第52話 ジレンマと番頭
「やっぱり、温泉だろう」
「ですね、それは外せないでしょう」
祖父母が話している内容が聞こえてきたが、きっと旅行の話だろう。
毎年、この時期には祖父母が数日間、工場を休みにして旅行に出かけているのだ。
沙菜が子供の頃は、一緒に行ったりしていたが、さすがに祖父母とでは段々好みが合わなくなっている事もあって、受験勉強を口実に中学2年生くらいからは、夫婦だけに行って貰っている。
沙菜は決して温泉が嫌いなわけではないが、積極的に行きたいという訳でもない。
どうしても、ああいう所は祖父母のような年配者の行くところという固定概念があるし、燈華やあさみに、沙菜が温泉なんて言ったら、何を言われるか分かったもんじゃない。
温泉の話はすっかり忘れていた夕飯時、ふいに祖父から
「沙菜、悪いんだけど、出かけてる間に1台車葬を頼まれてくれないか? いつものようにギャラで応援するから!」
と言われ、断ろうにも祖母からの圧を感じて、仕方なくお金で手を打つことになった。
工場には、黒のセダンが沙菜の到着を待ちわびるように存在感を出していた。
「ラファーガかぁ……それじゃ、はじめるよ」
と言うと、車葬を開始した。
ホンダ・ラファーガ。
バブル期のホンダは、ある1つのジレンマとの闘いが大きなテーマだった。
バブル時代の入口となった'80年代中盤のホンダは、その前数年とは違い上り調子に転じていた。
3代目シビックや、3代目アコードなどがヒットを飛ばし、そしてついに念願の高級車となるレジェンドを発売するなど、勢いづいていた時期だった。
しかし、いざバブルが始まってみると、今までのコロナ、ブルーバード、アコードよりも一クラス上の車がボリュームゾーンとなった。
代表的なのはトヨタのマークIIであり、日産のローレルであった。それらの車が飛ぶように売れはじめて、そこにタイミングよくモデルチェンジして一回り大きくなったマツダ・ルーチェもそこそこヒットするなど、上級サルーンが花盛りだったのだ。
しかしながら、当時のホンダにはここに当たるクラスの車が無かった。アコードでは小さく、レジェンドでは大きすぎる。当時の日本人は『中の上』を求めていたのだ。
そして、当時の日本人が求めていた『中の上』にはFRで6気筒エンジン搭載車という条件も漏れなくついてきていた。
スムーズで静かな6気筒エンジンと、ロングノーズのいかにもと言ったサルーン体格が、当時の売れ筋に求められていた最低条件だったのだ。
そしてホンダもこのクラスへの対抗馬を'89年に投入する。
アコードシリーズのモデルチェンジに当たって追加されたアコードインスパイア/ビガーである。
ビガーは元々アコードの姉妹車であったが、これを機に一クラス上へと移行した。
しかし、この車のレイアウトは、FRが作れない当時のホンダの苦肉の策だった。インスパイアは直列5気筒を前輪より後ろに積んだFFと言う世にも奇妙なレイアウトで登場したのだ。
ホンダ自身がFFミッドシップと呼んだこのレイアウトのメリットは、FF車でありながらFR車のようなロングノーズデザインができるというもので、FF車でありながら、FR車並みの狭い室内になるという、FF車のメリットを何も感じさせないものだった。
それでも本末転倒なFF車であるインスパイア/ビガーは日本でヒットして、途中でワイドボディを追加した後、'95年にはワイドボディのみの2代目へと移行する。
そして、それに先立つ事2年の'93年、従来のナローボディのアコードインスパイア/ビガーの受け皿となる車が発売された。
それがアスコットとラファーガである。
ちなみにアスコットは2代目で、先代モデルはビガーが抜けた穴を埋めるアコードの姉妹車(ただし、扱い店は違う)だったが、アコードのモデルチェンジと同時に全く違う趣の車として独立してモデルチェンジをし、その姉妹車として登場したのがラファーガ……というとてもややこしい段階を踏んでの登場となっている。
ラジエーターグリルやライトベゼルの仕上げの違いで、アスコットに対してスポーティさとダンディさを演出したのがラファーガの違いとなっており、ベルノ店向けであるラファーガらしい、よくベルノ店扱いの車が創出する性格での登場となった。
