第53話 忘れ得ぬ思い

 祖父が入院した。

 またなのであるが、今回も不摂生のせいだ。


 祖父の趣味の1つにゴルフがある。

 正直、沙菜から見れば祖父など紳士でも何でもないので、紳士の嗜みであるゴルフなど、最も似合わないのだが、本人が好きなのだから仕方がないのだ。


 毎日の日課である、クラブの素振り中に事件は発生した。

 素振りでギックリ腰になり、立ち上がれなくなったのだ。

 あまりの情けなさに言葉が出なくなってしまった……。


 病院から祖母と家に戻って来ると、祖母が沙菜に言った。


 「ゴメンなさいね。実は言いにくいんだけど、お爺さんが車葬をかなりまとめて受けてきちゃってるのよ。ホントに申し訳ないけど、やってくれない?」


 祖父以外で車葬ができるのは沙菜しかいない。

 つまりは断るという選択肢は存在しないのだ。

 沙菜は今日ほど祖父に殺意が湧いた事は無かった……。


 まとめて受けているという事で、早めに始めておかないと大変なことになると思い、沙菜は即工場に入ると、いつもの場所には、クロカンとしてはミドルクラスではあるが、一般的には大柄なクロスカントリーが佇んでいた。


 「チャレンジャーかぁ、それじゃぁ、はじめるよ」


 というと車葬を開始した。


 三菱・チャレンジャー。

 '90年代のRVブームに乗りに乗って、一時はホンダを抜き去って3位メーカーの座に返り咲いた三菱は、この波に乗ってその座を盤石なものにしておくべく、次々にRVを中心とした商品をリリースしていった。


 その中でも一番の稼ぎ頭はクロスカントリーのパジェロで、日本人のクロカンの代名詞ともなるほどの大ヒット商品となった。

 しかし、RVブームにおけるクロスカントリーのボリュームゾーンは、もう1つ下のクラスのトヨタハイラックスサーフや、日産テラノなどであった。

 パジェロも決して売れていないわけではなかったのだが、更なる定番ヒット商品をそのクラスにも用意する必要があり、'96年7月に発売となったのがチャレンジャーである。


 大ヒット作の2代目パジェロのロングボディから3列目シートを外して2列シートとして、軽快なボディを載せたチャレンジャーは、当時の流行りであった背面スペアタイヤを排するなどスマートで都会的な印象を強く打ち出した、パジェロよりもシティ感覚なクロスカントリーというのが売りであった。


 パジェロと共通のシャーシに載るエンジンも共通で、V6・3000ccのガソリンと2500ccと新開発の2800ccの2種のディーゼルターボで、一回り小さいボディサイズが取り回しの良さと走りの良さを実現、駆動方式もパジェロ譲りの2種類の方式の4WDを備えて、信頼のメカがそれに花を添えていた。

 

 CMでは『ニュー4WDサラブレッド』と謳い、情熱的なタンゴを踊る男女のの背景でヨーロッパの石畳の道を駆け抜けるチャレンジャーが登場し、あくまでもシティ派のスマートなRVという性格を前面に押し出したものとなった。


 実際に発売されたチャレンジャーへの反響は、当初からユーザーの反応は鈍く、ほとんど忘れ去られたかのような扱いになっていた。

 原因はニーズの変化を読み違えた事で、この頃のRVブームはさらに次の段階へと進んでおり、ミニバンにしてもステーションワゴンにしても、そしてクロスカントリーにおいても、扱いやすくて維持しやすい車が好まれるようになっていたのだ。


 ステーションワゴンにおいてもレガシィ一強からやがて日産ウイングロードやトヨタのカローラワゴンのようなコンパクトクラスのワゴンが受けるようになり、また、4駆の世界においても、'94年にトヨタが発売したRAV4がそれまでの4駆の常識を覆して大ヒットするなど、日本のRVはそれまでの『大きくて本格的なもの』から『そこそこでも扱いやすいもの』という形へと転換していったのだ。

 

 ユーザーからすれば、不整地や渡河走行をするわけでもないのに、本格的なフレームを持ち、大排気量のエンジンを必要とし、2WDと4WDの切り替えも面倒臭いクロスカントリーより、本格的なオフロード走行はできないものの、雪道や荒れ地をちょっと飛ばすくらいの用事はこなせて、2000ccで燃費も良く、フルタイム4WDで切り替え作業もいらないRAV4の方が、分かりやすくて付き合い易かったのだ。


