第64話

 口のなかが辛いから、何か別の甘味をくださいと言い出したのは、もちろん、牧那の方だ。


「冷凍庫にバニラアイスのカップがありますよー」


 と言われて一日執事と化した少年は、はいはいとそちらに向かう。

 深緑色のシックな色合いに塗られたドアを開けてみると、そこには十数人に提供してもまだ有り余るような、真っ白い業務用のアイスクリームがどでんっと鎮座していた。


「くっ……金持ちめ」


 なんとなくそんなことを呟きつつ、中に入っていたアイスをすくうための大きくて頑丈なスプーンで、それをすくっていると数分が過ぎた。

 三人分用意したら、「あーあもう、おっそいの」とか、「待ちくたびれました」とか散々な返事を頂いてしまい、もう帰宅しようかと思ってしまった。


「帰るわ……」


 とぼそりと呟くと、しかし、牧那が左腕を、季美が右腕をがっしと受け止めて離さない。

 いや、しがみつくというか……まるで夏場に涼をとりに来るような飼い猫の仕草にも見えて、それはそれで愛くるしい。


「暑苦しいから離せ……居るから」


 と伝えると季美が先に開放してくれた。

 胸の厚みはやはり牧那に軍配が……いや、違うそこじゃない。

 思えばスウェットで胸を隠している姉に対して、妹は真夏のような肩丸出しの紫色したタンクトップに、ウール素材の短パンだけで、その下にブラもつけていないことは感触で明らかだった。


 姉のほうもそのまんま、ブラの感触はない。

 ということは下手をすれば、今夜は姉妹の餌食にされないとも限らない。

 世にいる健全な男子高校生ならそれを喜んで受け入れるだろう。


 しかし、彼女たちの特殊性には一定の定評があるというか……巻き込まれたら最後、人生の終わりまで隣に立って歩くはめになりそうな今日この頃。

 そこで覚悟を決められたらまだいいものの、数日前の父親の一撃が再度、脳裏に衝撃として再現される。


 一人の女性の人生を背負って生きるということは、とても大変でとても……そう、とても素晴らしいものだ。

 そう父親は言っていた。


 だから、お互いに人生の選択をきちんとできるようになるまで、自分で生きていけるようになるまで。それを我慢して、お互いに理解を深め合うことも、また恋愛の醍醐味なのだ、と。

 そんなことを諭された気がする。


 あの夜から数日して、この状況はさすがにヤバい。

 今度は拳じゃなく、真面目に家から追い出される気がしてならない。

 ここは結論をまず出そう。

 抱介は深呼吸を一つすると、どっちを選ぶの? と不機嫌真っ只中の姉妹に向かい、言葉を告げた。


「……俺はいますぐつきあう気はない」

「ふうん」

「へえ……意外」


 前者が牧那。後者が季美。

 それぞれ、どっちかを選ぶものだと思っていたらしい。

 どこか毒気を抜かれたような顔をして互いに目を合わせていた。


「じゃあ、なに。どこかの第三の女がいると。そういうことなの、抱介には」

「いや、そうじゃなくて」

「なら、季美をNTRするって約束も完了していませんよね」

「だから、一番の問題児はお前な?」

「そうなると……他の女に行かれるくらいなら、ここであることないことばらまくってしたほうが、姉妹の為になる?」

「違いますけどー牧は問題児じゃ、ありませんー。そうだよ、それがいいよねーお姉ちゃん」


 と、槍塚姉妹は結託して見せた。

 さすが、血のつながった姉妹だ。その論理の飛躍に付いて行けず、抱介は唖然となる。

 どういう意味だ? 死ぬまで俺は解放されないのか?

