第4話 ファイト!-4

 張り出された掲示を見上げながら美亜はしばらくその場を動けなかった。騒がしい本館の中央通路の掲示板の前で美亜はじっとその文字を辿った。

『奨学生選抜試験の告知』

「奨学生……」

美亜はそう呟きながら考えた。この学校では、毎年奨学生の募集を行い、授業料免除の特典を与えていた。

ただし人数は少ない。いま掲示板を見てその制度を思い出した。

 もし奨学生になれれば授業料が免除になる。そうすれば、母の負担も少しは楽になる。

 しかし、美亜はG組だった。成績順にクラス分けされる三年生の一番下のクラスだった。美亜自身勉強が嫌いなわけではなかった。小学校の頃はクラスでもいいほうで、先生の方から緑ヶ丘学園の受験を薦められたくらいだった。いまは、父のせいもあるだろうが、もう勉強をする気はさらさらなかった。ただ、どうにかしてお金を稼ぎたいとだけ思っていた。いまのアルバイト以外に何か仕事ができないかといつも考えていた。中卒で就職も考えた。しかし、どれも現実味がなく、家に帰って母の姿を見るたびに正気に戻らされるのだった。いま目の前に掲げられている言葉にも実感は沸かなかったが、自分にできる可能性のひとつであることなのは確かだった。

 じっと見つめているうちに、美亜はようやく、辛うじていまの自分にできる母への孝行だと、結論を下すことができた。そして気合を入れて職員室に向かった。


                 *


 暖かな陽射しを避けながら教科書を開いていると、目の前を蝶が横切った。ふ、と顔を上げて見ると黄色い蝶だった。あ、珍しい、と思いながら、昔白い蝶を追っていた頃を思い出した。近所のアッちゃんと一緒に帰り道に見つけた蝶を追いかけ、野菊にとまった蝶を、そっと、両手で捕まえた記憶が広がった。黄色い蝶はひらひらと屋上を飛び回り、やがて金網を越えて去って行った。記憶をかき消すように目をぐっと瞑り、そして開くと、また教科書に目を向けた。

 放課後を告げるチャイムが鳴って、校内全体が急に騒がしくなってきた。美亜はじっと教科書を見入っていた。やがて、何人かの生徒が屋上に現れて、うずくまっている美亜を避けるように集まって、話を始めた。美亜は一瞥をくれただけで、また教科書を覗き込んだ。

 次第に人が増えて騒がしくなった屋上を後にして、美亜は教室に戻った。教室にはまだ何人かの生徒がいたが、美亜は彼らに関心を向けず、荷物を取って教室を出た。その時、背後から美亜を呼ぶ声が聞こえた。

「おい、ミアン」

ゆっくりと振り返ってみると、田代が、おそるおそるという様子で美亜を追って教室の扉の影から半身を出して呼んでいた。

「なんだ、ワタルか。どうしたの?」

田代は周りを気にしながらゆっくりと近づいてきた。

「どうしたの、って、さっきの音楽の時間、どこ行ってたんだ?先生、心配してたぞ」

「あぁ。ちょっとね」

「保健室か?」

「…まぁ、そういうことにしといてよ」

「そういうことって…」

「まぁまぁ、気にしない」

「だけど、昨日の美術もいなかったじゃないか」

「まぁね。ちょっと」

「……サボリか?」

睨むように発された田代の台詞に美亜は一瞬言葉を噤んだが、

「まあね。ありがとね、気にしてくれて。でも、いいよ、ワタルが気にしなくても」

と言いながらにっこり笑った。すると田代は急に照れたように顔を赤くした。

「そんなじゃねえけど…、サボリなんてするやつじゃなかったじゃないか。それに、おまえ、このクラスになってから、あんまり誰とも話してないんじゃないのか」

「そう…そうかもね。ま、ワタルくらいだよね、仲良くしてくれるの」

「ばか、オレは一年のときおんなじクラスだったからじゃねえか」

「あの頃はよかったね…。あたいたちも若かった」

「ふざけてんじゃないよ。人が心配してるのに」

「ありがとありがと。ちょっと、いま忙しくって。今日も」声を小さくして続けた。「新聞配達があるんだ」

田代はちょっと驚いたような顔で美亜を見つめた。

「そんなことまで、やってんのか?」

「こないだ、言っただろ。父親が失業中だからね。ちょっとは母さんの役に立てばって考えて」

「そうか……大変なんだな」

「ま、そのうち、なるようになるよ」

「…それならいいけど」

「じゃ、また明日」

 あっけらかんとそう言い手を振って去って行く美亜に戸惑いながらも、田代は小さく手を振り返した。


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