第46話
二日目。
水曜日。
一週間の半分をどうにか昇華することができるようだと思っていた抱介は、見せかけの勝利を手にしていた。
それからすぐに、敗北を得るとも知らずに。
その日の牧那は朝から静かだった。
いつもの図書室で、朝から二人きりの自主学習。
他に生徒はおらず、司書さんも今日は別のバイトの人で、書庫の整理に勤しみたいらしい。
カウンターで書類を出したら、さっさと印鑑を捺して奥に籠もってしまった。
二人で顔を見合わせる。
牧那は肩をすくめると、彼女が追いかけている例のシリーズ物の作品の続巻を探しに出かけた。
抱介はここ二日の間で、いつの間にか指定席となった窓側のテーブルに座り、教科書を開く。
もうすぐしたら来週から課題テストが始まる。
それでまともな成績を叩き出さないと、これから先の課題も多くなっていく。
ある程度以下の順位だと、自主学習は継続しつつ、次回のテストで良い成績を取れるように、各教科の担当教師たちから毎週の小テストが義務付けられるのだ。
ボーダーラインは学年全体の三分の二以上だと言われている。
抱介はここでの時間を大事にするために、自宅学習を欠かしたことはないが、それでも普通に授業を受けている生徒と比べたら分が悪いのは事実だ。
もっとも、そんな点数を取れるくらいなら、ここには来ないわけで……。
「あー憂鬱だ」
自主学習開始、三十分と少し。
内容がぼんやりとして理解できない物理の教科書を前にして、抱介は早くも音を上げていた。
「逃げたらだめですよ。苦手は克服しないと」
と、紙面に視線を落としながら牧那が諭すように言った。
まるで優等生の発言だ。
「お前はいいなあ。まだ一年で」
「頭いいですから」
嫌味も通じないらしい。
なら、やってみろ、と例題集をすっと前に押し出した。
意地悪だと分かっている。
二年の問題を一年生が解けるはずが――。
「できました」
……ない。
「嘘だろ?」
慌てて解答と照らし合わせると、あろうことかそれは正解だった。
「なんで……解ける? お前、天才か?」
「馬鹿な姉の面倒を見ていると、こうして勉強を教えることも多いのです」
まるで教師のようなセリフだ。
いや、塾の講師か。
「教えている? 昨日の昼間からしたら驚きの平日だ。秘密を暴露された気分だわ!」
「そうですかねー先輩、御兄弟は?」
「いない。一人っ子だよ」
「ああ、だからですか」
悟ったような言い方をされてどこか面白くない。
どういうことだと改めて開かれた彼女の小説の上に手を置くと、牧那は顔を上げた。
「子供みたいな真似しないでください。幼稚園児ですか?」
「だって、気になるだろ」
「気になる? 季美のことが、それとも牧のことが? 季美のことだとかなり不機嫌になりますね」
「どっちでもない、お前らの姉妹の関係性だよ」
ぷうっと牧那は頬を膨らませた。
そんな提供された地雷を踏む馬鹿はいないだろう、普通。
不満そうなその頬を、ちょいと摘んでやる。
「ふいーっ?」
それはふくよかで赤ん坊の頬のように柔らかく弾力性に富んだ素材だった。
「おー伸びるなー?」
「いひひいっ」
ぐるぐるぐるぐるっと回して引っ張り、横に上に左に右に……ここ二日間ほどでやられたことへのお返し宜しく、それを動かしてみた。
「あいいいいっ、痛いっ、痛いですってば! うちの頬で遊ばないでーっ……」
じんわりと目尻に涙が浮かんでいる。
「どうかなあ。これ、触り甲斐があるだろ」
「セクハラーっ!」
「いじってるだけだって」
「ふえええっ、いじめっ子がいる――っ!」
面白いから、小説を持つ彼女の両手の上に左手を置いて抵抗を無力化しつつ、ぎゅむっと思いっきり引っ張ってみた。
「あひいいっ!」
なんだか壊れたおもちゃのような声がする。
「最近、いろいろとやってくれたよなあ? どうお返ししようかと思ってさ」
「ひぐっ。しゃべ、話しますっ! お姉ちゃんとのこと話しますからぁーごめんなさいいっ」
ふむ
とりあえず謝罪が聞けたので良しとする。
ぴっと伸ばしていた頬から指先を放すと、パチンッと音がして戻っていった。
ゴムかなにかかな?
「うううううっ、いじめっ子がいるよおお……」
昨日まで俺をいじめていたのはお前ではなかったか?
その元いじめっこの目尻には、大粒の涙が浮かんでいた。
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