「待て待て、俺にはそんな価値がない……」

「はあ? 何言ってるのよ、抱介。こんなにいい相手、どうして逃がす道理があるのよ」

「は? え?」

「心の声がだだ洩れでしたよ、先輩! 季美をちゃんと抱きしめて、季美の心から乃蒼を追い出して、それでNTR完了です」

「いやおい、まてふざけんな。それで勝手に完了されても困るんだよ。俺にだってちゃんと向き合う時間が欲しいだろが」

「往生際が悪いですねー、先輩のそういうところ、心が小さいっていうか、庶民って言うか、さもしいって言うか。もっとこう、どんっとした、大人の男になってくださいな」

「抱介だったら、季美はいいと思うんだよね」

「だから無茶ぶりし過ぎだって。おい、牧那! なにしてんだよ?」


 牧那が胸の柔らかさを意識させるような体位で絶妙なタッチをしてくる。

 そこから逃れようとしたら、季美はさあおいで、とばかりにがばっと両腕を広げて行く手を阻んでいた。


「でぃーふえーんす、でぃーふえーんす、でぃーふえーんす」

「やかましいわ、運動だけはできる運動部が!」

「でぃーふえーんす、でぃーふえーんす」


 お前、バスケ部じゃなくて陸上部だろうがという突っ込みでは通用しない。

 季美はパーカーを被っていた。

 そこには猫を模したと思われる、人工の猫耳がついていて、ぴょこぴょこと跳ねまわりヤサグレドラ猫とロジカルポンコツ駄犬の切磋琢磨が協奏曲を奏でる。


 姉妹による抱介包囲網はあっさりと完成して、その輪の中から逃げ出そうとするには時すでに遅し。

 牧那は後ろから体重をかけてくるし、季美はお尻を膝の上に載せて「だっこして、抱介―大好きー」とちゅっちゅっとキスをせがんでくる。


 あのアイスクリーム、まさか酒とか混じってないような? と心の中で二人の奇行ぶりに悲鳴を上げる抱介を助ける者は誰もいない。


「待てー待てー、季美はいいとして、なんで牧那まで……」

「だって言ったでしょう?」

「はああ?」


 意味不明だ。

 何を言ったというのだ。

 いや待て、それを答える前に、この痴女を――さっきから甘えムード全開で、足りない胸を押し付けてキスをせがむ元ヤンキー季美をどうにかしろ、と抱介は困惑した顔つきで牧那に要求する。


 すると彼女は豊満な胸を寄せ付けて姉と両手をがっしりと組み合い、全体重をかけて抱介を後ろに引き寄せた――どっしんとリビングの床に敷かれたカーペットに抱介は頭をしたたかに打ち付ける。


 目を瞑り、一瞬だけ昏くなった視界が元に戻ると、そこにあったのは二つの豊かな谷間だった。


「お姉ちゃんをNTRしてくれたら、うちが漏れなくプレゼント」

「いやだがしかし、それを季美は望んでいない」

「私……三人で、なら。いいかも」

「はああ?」


 誰かこの妄想ヤンキー女を食い止めろ。

 三人ってなんだ、三人って。

 重婚は犯罪だぞ、日本では――と、そこまで言いそうになって、にんまりと牧那が浮かべる怪しい笑みの正体を抱介は知る。


「せーんぱーい。ご存知でしょうか? 姉と結婚したら、義理の妹を娘に。養女にできるということを……」

「えっ。まじで? いや、さすがに嘘だろ、それ。どうすんだよ……親が……」

「許すわけないよね。うん、それは分かってる。だから、成人した後ならよくない?」

「いや、いいはずない。だろ?」


 真面目に言ってる?

 ねえ、季美さんに牧那さん。それ本気で言ってる?

 慌てふためく抱介の腹の上に季美が。

 膝上に彼の頭を乗せた牧那が、「ふふふっ」と悪魔のような半月の笑みを浮かべる。


 それはおどろおどろしい夏の夜に見える、赤い満月よりもどこか不気味で、どこか蠱惑的で、どこか抗えない魅力を醸し出していた。


「なんで、牧那がぷれぜんと……」

「そういう約束でしたから。いえいえ、そうしないといけないというか、そうなるべき運命というか、あのままだとそうされてしまっていたというか……」

「おーん? そうされてしまっていた?」


 なんとなく。

 その言葉の意味が予想できた気がした。

 姉妹のいきなりの歓待ぶりには戸惑いしかないが、しかし、それもそうかと考えたら、なんとなくは想像がつく。


「……おまえら、とりあえず降りろ。話はそれからしよう。ちゃんと向き合うから」


 と、冷静を務めつつ言ったら、二人は顔を見合わせて渋々と上から降りてくれた。

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