第60話
「木崎商会……と」
春の夕焼け空はどこまでも朱色に近い鈍色に染まっていた。
赤いオレンジの塊が、道向こうにある山裾をごうごうと燃やすような勢いで、その存在を示している。
見渡す限りにあるのは、車の死体ばかりだった。
サビと油と鉄の匂いが混じったそこにはセダン、ワンボックス、バスにバンプカー。一番多いのはやはり、軽自動車だろうか。
背丈の三倍はあるそれらのスクラップの山が、校庭ほどの広さの敷地内。
四方を見えないように安全の意味も含めて高い壁に囲まれたその左端に、抱介の目当ての建物はあった。
これから入ろうとするその建物に足を踏み入れようとしたら、不安げに後に続く季美が抱介の袖を引っ張った。
大丈夫だから、と彼女に言い聞かせるようにして、再度、看板を確認する。
敷地は長方形で、屑鉄の山。その裾の付近をダンプやショベル、専用の取っ手が着いたタワー型のクレーンがウオングオンっと唸って稼働している。
時刻は17時少し前。
この商会の定時がその辺りだから、もうそろそろ二階建ての建物の奥へと足を運んでもいいのかな、と当たりをつけて「こんにちはーお邪魔します―」と、手近にいた誰かに挨拶をする。
ヘルメットを被り作業していたその男性はまだ若く、抱介と同じか少しだけ年上に見えた。
油汚れにまみれながら、作業服の裾で目もとを拭くと「あん?」と頭の悪い返事を一つ返してくれる。
「すいません、飯島くん。隆くんの後輩です。いきなりすいません」
「あー……隆なら裏だわ。どうせ、また走りに行く準備だろ。そっちから回れ」
「あざっす」
学生服のままそう言い、頭を下げた抱介に、「おい」と彼はまた声をかけてきた。
「お前も今夜来るの? うち、女はだめだぞ。上が怒るからな」
「え、いえ。そうじゃなくて、ちょっと相談、だけです」
「ふうん。なら行けよ。作業の邪魔すんなよ?」
「はい」
と、今度は連れていた季美と二人で頭を下げた。
季美は私服で、抱介はそのまま出てきたので制服である。
汚れてもいい格好が良いかも、と伝えておいたら安物のジーンズにシューズ、上は薄い無地でオレンジ色。七分丈の長袖シャツの上から青い無地のシャツを着込んでいる。
それだけでも身長が平均より高く、スタイルがいい季美の容姿は、この世界の果てのような掃き溜めに咲いた一本の蔓のようにも見えた。
不安そうな季美は辺りを油断なく伺うようにして、ゆっくりと付いてくる。
後ろに手をつなぎ、抱介の後ろを忠犬のようにぴったりとひっついて離れようとしなかった。
「ここ、良く来るんだ?」
「危ない場所――でもあるけれどな、いや。表向きはまとも」
「なにその言い方」
「ある意味、悪い連中のたまり場兼職場というか」
「乃蒼ときたことある」
「あるんだ」
「うん……悪い噂は知っているけれど。犯されるとか、嫌だよ。さすがにそれはキツイ」
そんな危険な時に連れ回してなんかあったら、今度こそ、俺は親父に殺されるだろう。
頭のどこかでそんな死刑宣告が降ってきたような気がして、抱介はぶるっと肩を震わせた。
あの夜の拳は強烈で、いままで食らったやつのなかでも一番目か二番目に痛かった。
もちろん、そんなにたくさんの回数、父親から暴力を受けたという話ではない。
今から会う飯島とか、中学時代の同級生たちとか、人には言えないようなつながりのある先輩たちから受けたり、巻き込まれたりした結果の話だ。
「危ないから来るなって言ったら、来るって言いだして聞かないの、お前だろ?」
「だって、抱介が危ない目に遭うかもって考えたら嫌だから」
せっかくこうなれたのに、と季美は真っ黒に戻した髪をかきあげる。
ついでにヤンキースタイルから、清楚なギャルへと化粧を控え目にしたその顔で、悲しげに言われたら立つ瀬がない。
こうなったらという一言にも、特に具体性がない。
まだまだ、付き合うとかそんな詳しい話までするだけの余裕が、お互いになかった。
不機嫌な季美の手を引きながら、裏手と言われた建物裏の倉庫へと向かう。
すると、そこは壁が取り払われていて、空き地が一つと倉庫と店用のプレハブがある。
