第29話 自由の翼と心の檻
「爺ちゃんは、本当にデリカシーが無いんだよっ!」
沙菜はそう言うと、自室のドアを思いっきり閉めた。
ことの起こりは、20分ほど前、沙菜が家に帰りついた時に遡る。
外出していた祖父が
しかし、沙菜は明日の身体測定に備えてダイエット中であり、その話は、2週間前からしていたのだった。
それを知っているのに、そんな物を買って来て、あまつさえ沙菜が『ゴメン、明日の身体測定終わってから食べるね』と言って、自室に戻った際、祖父は追ってきたのだ。しかも、ノックも無しに部屋のドアを開けたため、着替え中の沙菜と鉢合わせるというおまけ付きだ。
祖父もこれ以上喰い下がれず、更に下から祖母が、祖父に下りて来いと怒鳴っており、退散することになったが、これは少々尾を引く出来事になりそうだ。
祖父と孫娘というのは非常に関係が難しいのだ。特に、年頃になってしまえば尚のことだ。
翌日、沙菜が家に戻ると、祖母が
「ちょっと沙菜にお願いがあるのよ。工場にある車をね……」
と言ってきた。
祖母から頼まれると断り辛いが、かと言って今の時期に祖父とは顔を合わせたくない。その辺のことが分かって、祖母が頼みに来ているのだろう。
沙菜は引き受ける事にした。最近、3件連続断っているので、断り辛いというのもあるのだ。
工場には、シルバーのセダンが止まっていた。
沙菜にはちょっと見覚えのない車種だった。
ホンダのマークがついていて、この大きさならシビックかと思ったが、違う名前が書かれている。
「よしっ! とにかくはじめるよっ!」
沙菜は言うとボンネットに手をついて車葬を開始した。
ホンダ・インテグラSJ。
ホンダの第二の販売チャンネルであったベルノ店向けに1980年に登場した1500ccセダンであるバラードは、シビックに先駆けて4ドアボディを持ち、下級の1300ccを持たない、シビックと違って角形ヘッドランプを用いる、ダッシュボードが一部違うなど終始上級車としてのイメージ作りが成功した。
しかし、2代目では、シビックとの差別化が図れずに、デザインのみの違いとなった事で陳腐化し、1986年にベルノ店向けのクイント・インテグラに1500ccが追加された事でバトンを渡して消滅。以後はインテグラ4ドアが後継車となった。
しかし、'89年のモデルチェンジ時に、インテグラから1500ccが消滅。
ベルノ店で小型車を買う層が、プリモ店扱いのシビックや、他メーカーに流出。
ディーラーからの強い要望に応える形で、商品企画が行われた。
インテグラ1500消滅から7年を経た1996年2月に登場したベルノ店向けの小型車は、前年にモデルチェンジして6代目となったシビックの4ドアセダン、フェリオをベースに独自の顔周りと、後ろのウインカーレンズがクリアになる違い、更にはシビックにも搭載された新世代CVTである、ホンダ・マルチマチックが改良されるなど、まったくの兄弟車ではなく、この車独自のトピックをもって誕生した。
セダン・ジョイフルの略であるSJと名付けられたこの兄弟車だが、自動車誌を読んでいる人間か、ベルノ店で車を買っている層以外には認知される事は無いまま、販売は低調だった。
原因は大きく3つで、シビックと比べるところがない割に、PRを全くと言っていいほど行わなかった事で、誰にも認知されなかったのだ。
恐らく、マルチマチックの改良を大々的に謳うと、シビック販売の足を引っ張ると判断されたのかは不明だが、PRしないので、選ばれる事も無かったのだ。
もう1つは、この6代目シビック自体が、冒険を避けたデザイン等で販売が思わしくなく、その兄弟車で影の薄い、しかも熱狂的なファンの多い1600ccのVTECエンジンのスポーツ版も設定されないのでは、注目されないのは必然だった。
そしてもう1つは、'93年に3代目となった本家インテグラも、デザインの失敗から販売不振だったが、'95年に無難で無個性な顔周りにマイナーチェンジし、タイプRを追加する一方で、4ドアの通常グレードを安売りし、ブラッド・ピットのCMで話題をさらうなどして、従来のバラードを買っていた層に、1600ccのインテグラで安売り攻勢をかけていたのだ。