 その後のチャレンジャーは、三菱お得意のダカールラリーへとパジェロと共に毎年のように参戦して上位での完走をアピールしていたが、同時に出ているパジェロが総合優勝をしている中でのそのアピールは非常に弱く、パジェロと共にRVブームについて行けない時代の遺物として忘れ去られていった。


 以後はガソリンエンジンの3000ccを3500ccにアップ、2500ccのディーゼルとMT車を廃止、4WDをフルタイム式に変更、残った2800ccディーゼルエンジンも廃止してガソリンへの統一するなどの時代のニーズに合わせた変更をしていくも、事態は好転せず、2001年に後継モデルといえるSUVのエアトレックにバトンを渡すと日本市場からは姿を消す。

 ちなみに海外向けは継続されて、2007年に2代目に、2015年には3代目へとモデルチェンジしている。


 次に持ち主の情報が浮かんでくる。

 当時30代の女性、夫は仕事でほとんど日本におらず、喘息の息子と、相続した山荘に、年の半分暮らす事から購入する。下取りはVWゴルフIII。

 春に山荘へとやって来て、冬の訪れの直前に戻って行く生活を続けていく、そして、昼の時間と生活の足しにと、山荘に手を加えて洋食レストランをオープンさせる。


 夫も滅多に帰って来ず、昼の寂しい時間帯を、たくさんのお客さんに喜んでもらう事で最初は気を紛らわしていたが、そのうちに楽しみになり、みんなに喜んでもらおうと次々に新しいメニューを考案していく。

 今までの暮らしの中では、決まった物しか作らなかったのだが、喜んでくれるお客さん達を見ると、ついつい嬉しくなって色々なメニューを作りたくなってしまうのだ。


 毎日の食材の買い出しや、山菜採りのお供にチャレンジャーは活躍した。

 特に、山菜の取れるポイントは、SUVでは入る事ができず、本格派の骨格を持つチャレンジャーの面目躍如な場所だったのだ。

 新たな彼女の生活に、チャレンジャーは寄り添いながら時間は温かく経過していく。


 やがて、夫が海外勤務から帰ってくる。

 当初は、今まで通り年の半分は家に帰っていたが、夫の勤務先が先行きが不透明になり、希望退職に乗れば退職金の割り増しがある事、楽しそうにレストランに立つ彼女を見て、今まで辛い思いをさせた分、楽しい思いをさせたいと思った事などから、家族で山荘へと移り住む。


 レストランは辺鄙な所にあるにもかかわらず、いつの間にか口コミなどで評判となり、東京などからもお客さんが来るようになる。

 以前は1人で切り盛りしていたレストランも、夫が常時手伝うようになったおかげで、増えたお客に対応しながら経営していった。

 ここに住んだきっかけとなった息子も、すっかり元気になって大学を卒業すると東京へと巣立ってしまい、いつの間にかこの山荘には夫婦とお店、そしてチャレンジャーが、初めからここにはそれしか無かったかのように残された。


 そうなっても、何一つ変わることなく、夫婦はレストランを経営し続けた。

 たまに纏まった休みを取って出かけた時も、旅先でお店の事が気になって仕方なくなったり、宿で食べた食事のレシピを訊いてみたり……と、お店中心の生活はいささかも変わらなかった。


 しかし、そんな生活にも変化が訪れる。

 彼女の様子がおかしくなってきたのだ。

 はじめは、今までミスした事のない彼女がしてしまった1件のオーダーミスだった。

 それがいつの間にやら日に1件は必ずミスするようになって、それが3件になり、5件になってきた。

 夫は、その段階で何が起こったのかについて薄々は気付いていた。若年性の認知症を発症しているのではないか? という見立てだった。

 しかし、彼女にそれを伝えて良いものかで葛藤しているうちに、言い出す事ができなかった。


 それが仇になってしまった。

 ある日、彼女から病院に連れて行って欲しいと懇願されたのだ。

 お店で奇行に走るようになってしまった事に、遂に彼女自身が気がついてしまい、気に病んでしまったのだ。

 そして、病院では医師から叱責されてしまう。

 何故もっと早く連れてこなかったのかと。現在は早期発見できていれば、投薬で進行を大幅に遅らせる事ができるのだ。

 彼女を思っていたつもりが、その事が事を悪い方向へと導いてしまっていたのだ。


 彼女の希望により、投薬治療を行いながら、お店を続けた。

 しかし、今まで通りの物量をこなすことは、ミスのフォローを含めると難しいため、少し客数を減らして、事情を知っているお客のみでの予約とした。息子に連絡して経緯を伝えたところ、HPに公表して理解を求めた方が良いと言われ、彼女の名誉を守るために葛藤したが、彼女自身の希望もあってそうしたのだ。


