第8話 守り神の番人
人と人の絆というのは、形に表せるものでは決してない。
しかし、時として、形になっている物からでないと、絆の深さを感じ取れない事もある。
沙菜は家に帰ると、事務所の外で、祖父が煙草を吸っているところに出くわした。
祖父は、沙菜が生まれるより遥か前に禁煙しているので吸わないが、従業員の中に吸っている人がいるので貰ったのだろう。
そして、そんな事をしている理由が、沙菜にはすぐに理解できた。
沙菜の母親から連絡があったのだろう。
祖父の娘である沙菜の母親は、祖父母の反対を押し切って、ここに勤めていた父親と結婚したそうだ。
沙菜も生まれたため、認めざるを得ない祖父は、工場を新築して、自身の後継者として父親を迎えたのだが、父親は祖父の期待を裏切って起業をすると、家族を連れて家を飛び出してしまったそうだ。
しかし、何の裏付けも、後ろ盾も、そして経験も持たずに起業したものだから、上手くいくわけも無く、会社はあっという間に倒産し、両親は借金返済のため、日雇い労働者として、各地を転々としているのだ。
だから、祖父は、沙菜の母親から連絡があると途端に機嫌が悪くなるのだ。
ちなみに、沙菜の両親の事を、祖父は勘当したと言っていて、父親がもし、連絡などしようものなら取り合う訳は無いので、父親は母親を使って、祖父に金の無心をしようとしているそうだ。
それが分かるので、祖父は母親から連絡があると、物凄く機嫌が悪いのだ。
しかし、沙菜にそんな姿を見せる訳にいかないので、煙草にはけ口を求めるのだ。
しかし、祖母は祖父が煙草を吸っているのを厳しく咎めている。
元々、祖父は胸が悪かったので、煙草など吸って良い訳が無いのだそうだ。
沙菜にその姿を見つかった祖父は、凄くバツが悪そうな表情で、薄ら笑いを浮かべると
「沙菜、この事は、婆ちゃんには黙っててくれよ。……代わりに良いバイトの物件が来てるからさ」
と言って、沙菜を工場の奥へと連れて行った。
そこには、薄いグリーンメタリックの2ドアクーペが佇んでいた。
「インプレッサ・リトナかぁ……」
沙菜は、ボソッと言うと、おもむろにボンネットに手を触れて
「はじめるよ……」
と言った。
インプレッサ・リトナ。
1992年に登場し、現在5代目を迎えるスバルのグローバル戦略モデルの初代の一時期に存在した2ドアクーペの事だ。
初代から3代目までは、世界ラリー選手権出場を目的としたスポーツモデル『WRX』が注目され、ラリーに勝つ目的で毎年エボリューションモデルが発売されるため、通常のグレードが陳腐化し、WRXにマニアが群がるだけの車となったが、4代目で切り離すことに成功して、通常モデルに日の当たるまともな歴史が構築されるようになって現在に至る。
本題のリトナが登場した背景には、1993年に三菱が発売したミラージュ・アスティの存在がある。
元々アメリカ輸出用だった2ドアセダンに近いクーペに、ベーシックなエンジンを積んで安く売るという手法を持ち込んで『日本ではスポーティでない2ドア車は売れない』という不文律を破壊したアスティにはフォロワーが出てきた。
アスティ以前より日本にあったトヨタのサイノスに加え、日産のルキノが発売され、100万円前後の低価格クーペににわかに注目が集まった折、登場したのがインプレッサ・リトナだった。
アスティに続く商品の正体は、アメリカ輸出用として既にある物を使い、リトナも、輸出用を国内用に仕立て直せばいいために、アスティ登場から1年少々で発売に漕ぎつけた。
この手の低価格クーペが売れている市場を後発であるスバルは研究し、ターゲットを女性に据えて、シートリフターや、セダンやワゴンと違った明るめのボディカラーを設定し、ファッション誌を中心に広告を打つなどした。
グレード構成も、2WDか4WD、MTかATだけのシンプルにして、スポーツエンジンを排除して売り出したリトナだが、MTに比べてATが30万円も高い設定などが裏目に出て販売は低調なまま1年8ヶ月でフェードアウトしてしまった悲劇の車である。
そして、沙菜の中に今までの映像が、次から次に浮かんでくる。
オーナーは、当時50代の男性。
山深い地域に住んでいるため、4WD車が絶対条件。夫婦しかいないためドアは2枚しか必要ないが、年数回人を乗せるため後部席がある車、そして勾配がきついため軽自動車は避けて……という条件で、日産パルサー3ドア、ミラノX1-E・4WDから乗り換える。
車は、夫婦の日常を映し出していく。
行き先のメインは、麓にあるショッピングセンターへの週1回の買い物だったが、徐々に妻の病院という行き先も増えていく。
しかし、その生活に激震が走る。
台風で、山の上にある集落へと向かっていたライフラインが破壊され、電気がストップし、道路も崩落してしまう。
それとほぼ時を同じくして、水を引いていた、山頂の湧水が止まってしまったのだ。
