第35話 意欲と賛辞
昼休み、燈華たちとの話題の中で突然出てきたのは、小中学生の頃の、担任からの評価についての話だった。
沙菜の成績は良い方なので、それに関する問題点は無いのだが、担任の評価というものは正直沙菜にとっては、耳の痛いものだった。
それは、沙菜を客観的に見た際の評価で書かれている『常に何にも興味が無いように見える』『何に対しても意欲がなく映る』といった文言だ。
正直、沙菜は幼い頃から何かに興味を持つという事も無かったし、部活にも入っていたが、別にスポーツに打ち込んでいたわけでもなく、帰宅部なんて言うと不健康そうに思われるのでやっていたに過ぎないのだ。
なので、沙菜はこの話題には触れられたくなくて、スマホを眺めて聞いてないふりをしようとしたところ、LINEの通知が来ていたため、これ幸いにそれを口実に廊下へと逃れた。
しかし、そのLINEの内容は最悪のものだった。
それは祖母からで、祖母の身内に不幸があったため、祖父母は明後日まで泊まりになるとの事、それに伴い、工場にある車の車葬をすること……というものだった。
放課後、沙菜は、重くなった体を引きずるように家に帰ると、工場のいつもの場所に行った。
暗くなった工場には黒のSUVがぬっと佇んでいた。
「トリビュートかぁ……それじゃ、はじめるよ」
沙菜はボンネットに手を触れた。
マツダ・トリビュート。
今では信じられない事であるが、2012年までのマツダは国内で何度クロカンやSUVにチャレンジしても
古くより小型トラックであるプロシードが北米を中心に人気を得るも、それをベースにしたプロシードマービーは日本でダットサンをベースにしたテラノ、ハイラックスをベースにしたサーフが飛ぶように売れる中で存在が空気となるほど売れず、スズキから人気の小型クロカン、エスクードのOEMを受けたプロシードレバンテも、OEMの定めで本家より目立つことなく終了と相成った。
そんな中、トヨタが発売したRAV4は、乗用車をベースにしたクロカン風味のSUV(当時はライトクロカンと呼称)というジャンルを開拓、そこにホンダが発売したCR-Vもバカ売れした。
特にマツダと同じく、このブームから蚊帳の外の扱いであったホンダに先を越された事が、マツダを鼓舞させたであろうことは想像に難くなく、マツダはこの手の車づくりに長けたフォードと共同開発のSUVを開発する。
2000年11月に登場した全く新しいSUVは、今までのクロカンモデルのようにプロシードからではなく独立したブランドとして登場し、トリビュートと名付けられた。
尚、フォードからは違うデザインの兄弟車、エスケープが発売された。
今までのトラック丸出しの垢抜けないデザインだったプロシードマービーから比べると、すっかり町に似合う乗用車ライクなデザイン、インテリアとなって、競合車種と並んでも遜色のないものを手に入れる事に成功した。
エンジンはフォード製の4気筒2000ccと3000ccのV6だった。当時のマツダはフォードとの部品共用化率が非常に高く、またトリビュートは共同開発車なので、特にその傾向が強かったが、2003年より、4気筒はマツダ製2300ccに切り替えられている。
マツダが初めて投入したSUVのトリビュートは登場前から販促に力が入っており、映画、音楽、アパレルブランドとのタイアップやコラボが多数組まれていて、非常に意欲的な取り組みで登場したのだが、パッとしない外観と、同月に日産から登場したエクストレイルに人気が集中し、その影に隠れてしまった事などが響いて、登場当初から存在感が非常に薄くなってしまった。
その後、生産は続けられていたが2006年に国内での販売を終了し消滅している。
尚、日本以外の地域ではその後も生産を続けられ、一部の地域では2代目に切り替わった。
次に、持ち主の情報が浮かんでくる。
当時20代中盤の男性。
特に車に拘りもなく、流行っている物を網羅しているうちに、映画で見たトリビュートを何となくで購入。
適当なタイミングで売って次の車を買おうと思ったが、最初の車検時に買取店を回って、あまりの査定の低さに愕然として乗り潰すことを決意する。
都心に勤めているため、車は週末の買い物や遊びの足として使われて、数年が過ぎて結婚。
妻はトリビュートの大きさは運転できないというため、結婚後も車の使い方は変わらず、週末のみの動きとなった。
私生活が安定すると同時に、彼もそれなりに昇進して、責任ある立場になっていくのだった。
今までの彼の仕事のスタイルは、それなりにこなしていって、良くも悪くも目立たないように立ち回って給料をもらう。
怒られるわけでもないが褒められるわけでもなく、空気と化していれば、妙な期待をされてガッカリされる事もなく、大きな仕事を任され、残業の嵐となり、自分のライフスタイルを乱される事もない。
あくまで面倒なことなくそれなりにこなしていれば良いのだ。
バブルの頃に必死に頑張って皆を蹴落とし、登り詰めるところまで登り詰めた先にあったのは、会社の合併劇で、以降は降格に次ぐ降格の末に、今や無気力に定年を待つ上司の姿を見ているので、自分のスタイルは間違っていないと確信していたのだ。
しかし、結婚後に待っていたのは昇進だった。
彼は主任として5人のチームをまとめる事になった。
彼の中で葛藤が始まってしまった。
彼女とは、最初は結婚するつもりはなかったが、長く付き合って、居心地が良くなっていくうちに、ある日彼女から決断を迫られて、なんとなくで、してしまったのだ。