ボディはインスパイアが背の低い4ドアハードトップだったのに対して、セダンボディとし、そして背が高めに取られていたのが特徴だった。
インテリアは、さっぱりとしているものの、インスパイア/ビガーを見てしまうと野暮ったくて安っぽいというのが正直なところであったが、インスパイアのインテリアには本木目を使ったりと、バブル最中ならではのやりすぎ感も多く見られたため、クラスの標準で見ればとてもよくできたものであった。
基本的なメカニズムはほぼインスパイア/ビガーを踏襲して直列5気筒の2000ccと2500ccで、2000ccにのみMTがあるという点も共通で、明らかにインスパイア/ビガー及びモデルチェンジした5代目アコードが3ナンバー化することに対する一定の受け皿的存在であった。
まったく新しい考えのセダンとして登場し『背が高いこと~ホンダの新しいカタチです~』とCMで謳って登場したラファーガだったが、登場当初から存在は空気と化しており、売れる事なく沈んでいった。
原因としては、当時はRVがブームの真っ最中で、このクラスのセダンのユーザーが流出してしまった事、当時のセダンを求めるユーザーは背の高さをマイナスと捉えた事、更にはFFなのに狭い室内空間であることを見抜かれた点などが挙げられた。
2つ目と3つ目の原因に関しては、数年前に三菱ディアマンテがヒット、そしてラファーガの翌年にモデルチェンジした日産セフィーロもヒットするなど、このクラスでFF車でもヒットする素地がある事を示したのだが、それらの車はV6エンジンを搭載し、FF車の最大のメリットである室内の広さを最大限活かしたものだった。
しかし、ラファーガのレイアウトは、FR車に見せたいがために実現した無茶苦茶なもので、広さを感じさせなかった。そこを、背を高くしてカバーしようとしたものの、足元が狭く、横幅にも余裕がない中で、頭上だけが無意味に広くなっても、空間の無駄遣いで、乗員に広さを提供することにはならなかったのだ。
'95年7月には専用の足回りや仰々しいリアウイングを付けたスポーティ仕様を追加するなどの対策をしたが、そもそもズレている対策は何の効果ももたらさず、'97年9月にアコードが6代目にモデルチェンジすると同時に誕生した姉妹車トルネオにアスコット共々統合させられて消滅する。
次に持ち主の情報が浮かんでくる。
2オーナーだが、思念量が圧倒的なのは2人目のオーナーだった。
新車購入時のオーナーは40代男性で、とある国の大使館勤務。
購入した直後から車は大使館内に保管され、ほぼ使われていない状態で半年が経過した時、2人目のオーナーの手に渡る。
2人目は、大使館のある国から来たエージェントである30代外国人男性。
直後からラファーガは、2人目のオーナーと共にあちこちへと動き回るようになる。
その活動を見ているうちに、沙菜にも分かった事があった。
「諜報員だ」
ラファーガと行動を共にしている外国人男性の動きは、明らかに隠密の諜報活動だ。主に、日本の情報ではなく、日本に来ている別の国の要人関連の情報を探っているのだ。
この状況を見てしまうと、あの怪しい購入劇にも説明がつく。
彼の活動に使える足で、且つ警察等に怪しまれて照会をかけられても、大使館の所有となれば、面倒を避けてくる。
そして、彼の隠密行動が実を結んで、また更なる国内での諜報活動が言い渡されてしばらくした頃だった。
本国でクーデターが起こり、政権が打倒されてしまう。
すると、彼に対して活動の中止及び本国の裁判所への出頭命令が出てしまう。
彼も、国のために諜報員としてプライドを持って働いてきたが、その活動で手を汚してしまった自覚も当然あるので、刑に服す、即ち命も屠する覚悟でいた。
しかし、その最中に内戦が起こって渡航ができなくなり、その間に本国は混沌とした状態へと変わってしまう。
本国へと渡れなくなってしまった彼は、当時の仲間からのアドバイスで、日本で逃亡生活を送る覚悟を決める。
そして、自分なりに身の隠し方を勉強した結果、流れの温泉番頭として各地の温泉を転々とする生活を続けた。
