第63話

「お前の頭のなかではすでに料理が完成したことになってるのか、このロジカルポンコツ悪魔」

「ひだっ、ひゃい。なんで頬を……つねるー」

「俺と季美を期待させた罰だ。まったく……ほら、変わってやるからその包丁よこせ。分回したりすんなよ?」

「ひゃょんな危険なことしまふぇん」


 ぐにーっとつかんで伸ばしたその頬は伸びる伸びる。

 正月のやきもちのようにふわふわで、マシュマロみたいに弾力性がある。

 ぱっと手を離したら、ぱちんっと音がしてゴムのように伸縮しそうなのか面白かった。

 安全に柄を持ち、刃先を自分側に向けて寄越した牧那は、ひんひん、痛いーと涙目を手でこする。すると、そこには玉ねぎの汁がついていて、余計に目が赤く腫れあがるという寸法である。

 まったく間抜けな後輩である。


「ふえええっ、なんですかこの痛みは、先輩の呪いですか、牧那の普段の良い行いに対する悪魔の制裁ですか、先輩はやっぱり大悪魔なんですね!」


 とかのたまうから、包丁とまな板一式。

 刻まれた食材を横によけると、勝手知ったるなんとやら。

 上の戸棚をあけて顔をつけることのできるサイズのプラスチックのボウルを取り出すと、そこにぬるま湯を溜めて、目を洗うように指示をする。

 もちろん、その前に手を洗うことが大前提だが。


「何してんの? 牧那で遊ばないでね、それ私のだから」


 いつの間にかリビングルームに入ってきて、長椅子に腰かけた季美は呆れたように言った。

 それとは、もちろん牧那のことだ。

 上下をねずみ色のパーカーとスエットに着替えた季美は気だるそうにして、ソファーに横になると、テレビのスイッチを入れる。

 ニュースが流れていて、そこでは抱介たちの母校の模様がうんちゃらかんちゃらと取り沙汰されていた。


「意外に世間様に知れたんだな」

「……そりゃなるって。救急車はくるし、あとからパトカーもきたし」

「学校側は校内では問題がなかったの一点張り……トカゲのしっぽ切り」


 じゃっぶじゃぶと目を洗っていた牧那が、気が済んだのか、新しいタオルを戸棚から取りだして顔を拭きながらそう言った。


「乃蒼はもう戻れないなあ。この街には」

「……」


 そう話題を振ってみる。

 数日前まで恋人同士だった季美は、嫌そうな顔をしてふんっと鼻息を荒くした。

 忌々しそうにテレビのチャンネルを変える。

 新しい番組は、お笑い芸人たちが芸を披露しているところだった。


「汚いって思う?」

「いや、別に」

「嫌いってるでしょ」

「そんなことはないよ。思っていたら、ここにはいない」


 不甲斐ない牧那から家事をする権利を全権委任された抱介は、ポットにかかっていたお湯を使って牧那からアンコールがでたココアを、季美には温かいコーヒーを入れてやる。インスタントで、食前に口にするにはちょっと問題のような気もしたが、忘れた。

 牧那は「うわあ、ありがとうございます、先輩」と全身で仔犬のようにして喜びを表してキスをしようとしてくる。

 そこに刃先を向けて威嚇すると、「信じられんわーガチで、ありえんわー、人の家なんやと思っちょるん」などと、どこの方言ともつかない言葉で苦情を申し立ててきた。


「あいにくながら、俺のキスをする、受け付ける権利はいまのところ、閉鎖中だ。あっちで姉ちゃんと黙って待ってろ」

「ふあああい」


 ……とまあ、漫才のようにして牧那をキッチンから追い出す。

 肉は豚肉が用意されていた。

 野菜類は例によって例のごとく、がしごしと不器用な形に削られてそこかしこに転がっている。それらを食べやすいように整形し直しつつ、キャベツや根菜類を上手く利用して、サラダを用意する。買ってきた蒸し鶏の類はここにほぐされて具材と消えた。

 ご飯はこれまた最近のコマーシャルでやっていた、数万円するという炊飯器のなかにでちゃんと炊かれていた。

 一杯、何千円になるんだ、このご飯? と金持ちブームをかましてくる槍塚家に、風見家の経済的敗北を悟りながら、一時間もしないうちにカレーが温まる。

 無言の氷の美女と、陰悪な雰囲気を醸し出すダーク駄犬が互いに抱介を賭けて、姉妹でしか通用しない心理戦をこなしている横で、槍塚家の夕食は一時間遅れでスタートした。


「ふぉごい! これ美味しいです、とっても美味しいですよ、先輩」


 と、目をきらきら輝かせてべた誉めの牧那。

 かと思いきや、季美は冷淡だ。


「もっと冷ましてくれたら食べやすいのに。愛がない」

「そこ、自分でできるだろ……」


 冷淡というよりも、飯島と別れた後からというもの、季美の思考の中心にはいかにして自分を大事にしてくれているかを測るために、抱介にわがままを言いたい。

 そんな思考パターンしか稼働していないように見受けられる。

 その一方で牧那は天衣無縫。

 自分の思った通り、感じたまま、見たままにそれを受け入れて、好きなように振る舞っていた。

 片方は我がままの極致だし、片方は全身全霊で相手に接することが礼儀だと信じて疑わないから始末に悪い。


「いいから、その口を閉じろ。食べてからものを言え。感謝は受け止める」


 と、伝えたら牧那のほうがとりあえず黙ってくれた。

 それでもサラダにカレーに、これは単にパック容器から注いだオレンジジュースにまで美味しい、美味しいと舌鼓を打つから、もしかしたら過剰な演出なのかもしれない。

 あの飯島と別れたあとに送付されてきたメッセージの謎の文面も心のどこかに引っ掛かりを覚えさせる。


「こっちは俺のと交換してやるから、な?」


 季美のほうは、一番最後によそうことになっていた、抱介のすこしばかり冷めたご飯と、別皿に移しておいて、粗熱をとったカレーと一体化させることで解決を図る。

 戻ってきてからずっと不満そうな色が浮かんでいた季美の瞳が、ようやく温和なものになったのを見て、抱介はやれやれ、と肩の荷を下ろした。

 季美と交換したカレーは甘口と辛口のルーを適度に混ぜ合わせたものだったが、悪くない味に思えた。

 槍塚姉妹の口にそれがどうだったのかは、本当のところ分からない。

 美味しく完食してくれた牧那。

 ちびちびと口に運んでは時間をかけて食べ終えた季美。

 そこには家庭における姉妹の顔があった。

 外では、決して見ることのできない、槍塚姉妹の貴重な一幕。

 そこに違いがあるとすれば、異分子として抱介があがりこんでいること、それくらいだ。

 これまでの異分子は乃蒼で、彼は決して槍塚家に好まれて上がりこんでいたとは思えなかった。

 あんな暴力性のある男だ。

 少年とはいえ、同年代の少女二人では、相手をするには手に余る。

 大人の男性がいて、ようやく追い出せるか、家の敷居を跨がせないようにすることができるくらいの難易度で。

 それを季美と牧那にやれというのは、常時、父親が在宅でないことを鑑みても、無茶というものだった。

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