 そして、彼女が言った。

 もう自分は運転しない方が良いと。

 その意を汲んでチャレンジャーを手放してここにやって来た経緯が。


 沙菜は、これから増えていくであろうケースの車葬であるチャレンジャーからの思念を読み取っていく。

 ここまでの彼女の半生をしっかりと映しているこの車からの思念をしっかりと読み取ると、ボンネットに優しく触れて


 「良き旅を……」


 と言うと、車葬を終えた。


◇◆◇◆◇


 2日後、事務所には持ち主の夫婦が揃ってやって来た。

 わざわざ遠くの山荘から来たのかと思って驚いたが、東京の息子の所に行っていて、その帰りに寄ったそうだ。


 しかも、夫の運転するジムニーシエラで現れたのにも驚いたが、やはり山菜採りは続けていかなければならないのと、彼女の症状が進んだ際に、万一の事があっても自分で運転した覚えのない車であれば、乗って出かけてしまうリスクも避けられるだろうという事で車を替えたのだそうだ。

 やはりSUVではなく本格的なクロスカントリーでないと使えないため、車種はほぼ一択だったそうだ。


 そして、今は彼女の症状も落ち着いており、しばらくは大丈夫だろうとは思っているが、やはり端々に以前とは違った面があって、失ってしまって戻らないものの大きさを感じさせる瞬間があるそうだ。


 沙菜は、今後のチャレンジャーの解体予定や使い道についての説明をした後、2人にチャレンジャーから受け取ったものを差し出した。


 「これは?」


 夫は初めて見たような表情であったが、彼女はそれを見るととても懐かしいような表情になって黙り込んでしまった。

 それは、小さなお守りが結びつけられた喘息の吸引器と、ボロボロになったノートだった。


 「あのチャレンジャーから受け取りました。今後の助けにして欲しいとの事でした」


 沙菜が言うと、彼女は話し始めた。

 吸引器は息子が使っていた物で、お守りは、治癒の祈願に彼女が毎年買っては付け替えていた物だった。

 初詣に行って新しいのを買った際に、古いものが見当たらなかった年があったため、その時のものだろうという事だった。


 そして、ボロボロのノートは、彼女の最初のレシピ帳との事だった。

 正直、ノリと勢いで始めたようなお店だったが、お客さんがついて、喜んでもらえるようになり、更には『こんなの作れない?』と言われた時に、必死に研究して作ったものだそうだ。

 まだ当時はネットが今ほど一般的ではなく、主に図書館や書店、更には※テレホタイムを利用して、重くなる回線で必死に調べて基礎を調べて、そこから自分なりのアレンジを加えていくというやり方で、しかも、調べたものもまだプリントインクも、メモリーも高価だったので、手書きメモで1つ1つ書いていったのだった。


 きっと、これからいろいろな事を忘れていってしまうと思われる彼女だが、きっとこの事だけは最後まで覚えているのではないか、いや、そうあって欲しいと沙菜は願わずにはいられなかった。


 帰りに、沙菜はある場所を教えて、帰りに寄っていってお茶でも飲んで行って欲しいと伝えた。

 それは、以前にオプティを車葬した際に、残された旦那さんが始めた創作家庭料理のお店だった。沙菜も何度か行ったことはあるが、きっと雰囲気的にも境遇的にも彼の力になってくれるのではないかと思ったのだ。


 数日後、沙菜のもとに礼状が送られてきた。

 帰りに寄ったお店で、店主である旦那さんと話しこんでしまった事や、店主の話に身につまされた事、自分の境遇は彼に比べればずっと恵まれているため、自分がしっかりと奥さんを支えて頑張っていくといった内容が書かれていた。


 そして、お礼として招待状も同封されていたのだが、さすがに沙菜には山荘は遠すぎて、どうしたものかと考えてしまったのだ。


 

 (※テレホタイム NTTの時間限定の定額料金サービス『テレホーダイ』の定額時間帯である23時~翌8時の事。黎明期のインターネットは電話回線で行われており、皆が一斉に繋ぐため23時前後は回線が非常に重かった。尚、2024年にテレホーダイが廃止されるアナウンスがこの1月に発表された。)



 

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