空き地には妙に安い価格で、車高を落としたスポーツカーや外国産の型落ちした、妖しげな中古車がずらっと並んでいた。
ちなみに時間帯もあるのだろうけれど、それらを見ている客は一人もいない。
「相変わらず殺風景ね。前と変わらないのって変な感じ」
「……なんだそりゃ」
不良、ヤンキー。ともに好きな物は共通するのだろう。
今度、俺と来ないかと訊いてみようか。多分、季美は「うん、いいよ」と言うだろう。嫌でも「いいよ」と言うだろう。
「気分悪くした?」
「してない。気にしてないから」
「そういう優しいところ、好きだよ」
「あー……うん」
なんとなく騙された感がしないでもないが、いまは気にしないことにする。
それをいまの季美に言わせるのは卑怯というものだ。
最近の雨でぬかるんだ足元に気を付けろ、と一言告げて、抱介は季美の手をぎゅっと握りしめた。
「あ、隆」
と、季美と抱介に因縁のある彼――今年の春に高校を卒業した飯島隆青年が、倉庫の入り口にいてせわしげに店頭に並べていたバイクを、倉庫の中に仕舞い込んでいるところだった。
「え? なんだお前ら」
「せ、先輩」
「俺、仕事中なんだけどな……」
作業服に安全靴、軍手という出で立ちで、飯島はそう言うと困ったように事務所の方を振り向いた。
「あっちに休憩所あるから、ジュースでも飲んで待ってろ」
「あ、はい」
「もうしばらくしたら行けるから。抱介、こっちこい」
作業着から小銭を取り出すと、季美に見えないようにして、飯島は小銭を握らせてくれた。
「なんで来たんだよ。こんな仕事終わりの時間に。連絡すればよかっただろうが」
「すいません、街中はちょっと……いろいろとあって」
「なんだそりゃ」
飯島は妙な顔になり、肩をすくめると作業に戻っていった。
「あっちで待ってようぜ」
「あー……うん。もう少し見ていたい、かも」
「向こうで見られるだろ」
「そうだけど」
と、季美はどこか物足りなさげに二度ほど飯島の働く後ろ姿を見送ってから、言われた場所で飯島に渡された金でジュースを互いに購入し、簡易的な長椅子に座ってまだ温かい缶で冷えた指先を温めていた。
抱介はコーヒー、季美は紅茶を買っていて、この辺りは好みの別れそうなところだ。
俺はこの温かい缶コーヒーで、先輩はもっと彩り豊かな……社会人か?
勝てないのかな、と改めて一年前を思い返す。
季美と最初に交わったあの日。
言い出せなかった謝罪を、ようやくできるのだ。
昼間に学校から抜け出し、季美の部屋を訪ねてから二人でよく話し合い、決めたことだった。
二人の時間は、あの夜から止まっている。
歯車の軋むような音を互いに聞いていて、それは多分、「運命」とか「人生」とかそういう見えないものの立てた音だと思った。
一度、道を間違えれば、なかなか元には戻れないという。それなら、まずは分かれた道を一つにしてみようかと結論が出て――いま、ここに二人はいた。
「抱介は隆がちゃんと話したら理解してくれるって思ってる?」
季美は手持ち無沙汰のようにジュースの蓋を開けず、手のひらの中でころころと転がしていた。牧那よりは小さいがその形の良い瞳はさっきから沈んだままだ。
虚ろな視線、曇ったままの顔つき、どんよりと背中の後ろには後悔の念すら見て取れる。
「俺も話すからさ。飯島先輩が女を殴るような人じゃないって――お前だってわかっているだろ」
「それはだって一年前のことだし。それにあっちだって季美のこと、二号にしていたし。何もここまですることなくない?」
「けれど、やんなきゃ季美の頭の中身が晴れないって自分で言っただろ……」
春の天気のように、ころころと気分が替わる女も、問題だ。
まだ牧那の方が――いやいいや、いまそれを考えるのはやめよう。
ややこしくなる。
しばらく待つこと三十分近く。抱介は季美とどう謝ろうか、とあれでもないこれでもないとぶつくさ相談しながら、飯島を待っていた。
「おうよ、お待たせ。んで、なんだ。用件って」
タイムカードを押しロッカールームから出てきた彼は私服に着替えていた。
刈り込んだ茶髪を整髪料で後ろに流し、長身に黒い革ジャン、その内側には白いシャツ、ジーンズは藍色。ブーツは黒。なんとも髪型からしてもそれなりにやんちゃな外観をしている。
