第8話

 逃げ出したい何かが、こいつの中にはあるのかな?

 これから毎日のように付き合ってやるわけにはいかないけど、それでも一週間に一回程度なら、気分転換もいいかもしれない。

 ……美少女だし。


「ん? 私の顔に何かついてる?」


 少年の視線になんとなく気が付いて、季美はどこか得意気な笑みをしてみせる。

 視線をそらすのも癪だから、彼女の頭の動きに合わせて左右に揺れるポニーテールの先っぽに照準を合わせてやる。すると、「なんだこれか」とつまらなさそうにして美少女は数学の問題を解くほうに興味を移した。

 そんな彼女のことが気になりながらも、抱介は英語を翻訳する作業に没頭しようとするが、うまくできない。

 頭のどこかで数十分前にかけられたあの一言がリピートされてしまうからだ。


『ね、授業をサボらない?』


 サボった後に行く場所がここじゃなかったら?

 もし学校を抜け出して二人だけでどこか電車で行けたとしたら?

 その向かう先はいったいどれくらい遠くて、帰ってくるまでどれくらい時間がかかるんだろう?

 少年の健全な妄想は尽きるところを知らず、たまたま落としてしまった消しゴムを床の上から拾いあげようとしてしゃがみこむ。


 そのままふと顔をあげたら、キュッとすぼまった形のいい足首とミニスカートの中に吸い込まれていく健康的な太ももが目に入ってきて、何かわからない感情に心の中を焼かれた。

 バレないようにと自然な動作を心がけるも、上半身はまともに言うことを聞いてくれない。どうにか体を起き上がらせたら、抱介の視線が自分のどこを見ていたかなんてことは、きっちりと季美に伝わっていた。


「バーカ」

「なっ」


 バカはないだろ、馬鹿は。

 そう言い返そうとしたら、季美は抱介のノートを取り上げる。


(見たいなら言えば見せてあげるね)


 それから、そんな挑発的な一文を書いてよこした。


「でも私、そんなに軽くないから。中古品じゃ……ないから、ね?」


 どこか恥ずかしそうに俯きながら季美はそう言うと、ノートを抱介に押し付けて自分の問題へと戻ってしまう。

 中古品じゃないから。

 人間に新品も中古品もないだろう? そんなこと言ったら俺なんてまだ……恋愛はしたけど、恋人もいたけど、まだ……そのなんだ、あそこは新品だし。


 俺の馬鹿。悩まし気な感情を押し殺そうと頑張ったから、その後、二人で語ったことなんて、今となっては思い出せない。

 多分、どうでもいいことを言いながら昼休みになるまで図書室で過ごし、それぞれの新しくできた友人たちと食事をして昼からの授業を受けて学校を出て帰宅した。


 その夜、季美からかかってきた通話で、彼女の本心を抱介は聞いた。

 自分のことが気になってどうにかして連絡先を知りたくて、それで声をかけたとかかけなかったとか。

 サボるのが本命か俺が本命か、どっちが本当だよ。

 などと通話口で突っ込みを入れながら、抱介は会話に熱中していた。


 中学校時代の元カノのことなんて、この時の少年の頭の中からはきれいさっぱり忘れてしまっていた。

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