彼としては真剣に身を隠す方法と考えていたようだが、見るからに外国人の出で立ちの男性が、流暢な日本語で話しながら温泉旅館を縦横無尽に駆け回っている姿が目を惹かないはずはなく、彼は温泉旅館界隈では有名人として扱われていた。
朝早くに出勤して庭や玄関、館内の掃除、朝食の準備をして、朝食の間に客室の布団の片付け、チェックアウトの時間にはお客様をお見送り。そして、昼は部屋の片付けとお迎えの準備、そしてチェックインの時間になると駅までバスを運転してお客様の送迎、そして宴会の準備や夕食の準備、更には夜のフロント業務……と、諜報活動とは違った多彩な業務をこなしていく日々が続いていった。
そして、その生活が20年以上続いた昨年、長年にわたって続いていた祖国の内戦が終わり、新しい大統領にはかつての自分の仲間が就任したのだ。
直後に、彼のもとに祖国で大臣になって欲しいという誘いがきたのだが、彼は当然の如く断った。
諜報活動という汚れ仕事をしていて、その後は犯罪者として手配され、日本へ逃亡していた自分などがなるべき役職ではない上、彼には温泉番頭として、いつか支配人になる野望があったのだ。
しかし、その後も何度も誘いが来て何度も断っていたのだが、先日、大統領となった仲間が彼のもとへとやって来て、今回だけでいいのでどうしても……と頭を下げて頼んだそうだ。
その行動に彼も遂に折れて、一期だけという条件で引き受ける事になって日本を発つことになり、遂に相棒のラファーガともお別れになってここにやって来た経緯が。
次に沙菜は、車側からの思念を読み取る。
長い間、彼の相棒を務めたラファーガは、実に色々な彼の姿を見ていた。
沙菜は、その思いの1つ1つを丁寧に読み取ると、ボンネットに優しく手をついて
「良き旅を……」
というと車葬を終えた。
◇◆◇◆◇
2日後、事務所にラファーガの相棒だった男性がやって来た。
昨日で旅館を退職してきて、3日後には日本を発つそうだ。
沙菜の第一印象では、本当に諜報員だったのだろうか? というような、頼りなげな優男の雰囲気を醸し出しているのだ。
痩せて、ちょっと禿げ上がった髪と、締まりない口元に、そして口の減らない実の無い喋りの中に、下ネタを混ぜてくるデリカシーのなさ等、にわかには信じがたいのだ。
「それで、車の方はどうなりましたか?」
「外装や機能部品はほぼ生きているため、リサイクルに回しています」
彼の問いかけに、沙菜は答えた。
特に完全解体の依頼は受けていなかったので、使えるものはリサイクルに回してしまったが、彼の過去を考えれば、解体してしまった方が良かったのかもしれない。そう思った次の瞬間
「それで良いでしょう。リサイクルは大切ですからね」
と、外国の諜報員とは思えない言葉が聞かれた。
沙菜は、調子を狂わせられそうなので、さっさと彼の前に、ラファーガから受け取ったものを差し出した。
「これは……?」
彼は言ってそれを見た。
……そして、次の瞬間表情が驚きに変わった。
それは、巾着袋だった。
彼がその袋の中身を出すと、そこには見た事の無いバッジと、温泉系ゆるキャラのキーホルダーなどがいくつか入っていた。
バッジは、諜報員として勤めていた機関の物で、グッズは、自分のいた温泉地を忘れないようにいつも思い出に買ってから離れるようにしているのだそうだ。
今回、辞めるにあたっても買い求めたために、仕舞おうと思って探していたが、見つからずに困っていたそうだ。
彼曰く、自分のルーツとこれからを忘れないための宝物だそうだ。
命を削って諜報活動していた自分も、温泉番頭として人に触れ、人の優しさや喜びに触れて、この仕事を天職にしようと思った自分も、紛れもない本当の自分だというのだ。
「だから、母国を立て直した後、私はまた温泉番頭に戻ります。支配人の夢は捨ててないんです!」
とても力強く言って、帰って行った彼を見て沙菜は思った。
この人に本当に大臣が務まるのだろうか……と。
しかし、2ヶ月後に何気なく見流していたニュース番組に映った彼の姿を見て、驚く事となるのだった。
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