この家を含めた3軒は、ここでの生活を諦めて、麓への移住を決意、手で持って行ける物だけを持って、住み慣れた家を離れ、歩いて山を下りて行ってしまう。
リトナも、それと同時に眠りに入ってしまう。
次に画像が出てくるのは2年後。
崩落していた道が開通したため、家や畑の整備、それに引っ越し先への荷物を取りにやって来るようになったのだ。
あの時は、体の具合の悪かった妻も、すっかり元気になり、以後は週一で夫婦で畑を耕しに来たり、家の手入れをしに来るようにはなったのだが、麓に持って行けなかったリトナに代わり、スカイライン2ドアGT-FOURに乗ってきており、もう、リトナが以前のように夫婦の足を務める事は無くなっていた。
以後は、毎週畑にやって来る夫婦を眺めるリトナ……という日々が十数年続いたところで、大きな変化が起こった。
夫婦の甥が、東京から移住すると言い出したのだ。
東京で、仕事が上手くいかなくなり、このところの古民家ブームに乗って、叔父夫婦が使っていない実家の家屋があると知ってやって来たのだった。
麓の街へと仮住まいしながら、週末ごとにやって来ては、建物に手を入れていく甥。
夫婦が来なくなった代わりに、その様子を眺めるのがリトナの恒例行事となっていく。
それから8ヶ月して、また大きな出来事が起こった。
大騒ぎしていた甥が、ぱったりと来なくなったのだ。
叔父夫婦が元々住んでいて、その後も夫婦が手入れしていた家だから……と、簡単な手入れで快適に住めるようになるだろうと甘く考えていたが、そうはいかないという事が分かると、あっさりと投げ捨ててしまったのだ。
麓から少し上った県道沿いで、居抜き物件を使って古民家カフェをオープンさせる甥だが、元々、この土地に対する愛着も何もなく、流行りに乗って、お金を使わずにカッコ良く……という安易な手法に頼ったために長続きせずに、1年半で閉店し、甥は土地から姿を消してしまう。
以降は、再び叔父夫婦がやって来たが、数年のうちに家屋も畑も荒れ果ててしまい、再び手入れをするのは非常に骨が折れる事、叔父自身も病院に通っている事などから甥の親である兄夫婦と話し合い、家を取り壊すことになり、その際に壊された倉庫からリトナが出てきて、巡り巡って、ここにやって来た歴史がしっかりと。
そして、車から強い思いが出ている方向へと、沙菜は導かれるようにしてトランクを開けると、スペアタイヤのスペースからそれを取り出して、前へと回るとボンネットに手を触れ
「良き旅を……」
と言うと車葬を終えた。
◇◆◇◆◇
数日後に現れたのは、オーナーの兄である男性だ。
沙菜は最初に男性に、リトナから受け取ったものを渡した。
「これは……」
「あの車が強く残していた思いです。『これを守る』という事を強く思っていて、これを持ち主に返して欲しいという事を、託されました」
沙菜は、それを昔社会科の授業で見た事があった。雪深い地方で、わらじの上にこれをつける事で、雪に足が沈まずに歩ける道具……確か、名前を
「家に飾ってあったかんじきだ!」
そう、かんじきだ。
これが、スペアタイヤのホイールの中に隠すように入れてあったのだ。
そう伝えると、男性は、どこかへと電話をかけ、やがて通話を終えると
「弟に連絡したら、集落を脱出する日に、車のトランクに入れて『いつか帰って来るまで、しっかり守ってくれ!』と言って、出たそうです。もう片方は、今乗っているスカイラインのトランクに入ってるって……」
と言った。
そして、男性が語ったところによると、このかんじきは、先祖代々の物らしく、子供の頃から土間に飾ってあり、家の守り神のような存在だったそうだ。
集落を脱出した日、最小限の荷物しか持って行けない弟は、片方を家に残し、いつか、帰って来るという誓いのために、リトナのトランクの中に入れたのだそうだ。
「これは、家に持って帰ります。弟が良いと言うなら、私が持っておきたいです」
聞くと、当該の家は既にまっさらに戻り、事態をややこしくした、彼の次男は、その後、一度東京に戻ったものの、以後音信不通だそうだ。
しかし、彼は言った。
「家は無くなりましたが、家を守ろうと、これを残してくれた弟の思いが嬉しかったです」
今後、リトナが守っていた実家のある土地をどうしていくか、これから、長男夫婦と、弟を訪ねて話し合おうという。
形としての実家は無くなってしまったが、そこに暮らす人たちの絆が、長い時間を経ても消えずに残り、より強固に結ばれていた事が認識し合えた今回の出来事、その鍵を守り続けていたリトナの役目はようやく終わり、彼の車生も終わりを迎えたのだった。
沙菜は、伸びをしながら事務所の外へと出ると、煙草の煙が鼻腔に入ってきた。
真藤家をややこしくさせている元凶が、またアクションを起こしてきたようだ……。
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