第62話

 電車を最後に降りたのが十九時をちょっと回った頃。


 あたりはすっかり夕闇に包まれていた。春の朝はまだまだ遅く、それに比例して夜もまた、夕陽が西の空に誰かがしつらえた階段を駆け足で降りていく。高校とは違う駅の改札口を出たら、見覚えのあるマンションがどどんっと鎮座していた。


 駅前の一等地。真っ白で豪奢な白亜の宮殿のようにそびえ立つそれは、まさしくこの地方における上流階級の住む城に相応しい佇まいだった。ぼんやりとそれを見上げていた抱介に、季美は「どうしたの」と声を掛ける。


 あーいや、なんでもないと返事をして、マンションの一階に入っているテナントの一つ。青い看板のコンビニに足を運んだ。


 牧那からいくつか買い物を頼まれていたからだ。


「えーと、なんだ? 卵、蒸した鳥足、三本? 蒸した鳥足?」

「あれのことじゃない」


 と季美は店の奥の棚にある、常温保存のそこに抱介を誘う。そこにはカットされた野菜や、菜園から直送された野菜、パックに入った卵に茹でなくても食べられます、と表記されたサラダ。


 温めたら美味しいラーメンの具材になりそうな真空パックされた角煮なんかもあれば、納豆や豆腐といったものまで所狭しと陳列されている。季美の言う、「あれ」とはそこの一角をしめる加熱調理済みの真空パック食品群。その中でも、ローストされたチキン、サラダ味のチキン、胡椒で味付けられたチキンなど、調理済みのそれらが数種類並んでいる。


「これをどうしたんだ、あいつは」

「……サラダの具材にしては量が多い気もするけれど」

「今夜はカレーだって言ってなかったか」

「あの子、たまに特殊なもの作るから」


 と、そこまで聞いて思わず「それはお前もだろ」と突っ込みたくなったがやめた。季美の手料理は付き合っている時に何度か御馳走になったことがある。ただ、中にはポテトチップスを代用してサラダに混ぜたり、豚肉で巻いたゆで卵を焼いたものに、更にチーズを加えてとろけるチーズ巻とかなんとか。


 まるで居酒屋メニューのようなもの。それを悪いとは言わないけれど、夕食で食べるにはちょっとカロリー問題が過ぎるようなものを何度も出されたことがある。そんな過去を思い出し、母親の作る手料理というのは子供に味の大事さを伝えるのに最適なんだなあと、抱介はしみじみと感慨深いものを感じていた。


「ほら、さっさと持って」

「あ? 俺?」

「そう、季美は籠に入れる係。抱介は持つ係。合理的でしょ?」

「んー? うん」


 最後の財布の口を開く係は誰になるのだろうと、ひんやりとした常温冷蔵庫の空調に寒いものを感じつつ、あれとこれとと、季美はいくつかの食材を中に放り込んでいく。その中には茹でうどんなんかもあって、誰がどれだけ食べるんだろこれ? と思わず首を傾げた。


 多分、何日分かを用意しているのだろうと、勝手に推測する。目の前で彼女が不意にしゃがみ込み、お尻のあたりでジーンズの裾から青いショーツが見えたことに恥じらいを感じて視線を横に見やった。


 最初に牧那のあのキス攻撃を食らってからというもの、槍塚姉妹はどうにも……性に奔放というか無自覚すぎるというか、もう少し、同年男子の視線に気を配ってほしいものがある。自分の下半身が熱く固くなるのを感じた抱介は、他の客の視線に入らないように、買い物かごでそれを隠した。

 しかし、案の定、季美にばれていた。


「何やってんの」

「いや、お前っ。もうすこしさー」

「別にいいじゃん。見られるくらい。抱介がいるんだし」


 守ってくれるでしょう? と、暗に訊ねられて絶句する。それはもちろん、そうだ。その通りにする。しかし、その前段階というか。


「自分からそういうものを引き寄せない、巻き込まれないって意識も、な?」

「ふーん。それ、牧那に手を出した抱介が言うかなー」


 と、返されてしまったらぐうの音も出ない。ぐぬぬっ、お前が一番の原因だろうに。とのたまいたくなるが、我慢我慢。本日は夕食をごちそうになる。


 不穏な雰囲気を醸し出さずに、仲良く仲良く食卓を囲んで……明日から始まる実習室での新生活に、お互い、エンジンをかけるためのガソリンを供給して、今夜は早めに休まなくてはならない。


 友情か、愛情か。そのどちらともつかない思いで心のガソリンタンクを満タンにして、眠りにつかなければいけないのだ。


 無用な争いは、ご法度だった。


 マンションの高層階に行くエレベーターに乗ること一分ちょい。意外とのんびりとした速度で、それは目的の階に上がっていく。途中、中層階の家族連れが乗り込んできて、最上階に用があるのだろう。季美と抱介が目的地で降りたら、彼らは上まで上がっていった。


 半年ぶりに立つ、槍塚家の玄関口。どうにも歓迎されていないような雰囲気をその重厚感あるドアは醸し出している。両手に買い込んだコンビニ袋を下げている抱介は、それを開くことができない。季美が四列横に並んだ数字を六回押して、それから認証用のカードキーだろう。


 それをドアノブの上にある透明な部分に当てると、ぴーっと音が鳴り、ガチャンと電子ロックが解除される。


「鍵、あるんだ」

「当たり前じゃん」


 カードキーに電子ロックに、さらに季美はキーホルダーから玄関の鍵を取り出して、それを鍵穴に差し込み、ぐるりっと回してノブを回すとドアを開いた。


「物騒だから」

「乃蒼は……物騒じゃなかったのか」

「あれは――彼氏だったから。特別」


 特別、というところになんとなく後悔の二文字が含まれているような気がした。おじゃまします、と挨拶をして玄関から上がりこむ。靴は季美が整えてくれていた、まるで新妻のような流れる一周の早業に、抱介はへえ、と目を丸くする。季美は自室でなにか用があるらしい。


 先に行っていてと言われ、4LDKの豪邸を闊歩する。台所に続くフローリングの床材すら、合板ではないような気もしてきた。いや、わからんけど。


 リビングに続く扉を開けると、台所では牧那が、目からぼろぼろと涙をこぼしていた。ただでさえ、形よい杏型の瞳が、うるんでしまっている。憂いを帯びて、魅惑の味さえ覚えてしまいそうになる。実にけしからん、十五歳らしくない十五歳だった。


「なにやってんだよ」

「あー先輩ー、もう玉ねぎが酷くて。逆襲を受けておりますです」

「よくわからん日本語でしゃべるな。玉ねぎー?」


 と彼女の手元を覗きこむと、不格好に切りそろえられた玉ねぎが、よろしくとこちらにむかい挨拶する。どうやら料理を作ったではなく、これから作るから手伝え、という意味のようだ。とメッセージの中身を改めて理解した。

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