっかしいから、いつ怪我しても良いように常に持ち歩いてるんですよね」


 常にって……でも思い出してみると、本当に俺が苦しくて困ってる時、こいつがそばに居て俺が必要としてるもの結構貰ってないか。タオルとかスポドリとか。ただの偶然?


「あっ、ありがとな。湯花」

「どういたしましてっ」



 ――――――――――――



「よっし畳運べ―」

「俺もう無理っす!」


「私に任せといてぇ、んーっ!」

「ぷっ、はは。さすがに宮原は無理だろ」

「無理はダメだって湯花ちゃん」


「あっ! 笑いましたね? えいー」

「おい白波。こんな可愛らしい女の子にやらせても良いのか?」

「だっ、ダメっす! ここは任せて。宮原さん!」

「いいぞー!」

「格好良いぞ白波」

「試合でもそのくらいガツガツだと良いんだけどねぇ」

「あっ多田さん、それは言わないでぇ」

「「はははっ」」


 なんか楽しそうだな? そういえば中学の時からあいつの周りには友達がたくさんいたっけ。いつも明るくて笑ってる……そんな湯花に皆釣られて、毎日が楽しかった気がするな。


 ドクン


 はっ! なんで俺は朝から湯花のことばっかり……おかしい、今日の俺おかしい。




「はい」

「ん?」


「ディフェンス居た方が良いでしょ?」

「そりゃまぁ……」


 今日もいつもと変わらず2人で居残り練習してるけど、普通に考えたらどうなんだ?最近俺は部活終了後に、男女が1対1で居残り練習って光景が普通じゃないと思い始めてるんだけど。だって同性なら分かるけど、異性だぞ。ただ練習したいから湯花を誘った俺も俺だけど、何の迷いもなくほぼ毎日付き合ってくれてる湯花も湯花じゃね。しかも、


「背は小さいけど、手延ばしたらちょっとはプレッシャーになるでしょ」

「そうだけど、いつもの勝負は?」


 そんなことしてたら、俺だけの練習になっちゃうじゃん。湯花も色々磨きたいだろ。


「武器増やそうとしてるんでしょ? おそらくディープスリーとか、クイックスリーとか。簡単にできるもんじゃないし、少しでも役に立ちたいんだ」

「なんでそれを……」


 なんで俺の考えていることが分かるんだ。バスケのことだからなのか?


「一昨日1人で練習してたじゃない。バレバレだって」

「一昨日? あっ、てことはお前いつから練習見てたんだよ!」

「にっしし、内緒。それに海、これじゃ私の練習にならないだろ? とかって思ってそうだけど大丈夫! 然るべき時に私の練習したいシチュエーションを目一杯手伝ってもらうから」


 ギクッ! それどころか心の中身見透かされてるようで怖いんですけど。しかも……そんな魂胆か。意外と計算高いな湯花。


「そういう魂胆か? 女狐めっ!」

「女狐とはひどいっ! せめて子犬でしょ? それにこれは先行投資というものなのだよ海君」


「「ふっ、ふははっ」」


 でもやっぱり、一緒に居ると楽しくて、心地良くて仕方がない。




 ガタン、ガタン


 ―――次は下尾駅前~下尾駅前です―――


「ってな感じでさ、どう思う?」


「…………湯花?」


 ついさっきまで話してたはずなんですけど、反応がない? 一体……


 トン


 っ!!


 左腕に何かぶつかって来たかと思うと、じんわり伝わって来る温かさと、さらさらした髪の感触。

 こっ、こいつ……まさか。


 ゆっくりと視線を向けると、


「すぅ……すぅ……」


 俺の左腕を枕に、スヤスヤ寝ている湯花。


 ねっ、寝てる!? ……疲れ溜まってたのか。そりゃ合宿中、練習の他に多田さん達の手伝いもしてたし、当然っちゃ当然か。


 そういえば、こいつの寝顔って見たことなかったな。うん、思い出す限り笑ってる顔と、悔しそうな顔、稀に見せる泣き顔しか出てこない。どれ、改めて見ると……はっ! 


 ドクン


 けっ、結構可愛いじゃん。




 ―――次は石白駅前~石白駅前です―――


 おっと、あっと言う間に到着か。体預けられるのも……悪くないな。なんかこっちまで心地良かったし……けど、


「湯花? 起きろー」


 楽しい時間はあっと言う間ってやつかな。


「んっー」

「湯花起きろ? 駅着いたぞ」

「駅……駅? はっ!」


 そんな声と共に、慌てて俺から離れる湯花。


「えっ! えっ!? 寝てた? みみっ、見た?」


 慌てすぎだろ? ったく、そんな姿見てるとちょっとだけイジメたくなるぞ。


「見た見た。よだれ出てたぞ」

「ふぇ! 嘘だ嘘だ!」


「ははっ」

「もぅー! 海の意地悪っ」


 ちょっと膨れた顔も……


 ドクン


 嫌いじゃない。




「よっと、じゃあね海。夏合宿お疲れ様でした」

「おう、湯花もお疲れ。本当に大丈夫か?」

「全然大丈夫だよ。だって……海の近くに居れたから」


 ドクン


「なっ、何言ってんだよ」

「本当のことだよ」


 ドクン


 おかしい、やっぱり今日の俺はおかしい。なんであんなにも湯花のこと見てた。なんでこんなにも湯花のことが気になる? なんでこんなにも……


 湯花にドキドキしてる?


 昨日のあれのせいで意識してんのか。けど、それにしたっていつも通り過ごしてるはずなのに、いつもと違う……


「あっ、海?」

「ん?」

「お弁当、楽しみにしててね? じゃあバイバイっ!」


 今日の自分は何か変だって感じてた。けど、湯花が放った最後の【お弁当】。それが……引き金になったんだと思う。その瞬間、


 ドクン


 心臓の鼓動がハッキリ聞こえる。


 ドクン、ドクン


 今までより大きくて、


 ドクン、ドクン、ドクン


 それが徐々に早くなってくる。


 湯花の顔、優しい笑顔。その後ろ姿を見ているだけで……勢いが増して、そして胸が締め付けられる。

 顔が熱い、呼吸が上手くできない。


 けど、苦しいはずなのに……それはどこか懐かしい感覚。少し前まで、確かに自分の中に存在していた感覚だった。


 あぁ、そういうことか……


 一緒に話をするのは楽しかった。

 一緒にバスケやるのも楽しかった。

 一緒に過ごす時間が楽しかった。


 そうだと思ってた。でも……今は違う。


 一緒に話をするだけで気が楽で、安心する。

 一緒にバスケができるだけで嬉しい。

 一緒に過ごす時間がなによりも心地良い。


 いつからそうなったのかなんて自分でもわからない。わからないけど……俺は今、確かにそう感じてる。


 考えてみると、それに気付くのに随分時間掛かっちゃったな。昨日のあれがなきゃ多分ずっと、自分の本心に自分自身が気付かった。


 だって、心のどこかで……


 あんな気持ち思い出せたらいいな。

 結構時間掛かるだろうな?

 もしかしたら一生抱くことなんてないかも。


 なんて思ってたのに、まさかこんなにも早く……取り戻せるなんて思いもしなかった。


『好きになるのに理由なんて……ないんだよ?』


 湯花、その通りだよ。そんな条件なんてないんだ。

 気が付いたら……そうなってるんだもんな。


 ホント、こんな気持ち久しぶり過ぎるよ。けどそれが何よりの証拠……


「めちゃくちゃ楽しみにしてるよ」



 あぁ、俺は……俺は……



 湯花のことが好きなんだ。



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