悔やんだところで時間が巻き戻る訳でもないので、彼に残された道は、上司としてそれなりの成果を上げることだった。
しかし、それは非常に難しいことが分かった。
前任の実績より落とさないように、そして、悪目立ちをしない程度のパーセンテージに実績をとどめる事は難しいのだ。
そして、チームという枠組みが彼の頭を悩ませていたのだ。
彼のチームには妙に張り切るメンバー、そして原理主義で間違った売り上げを作らないメンバー、そしてスタンドプレー主義で、異常数字を上げる一方で、顧客と揉め事を起こすメンバー、理屈ばかりをこねて動こうとしないメンバー、そして、過去の彼のような、空気に徹して、そこそこのラインを狙い、冒険をしないメンバー……と、それぞれに個性的な顔ぶれが待ち受けていたのだ。
彼は自分のために、やっていくしかないと、彼らにぶつかっていく事にした。
特に彼を悩ませたのは、過去の彼と同じような空気に徹しているメンバーと向き合う事だった。
過去の自分に照らし合わせて考えてみれば、自分の目標は達しているので、これ以上頑張る道理はない。しかし、チームとして考えた場合は事情が違ってくる。
彼は、そのメンバーと接していくうちに、ようやく過去の自分が周囲からはどのように映り、どう思われていたのかが分かったのだ。
今までの彼は、適度に力をセーブしながら、上手く立ち回っていると思っていたのだが、その背中は透けていて、彼の考えなど周囲からはお見通しだったのだ。
彼は、そのメンバーに真剣にぶつかっていった。
それは、上司として自分のチームの評価を上げるためであると同時に、自分と同じ失敗をしかかっている人間に、それじゃいかんと軌道修正する事こそが、今の自分に対しての自己肯定になると思ったのである。
彼は必死になった。
以前の彼は、何故上司がしょっちゅう自分ばかりを飲みに誘うのかが分からず適当に断っていたが、今や、そのメンバーを頻繁に飲みに誘っては、適当にあしらわれていた。
しかし、その気持ちの分かる彼は、断り辛いひと言も知っていたので、本気で話したい時はその台詞も使いながら、真心で話し合った。
結果、ようやくそのメンバーとも分かり合う事ができ、頑張った結果、それなりではなく最高の結果を出し、彼とチーム全員は表彰を受けた。
それを喜ぶ彼は、初めての感覚に戸惑っていた。彼は、本気で仕事に取り組んだ事などなく、合わなくなったらいつか辞めてやろうと思っていたレベルだったので、本気で取り組むと、仕事って案外面白いものだという事に気が付いたのだった。
彼は、いつかやめようと思っていた会社で、気が付くと仕事に打ち込む人間に変わっていたのだった。
そこに至るまでの彼が休日に気分転換と称して、1人愚痴をこぼすために行っていたのがドライブだった。
彼には趣味らしい趣味はなく、スポーツも苦手ではないが、好き好んで1人で出来るようなものでもなく、酒も弱くはないが好きでもないので積極的には飲まず、ギャンブルには興味がないため、世間的に不審がられず、手軽にできる気分転換と言ったらドライブしかなかったのだ。
そして、人生で初めて本気で打ち込めることを見つけた彼は、それを機に色々なものに興味を持ち出し、長年乗ったトリビュートもレヴォーグに買い替え、ここにやって来た経緯が。
次に沙菜は、車からの思念を訊いていく。
長年のワンオーナーではあるが、彼がこの車と感情を通わせた時間は長くないため、密度の濃さとは対照的に、あっという間に終わった。
すると沙菜はボンネットを撫でると
「良き旅を……」
というと車葬を終えた。
◇◆◇◆◇
2日後、事務所にオーナーの男性がやって来た。
沙菜は、トリビュートから受け取った物を彼に渡した。
「これ……?」
それは、ビニールで包装されたままだが、かなり古い漫画の単行本だった。
彼が、トリビュートを買うきっかけとなった映画は漫画原作で、彼も興味を持って原作のコミックスを買ったのだが、ある時、買った最新刊が行方不明になってしまい
、以降は面倒臭くなって買う気がなくなり、読む事もなくなったそうだ。
「トリビュートからは、あなたにも夢中になった物や、なった時期があるって事を忘れずにこれから取り組んで行け……という事を伝えて欲しいと」
沙菜に言われて、彼は何かに打たれたかのような表情になって話した。
トリビュートを買った頃、特に打ち込めるものもなく、せっかく買った車を大切にしようと思った時期があった事、そんな頃に、買った単行本が見当たらなくなり、数日間必死に探していたが、そんな事を周囲から知られて、自分が漫画や車に興味があるオタクだと思われたくなくて、その想いに嘘をつき続けていた事を……。
そして、仕事に関しても知らず知らずのうちに、本気になっていく自分が周囲から暑苦しがられるのを恐れていた事などを……。
そして、彼は
「これからは、仕事が面白くなったので、まずはそれで、でもそれだと定年後に抜け殻になるので、他にも色々な事にチャレンジしていきます。まずは、これを全巻集めて読破します」
と、さっきの単行本を手に取って言うと帰って行った。
沙菜は、帰って行った彼を見送りながら思った。
別に、頑張ってる姿を見られるのって、そんなにカッコ悪い事ではないのに、何故、そんなに隠したがったのか。
そして、羨ましいと思えた。
何故なら、沙菜には打ち込めるほど興味のあるものなんてないからだ。
そんな沙菜を『そのうち、見つかるから』と言いたげな表情で見守っているトリビュートがいた。
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