第32話

 料理ができ、呼び出されるまでの間。いつのまに借りたのか、牧那はあの本を食堂に持ち込んでいた。そういえば、彼女の制服のポケットが何やら大きく膨らんでいたのを思い出す。


 小さな辞典ほどもあるその分厚い本は、たった数時間かそこいらで半分ほどまでに開かれていた。時間を忘れて読書にのめり込めるのはとても幸せなことだ。


 そのことを知っていたから、おばちゃんが牧那の側に置いてあった番号札の数字を読み上げたとき、自然とそれを手にして抱介はカウンターへと向かっていた。


 おばちゃんは二枚の番号札と料理の内容をそれぞれ確認してから、「トレーは一枚? 二枚に分ける?」と愛想よく聞いてくる。


「あ、一枚で、いいです」

「そう。じゃあ、これ。かつ丼、トッピングありごはん大盛りと、うどんの小、サラダ付きね」

「ありがとうございます」


 自分たちの注文した内容を脳内で復唱して間違いがないことを確認すると、トレイから汁がこぼれないように気をつけながら、座っていた卓を目指す。彼女はまだ物語の世界に夢中になっていて、視界の中に料理の器を認めたところで、はっとなり顔を上げた。


「……ごめんなさい」

「なんで謝る?」

「だって、それ、うちの仕事」

「はあ? 誰が持って行ったって同じだろう」


 そう言うと、文庫本にしおりを挟み、牧那はううん、と顔を小さく横に振る。その仕草は誰かさんにそっくりだった。


「お母さんから、こういうことは女性がやるのよって。そう……しつけられてるから」

「そうなんだ」


 あまり嬉しくなさそうに彼女はそう言った。相槌を打つと、また小さく頭が前後に揺れた。やはり嬉しくなさそうだ。


 男からしてみれば素晴らしい教えのように思えるけれど、女性からしてみれば、男女平等も当たり前なこの世の中。どうして自分たちがそんなことをやらなければいけないの、と不安に思うこともまあわからなくもない。


 とりあえず自分と彼女の器をそれぞれ目の前に移動する。お箸を俯いたままの彼女の前に置いた。かつ丼の容器には蓋が付いている。その上に、そっと置いてやると「ありがとうございます」と感謝の言葉を頂いた。


「俺は別に男が行っても女が行ってもいいと思う。それを強制するつもりはないよ」


 図書室のあれはちょっとだけ、お世辞を交えた。どうでもいいと思っていたら手伝ったりしないと答えた、あれだ。しかし今度のは紛れもない本心。


 お世辞なんて入る隙間もない、百パーセントの本音。男が先、女が後。それは随分昔に廃れてしまった、古き日本の伝統であり、悪い習慣でもあるような気がする。


 少なくとも今、この場所で活かされなければいけないものは何もない。社会人になったらまた違ってくるのだろうけれど、自分たちは高校生なのだ。


 そんなよくわからない規律に縛られる必要は何もないと思っていた。

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