第61話

 駅までしばらく歩き、遠くにバイクがいくつも吠える音を聞きながら、やはり季美は握った手を離そうとしなかった。視線を足元にやったまま、彼女は言葉を並べる。

「怖いか?」

「……なんかゴメン。ちゃんと話すって言ったのに」

「いいじゃん。もう話はついたって先輩も言っていたし。乃蒼はもうこないだろう」


 そう訊くと、季美はもっと俯いてしまった。

 もう夕陽は完全に隠れてしまっていて、駅に続くその道の街灯がぽつ、ぽつと寂し気な光を灯し始める。

 なんとなく歩く速度を早めにして、大通りに面するところにくると、ようやく心の隙間に入り込んでいた何かが取れた気がした。

 人通りの多さに、心が落ち着きを取り戻したのかしれない。


「……俺ももう、怒ってない。これからどんな顔して過ごせばいいか分らんけど、嫌われたままは嫌だな」


 季美の方に足を向け、その肩を抱き寄せてやる。季美は顔を抱介の胸に預けるようにして、ごめん、と言った。


「嫌ってない。裏切ったの季美だから。また戻れるとも思ってない」

「それはまた始めればいいだろ、再開を、さ」


 いいの? と上目遣に彼女は見つめてきた。

 いいよ、と肩をぽんぽんっと叩いてやると、さらに強くその顔が押し付けられて、歩きづらいのも気にならず、二人は駅の改札をくぐった。

 戻りの車内で、ふと気づいたことが合って、もう少し話いいか、と季美を家まで送りすがら牧那のことを伝える。


「あの子! そんなこと言ったの?」


 とNTRの話に及んだら、ごめんなさいっ、と季美は姉らしく素直に頭を下げて謝罪する。


「そんな無茶する子じゃないのに‥‥‥」

「あの姉妹喧嘩を見て、そう言える奴が何人いるかな。俺はいないと思うぞ」

「あれは、その。牧那に抱介を‥‥‥嫌じゃん。まだ好きな人が妹に手を出しているとか悪夢でしょ?」

「それは違うぞ。俺は脅されたんだ」

「脅された?」


 いやまあ……そこは濁しておくことにする。しかし、NTRまで話したのに、そこを上手く割愛できるような弁術を、抱介は持たない。

 仕方ないので、ひっぱたかれること覚悟で告げたら、やっぱりひっぱたかれた。


「ひどいな、おい」

「妹に手を出すような男、しかも元彼とか。信じられない!」

「けど、まだ出してない」

「まだあ?」


 もう一発、と季美の手が上に伸びる。


「いや待て、違う」

「嘘つき!」


 季美は目の端に大粒の涙を貯め込み、一筋、また一筋とそれは頬を伝って落ちていく。彼女の不満も、妹の不満も、なにもかもが今ここで爆発しそうな気がした。

 そして、それを受け止めてもいいような気もまた、抱介にはしていた。


「私だけ好きだって言っていたじゃない!」

「古いなあ。はいはい、分かった。お前だけ好きだった。でもいまでも好きだ。牧那にはそんなのはない。これでいいか?」

「本当? 嘘つかない?」

「本当だよ。‥‥‥ごめん」


 掲げたまま、降ろすタイミングを掴めないその腕をそっと掴むと、自分の首に回すようにしてから、抱介は季美を抱き寄せた。

 今度は遠慮なんかどこにもなく、ただ、純粋なものでそうしていた。

 季美は肩に顔を埋めて泣いていた。どうやら、しばらく収まりそうもない。


「許したくない。なんか損した気分だもん」

「はいはい。お前が可愛いよ。牧那は生意気だ。姉妹揃って俺は振り回せされ、いまもこうして理不尽にしかられて。やれやれ、だよ」

「うるさいのー! 絶対に許さないんだから」


 花粉症になった大型犬のように鼻を濡らして泣いている気がする。

 抱介のブレザーに黑い染みが広がっていき、季美はそれに反して小さくはなったもののまだ泣き続けていた。


「俺は許していいの?」

「はあ? それは当たり前じゃない。男は許してなんぼでしょう」


