第9話

 崩れゆく大きな春の夕陽に染まった教室で、人知れず二人はキスを交わした。

 オレンジと白の境界線が、風見抱介かざみほうすけの視界を染め上げていく。

 こっそりと交わされたその口づけは、彼にとっての初めてて。


「だめ、かな?」

「槍塚、これどういうことだよ……?」


 何がダメ? そんな声と、ためらいがちに俯くその横顔が斜め下から浮かび上がる。

 途端、抱介の視界は彼女でいっぱいになった。

 その輪郭があの太陽のようにぼやけてしまうくらい、二人の距離は近かった。


 これはなにかの間違いだ。

 いきなりキスを奪われた抱介の心がそう叫んだのは無理からぬことだった。


「こんなこと初めてかな?」


 槍塚季美やりつかきみはそう言って屈託のない笑顔をしてみせた。


 どことなく悪びれた顔。

 卵型のつるんとした綺麗な顔の形をしている。

 眠たそうな猫というよりは犬っぽい切れ長の瞳。

 そのまつげの長さは、本物という噂だけど本当だろうか?

 もしそうなら少し分けて欲しいものだ、と答えくらいしか取り柄のない抱介は思ってしまう。

 彼女は抱介広げた足の内側に、自分の太ももを侵入させてくる。


「ちょ、近いって」

「いいじゃーん。えいっ」


 限界ギリギリまで、抱きしめ合いたい。

 そんな困った感じに……抱介が逃げようとしたら、背中にあったのは壁だった。

 正確には廊下とは真反対の、乗りだしたらそこから地上向けてダイビングできるような、四階建ての校舎の三階にある教室に二人はいた。


「ほらほら、もう逃げ場がないよー?」

「やめてろってば、警察官に追われてる犯人じゃないんだから」

「それ面白い表現!」


 と、奇妙なところでツボに入って笑いだす彼女。

 抱介は仕方ないから彼女の腰をなるべく丁寧に扱うようにして、肩と腰にそれぞれ手のひらを添えて、接近を拒絶する。


 本当なら拒絶する理由なんてないのだけれど。

 同学年の男子たちに知られたら一発で袋叩きにされるような案件だなと、心のどこかで抱介はつぶやいていた。

 それくらい彼女は人気があるのだ。


「ちょっとおー、どうして押し返すのよ!」

「だってほら胸、とか……当たってるし。それはもうちょっと時間が経ってからするべきじゃないか」


 苦し紛れの正論。

 でも彼女はなんとなく不満そうにしながら、それを受け入れてくれた。


「ふーん。君がそういうなら仕方ないね」


 私はお姉さんだから。

 などと言いたそうな得意げな顔で、そう言って離れてくれた。

 少しだけ。


「年上の魅力的なお姉さんは、何も知らないような男子にいきなり迫ったりしねーよ」

「あー、それはあるかも!」


 彼女は抱介よりも頭一つ低い百六十センチあるかないか。

 平均的な身長をしていて、平均的な体型よりも自己主張の激しい体型をしていて、その顔はまあ。

 なんだろう、誰が見ても美しいと思えるぐらいには整っている。

 そんな存在だった。


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