その最中にCMも流さず、存在も地味、兄弟車のシビックに比べて、安価な1300ccや高性能な1600ccのVTECも持たずに微妙に高くカッコ悪いインテグラSJは売り辛く、積極的に販売促進しなかったのだ。
その後、'97年、'98年にマイナーチェンジを行うと、'99年に特別仕様車を出したのみで2000年にシビックがモデルチェンジを行うと、2001年12月で生産終了し、消滅した。
続いて、持ち主の情報も流れてくる。
この車は2オーナーで、やはりと言うか、最初のオーナーは年配の男性だった。
当時60代で、子供は独立しての夫婦2人暮らしで、3代目ビガーからの代替。
若かりし日のオートバイからホンダだけを乗り継いでおり、その流れの中で購入。
長い年月を一緒に過ごし、オーナーは亡くなってしまう。
2人目のオーナーは、前オーナーの最後から1ヶ月後。
20代の女性で、沙菜は、さっきまでの映像の中に見覚えがあった。
「孫娘だ」
確かに、最初のオーナーの映像の中に度々現れてきて、段々と成長していく女の子と同一人物だった。
しかし、彼女の瞳の中にかつてあった光がすっかり失われている事が、沙菜にもハッキリ見て取れ、それはとてもスルー出来るものではなかった。
案の定で、彼女の腕や腿が時より見えると、そこには生々しい痣や傷痕が見えるのだった。
ある日など、アパートの階段から蹴り落とされているのが、ハッキリと見えた。
「ダメ男とくっついたか……」
沙菜は予想通りの展開過ぎて思わず呟いた。
彼女は昼夜働いては、男に金を渡し、彼女のいない昼間に男は遊び歩く。
時にはインテグラSJに乗って出かけるが、行く先は他の女の所だ。
『こんな、金にならないのじゃなくて、もっとマシな車持って来いってんだよぉ!』
などと言っていた男だが、沙菜には、彼女がなんでこの車を持って来たのかがピンときた。
彼女は時々、車に乗って行くバイトなどもやっていたのだ。
その際に、ある程度の車を持っていると、あのダメ男の事だから、彼女に黙って売り払ってしまう事が考えられる。
だから、売り払おうにも買い手のつかないインテグラSJに乗ったのだ。
そしてある日の光景は、とてもきな臭いものだった。
彼女のいない昼間に、部屋を訪ねる男性。しかし、しばらくして出てきたのは、何やら寝袋を持って出てきたあのダメ男。
そして、インテグラSJのトランクの中に、寝袋を積んで雑木林の中へと入って行く。
雑木林の奥で、インテグラSJは止まり、男は斜面から、寝袋を叩き落とすと、再び戻って行く。
その夜、彼女が、頭から血を流しているダメ男を、インテグラSJに乗せて昼間と同じ雑木林にやって来る。
「おかしいよ……」
沙菜がつぶやいた通り、彼女のアパートからの最短距離ではなく、一度逆方向に向かっていたのが、途中でUターンして雑木林に向かったのだ。
そして、彼女は震えながら助手席からダメ男を引きずり出すと、斜面から落としたのだ。
落ちたのを確認すると、インテグラSJに乗って走り去っていく彼女。
そして、それを確認してからニヤリとして、立ち上がるダメ男。
崖下を歩いて、昼間、自分が落とした寝袋を引っ張って来て、中身をさっき自分が落ちた場所にぶちまける。
昼間、アパートを訪ねてきた強面の男の死体だった。
ダメ男は、彼女とわざと揉めて殴られるように仕向けて、死んだふりをして、ここへと捨てさせたのだ。
「下衆な奴」
ダメ男は、死体を入れ替えると、足跡を消しながら斜面を上がり、雑木林の出口付近の不法投棄されたゴミの中に寝袋を放り込むと燃やしてから、迎えに来たワゴンRに乗って走り去っていく。
次に、車からの思念を読み取っていく。
この車には、亡き祖父の強い思いと、それを受け継いだインテグラSJの思いがたくさん、そして密度高く詰まっていて、沙菜は立っているのがやっとだった。
そして、沙菜はボンネットを優しく撫でると
「良き旅を……」
と言って車葬を終えた。
◇◆◇◆◇