 何て都合のいい抗弁だ。女は強い。まったく勝てない種族である。

 ところで抱介にも言い分があった。


「俺なあ」

「何? ここまで言わせておいてまだ言わない気?」

「言わないよ。だって、季美も好きだが。牧那もいいからな。どっちもいい」

「変態!」


 手が持ち上がろうとするから、必死に押しとどめて。

 そしたら、頭突きがお見舞いされた。さすが、元ヤンキー。いい一撃に、鼻の奥がキーンっと鳴る。鉄の匂いがして、もう何もかも捨てたくなりそうになった。


「写真があるだろうが! 俺もお前も、まだまだ牧那のおもちゃみたいなもんだ。違うか?」

「……でも。好きだって。どっちもいいって」

「友人するにはどっちもいいだろうと思うぞ。自習は一人じゃ本当に、心の病気になりそうだ。俺としてはこの場の勢いで告白と化してもいいけれど、なんか違う気がする。お前は?」

「二度と裏切らないって言った!」

「……じゃあ、このまま俺に身体預けられるのか?」

「それは」

「俺は恋をしたとか、愛があるとか。関係したいとか、そんなよりもっと前の話をしている」

「むう‥‥‥いま付き合うとか、前彼を私がたぶらかしたみたいでなんか嫌だ」

「それは事実と違うけれど、牧那のいいようにされた感は否めないぞ」

「あの子ったら」

「お前もあいつ抜きだとまともに生きられていない気がする。姉妹揃ってぽんこつだわ」

「抱介のくせにーむかつくー‥‥‥なんでそんなことわかるのよ」


 季美はぶんむくれて、黙ってしまった。

 さっさとその場を歩きだし、背中を向けて速度を上げる。

 もう抱介なんか知らない。そんな感じだ。

 自分と俺のことになるとあれほどぽんこつになるのに、妹が絡んでくるとこうもお姉ちゃんとして頑張れるものか。


 お姉ちゃんも妹も互いに大変だよなあ、この姉妹。


「おい、待てよ。お前のことだから、よく分かるんだよ」

「どういう意味?」

 くるりと向き直った顔には、まだうっすらと涙の痕。姉の側面もそこにはあった。

「別れたあの日からずっと考えて怒っていたからな。お互い様だろ」

「……抱介。ごめん‥‥‥それは、まじ、ごめん」

「いいよ。だから分かるってことだよ。あと、まだ再開したばかりだろ。あの終わった瞬間からさ。違うか」

「違わないけど。でも牧那のことはあのときは関係なかった」


 季美はまた歩きだす。

 抱介は慌ててその後を追いかけた。


「やり直すとは、俺は一言もいってないぞ」


 季美はピタリと足を止めた。

 聞きたくないことを言われたという、そんな顔をする。唖然として、言葉が言葉になっていない。


「うっ‥‥‥あ、けど」と呻いていた。

「あの子が‥‥‥好き、なの?」

「いいや、別に。でも」

「でも?」

「お前ら姉妹揃って放置できんよなあーとは思っている」

「何? その贅沢?」


 つん、として唇を尖らせ、しかし、拒絶はなく。

 口もとを膨らませながら、季美は半目でじっとりと抱介に疑いをかけ始めていた。


「もしかして、もう妹と――」


 やった? そんな真似をする。いや、それはないと抱介は首を振った。

 季美はどこか安心したような顔をして、それから言った。


「……手を出したら許さないから。私の牧那だから。抱介にも譲ってやらない」

「結局、仲良し姉妹の確執に、うまく使われただけの感じが否めないわー、まじで」

「しーらない」


 気づいたらスマホに牧那からメッセージが届いていた。料理を作ったから槍塚家に寄れという文面だった。

 そこには、『NTRするまで終わりませんよ、先輩』と意味不明な一文もあって、それを見た二人は顔を見合わせて笑ったのだった。


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