言葉を間違ったらやって来るのは拳だな、そう覚悟して抱介から話を切り出した。
「一年前の……その、すいません。先輩と季美が付き合っていた――」
「はあ?」
季美に元気か? と頭に手をやり懐かし気に話しかけている横でそう言うと、飯島は面白くなさそうな顔をする。
しかし、不機嫌ではなさそうだった。
自分も備え付けの自動販売機でジュースを購入すると、それの蓋を開けて「一年前なあ」とぼんやりしたように口にする。
「もう、終わった話だろ。俺もあれだ。あんときは」
「奈津子さん、いたよね。隆には」
「……名前出すなよ、向こうに悪いだろ」
ごめんごめん、と季美は悪びれずにそう言った。
飯島は首筋に手を回すと、顔をしかめてそこを撫でる。どうにもやり場に困った風情といった感じだった。
「……互いに二番手だったしな。俺は、お前が抱介が良いって言うから、別れた。まだ何かあるのか? あ……まさか」
ドキリ、と抱介の心が鳴る。
乃蒼の件が顔を見せると態度を改めたら違った。
「俺の、子供。できた、か。まさか……」
「はあ? そんなことないよ、ないない。全然、ない。ないからそれは心配しないで!」
「あーそうだよなあ。いや、それなったらどうしようかとひやっとしたわ、まじで」
「隆くん、相変わらず早合点しやすいよねー」
やれやれと季美は言い、飯島はそれに照れたように鼻を鳴らす。
そこには抱介の知らない二人だけの世界があり、立ち入れないその場所から自分は弾かれた存在のように、抱介には感じられた。
来るべき必要はなかったか。
結果として思ったことはそれ。
相手も怒ってないし、季美もこれですっきりしたようだし。
問題は俺がこれからどうするか、どうしたいか。
拒絶するって態度で接してきた学校という世界を相手に対する態度を変えることで、世界を変えられるはずだから。
「……で、結局。なんだったんだ? お前ら、正式に付き合うことに舌って報告か? それとも、乃蒼の問題か?」
「え、なんでそれ」
「それもあります」
二者二様の返事が口を出た。
ここは市内でも有数の悪い学生がたまる場所で、そのグループに影響され仲間になりたいとやってくる奴も多い。乃蒼は後者に属していて、まともな悪人にもなれない、そんな奴だった。かといって、飯島が犯罪者かと言えば、そういう訳でもないのだけれども。
「乃蒼の件は俺の耳にも入ってる――けど、俺が口出しするのは分かるよな? 筋違い、まあ……季美がそう願うならそれは別だけどな。お前からのお願いじゃ無理だ、抱介」
「はい、それは分かっています……俺は、季美と関係したことを謝罪したくて」
「お前なあ」と飯島は呆れたように言った。「二番目の女に手を出されたって、こっちも浮気前提に相手なんだから。まともに怒るやつがおかしいって、それ」
「そういう……もんで、すかね。すいません」
「お前って変わらず硬いよなあ、頭。喧嘩は弱いくせに」
「すいません」
「お前、雑魚いから――俺たちが心配になって教えたあれ、役に立っただろ?」
「そんなとこまで聞こえているんだ、噂ってすごいー。季美はその場所にいなかったのに。隆くん、季美より詳しくない?」
なんだかずるい、と季美が口を尖らせてそう言う。
飯島は「情報も大事な世の中だからな」と知ったふうな顔で眠たそうにあくびをした。
「じゃあ、まだお前らは付き合ってない、か。あんな騒ぎまで起こしておいて、何もしませんってのも……抱介?」
それは男らしくないぞ、と飯島は呆れたように言い、椅子から立ち上がると後輩を見下ろした。
「俺はこれから仲間と走りに行くからな。お前らは先に帰れ。もうしばらくしたら、ろくでもない奴らが集まる時間だ。意味、分かるよな?」
夜が更ければ、闇の世界が動き出す。
そこには抱介と季美の生きる場所はない。
忍び寄ってくる闇に呑み込まれないようにな、とでも言うかのように飯島は二人をさっさと倉庫から追い出してしまった。
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