第45話

 世界史を担当する原先生がそのことに気づいたのは、授業を開始してしばらくたったころのことだった。

 普段、日常的に言われている教師と生徒の距離感について、彼はなるべくその間を縮めないように努力することに専念していた。


 授業をシステム的にこなせばそれは確実に終わっていくものだし、教科書と白板とその向こうに見える二十数の若者たちを、リモート教室のように画面の向こうにいるかのように扱えば、特段、取り立てて気を病むこともないからだ。


 しかし、この日。

 その事情は変わり、彼の平穏な日々は特定の生徒たちによる限度を越えた悪戯で、破られる。


 長方形に長い教室の最奥の列あたりで、何かがゴソゴソと蠢いていた。

 髪を金色に近い茶色に染めたその女子生徒は、衣替えの季節前だからとみんなが着ているブレザーを椅子の背にかけたまま、その脚を大きく開いてこちらに向かい腰を突き出していた。


 真っ白い透明な肌と肉付きの良いすらりと長い健康的な足は、どこか淫靡な香りを醸し出している。


 床の上に立てられた上履きのつま先からふくらはぎを通って膝先がくんっと折れ曲がり、露わになった太ももはたぷんっと適度な柔らかさをたたえていて、許されるものならそれにむしゃぶりつきたくなるくらい色気に満ち満ちている。

 弾きれんばかりの色欲と男を誘い込むような甘い蜜の香りが漂ってくるようだった。


 そして‥‥‥両足の付け根に宿る白い下着。


 その敏感な秘密の花園を隠す薄い一枚の布はうっすらと濡れていて、その向こうにある割れ目と丘をくっきりと描き出していた。


「……っ!」


 それを目にした瞬間。原は思わず目を疑った。


(先生、見ちゃヤダ)


 と、季美の口が無音のお願いを彼にしてみせる。

 安物のエロ動画でも見れないほどの光景が、目の前に広がっている。

 目を離したくても離せない、強制力がそこには存在した。


 彼女が自分からスカートを捲り上げ、両隣からも下手をすれば、前列の斜め前にいる生徒の視界の隅にそれは映り込むかもしれない危険性を孕んでいた。

 同時に、原の視線は下腹部から胸、胸から顔へと上がっていく。

 彼の異様な仕草に、それを目にした生徒たちも後ろに何があるのかと、ちらほら目をやるようになる。


「オホンっ!」


 この光景を生徒たちの目に触れさせてはいけないという教師の倫理観が、その咳を原に押し出させていた。

 いく人かの視線は後ろの彼女‥‥‥槍塚季美の痴態に届きそうだったが、もう一度そこに目をやると、彼女はさっとスカートで全てを覆い隠してしまっていた。


 一体何が起こったんだ?


 驚天動地の心境で原の視線は一度だけ、再度、季美と目を合わせる。

 すると彼女は、何かとんでもないことをしでかしたような、しかし、秘密を共有できて嬉しいような、彼女のまるで誰も知らないそれを見られてしまい恥じ入っているような。


 つまりは原にこのことを秘密にして欲しいと懇願するかのような、憂いを帯びたその目つきはまるで熟年の女性が演じるような、危険な不倫関係を迫るような物にも見えてしまい、腹は胃がひりつき、途端に全身が凍るような感覚に襲われる。

 彼らのやり取り、仕草をまるですべて見ていたかのような目で、こちらを見やる生徒が一人いたからだ。


 前田乃蒼。

 教師の間でも、悪い噂の絶えない、このクラスのボス的な存在。

 そして、槍塚季美の恋人としても、要注意生徒として教師の間では名前が挙がっていた。


 二十数年、これといって生徒との問題を起こすでもなく、静かに静かに教師生活を送ってきた小心者の原にとって、乃蒼に目撃されたことは己の弱みをまるで逃げられてしまったかのように錯覚させた。


 大丈夫だ。

 俺は何も見ていない。

 今この教室で、呆れるほどに頭がおかしいような行為をする女子生徒は存在しなかった。

 俺はただ静かにこの授業を終わらせればいい。


 授業が終わるまであと二十数分。

 原の持つ、白板に板書するための黒いマーカーは、心なしか左右に大きく震えていた。

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