翌日、今回の依頼の依頼者である、例のシャレードの家の奥さんに連絡をすると、すぐに警察がインテグラSJを押収に来て、それから3日もしないうちにダメ男は潜伏先の女のマンションで逮捕された。
ダメ男が殺したのは闇金の回収人で、今日中に返済しないと、住み込みの土木の仕事に連れていくと迫られ、前々から計画していた通り、彼女に罪をなすり付ける形で殺したのだった。
まぁ、終わったな。沙菜は確信した。
計画性がある段階で、殺人としては重い量刑になるだろうし、手を出した相手がヤバいので、出所したとしても、もっとヤバいところから追われるだろう。
下手したら、刑務所の中で自殺か病死か事故死として片付けられてしまう事もあり得るのだ。
沙菜は、事件の全てが片付いた後で、事務所でインテグラSJの2人目のオーナーの女性と対面した。
すっかり憔悴しきって、やつれている彼女に、沙菜はおもむろにテーブルの下から買ってきた牛丼を出すと、一言
「まずは、食え!」
と言った。
すると、彼女はボロボロと涙をこぼしながら言った。
「なんで……お爺……ちゃんの、口癖を……知ってるの?」
沙菜が車葬の際に、インテグラSJに残った老人の思念で、困ってる彼女にまず牛丼を出してやって、このセリフを言ってやって欲しいというのがあったのだ。
彼は、いつも自分のレシピで作って出していたが、亡くなる1年ほど前から、体が辛くなったので、買って来ていたそうだ。
「あの車から、全部聞いてるからね。知ってるの。そして、お祖父さんは、自分が生きていれば、あの男を刺してやるのに、できずに貴女が苦しんだ事を後悔してる」
彼女は牛丼を食べながら黙って聞いていたが、時より下を向いて、涙ぐんでいた。
沙菜は、彼女に続けて言った。
「あの男の事は、もう忘れた方が良いよ。アイツ、出てきても、もっとヤバい連中に追われるから……」
彼女は、それを聞くと
「分かってる。ようやく離れられてホッとしてたんだ。お爺ちゃんにも、天国に行ってまで、これ以上心配かけられないよ!」
と心からの笑顔を浮かべて言った。
その笑顔に沙菜は確信した。今回の件は全て解決したと。
すると、彼女が、沙菜に言った。
「それで、車の事なんですけど……」
「それも、お祖父さんから承ってます。証拠品から返却されたら解体します」
「えっ!?」
「お祖父さんから、自分の思い出は、車以外にも色々な所に残ってるし、それに、あの車にはあの男の思い出もあるから、残さないで欲しいと言われています」
彼女は納得がいかない様子で俯いているので、沙菜はインテグラSJから教わったダメ押しの言葉を放った。
「お祖父さんは、自分が60過ぎて妥協で買った車じゃなく、貴女にも自由の翼になるような車に乗って欲しいと思ってるんだよ!」
そして、沙菜は、車葬で聞いた、彼女のお祖父さんの話をした。
彼は、小さい頃に養子に出され、田舎の農家の後継ぎと決まっていたが、それが嫌で16歳の時に家を飛び出して、都会に出て工場で働いたそうだ。
必死に働いて、憧れのオートバイを買った際、1週間休みを取って、北海道を1周した。昼も夜も走り、疲れたらテントを張って寝る……という、今となっては無謀で過酷な旅だったが、自由を実感できた忘れられない思い出だったそうだ。
彼女は、沙菜の話を聞いて涙を流し続けていた。
◇◆◇◆◇
それからしばらくして、工場に彼女がやって来た。
もう、夜の仕事をやめて、昼の仕事だけで生活できるようになった彼女だが、もう半年だけやる事に決めたそうだ。
「車を買いたいんです」
そのために、もう少しだけお金が欲しいそうだ。
そして、その日のうちに注文を貰ったのは、マツダ・ロードスターだった。
以前から乗ってみたいと思っていたのだそうだ。
それを聞いて、沙菜には分かった。
きっと彼女の思いは、インテグラSJを通じて、きっと彼女のお祖父さんに伝わっていたのだろう。
だから、つい嬉しくなって自分の北海道旅行の話をしたのだろう……と。
恐らくだが、彼女は半年後に北海道に行くのだろう。
きっとそこに彼女の新しい出発点が待っているのだと思う。
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