11月5日『秋灯』

 夜中、喉が渇いて目が覚めた。枕元の時計を見れば日付が変わる少し前。


 昼間、師匠と一緒に屋上から紙ひこうきを飛ばして遊んだけれど……。思ってもみない方向に飛ぶ紙ひこうきがおもしろくて、はしゃぎすぎたかも。疲れが残っていて体が重い。


 とりあえず水を飲もうとベッドから抜け出る。自室からキッチンへ向かうと、ランタンの灯りで読書をするラビン師匠がいた。

 師匠は寝間着姿の私にすぐ気が付いて、本に落としていた視線を上げた。


「ティア、どうしたの?怖い夢でもみたのかい?」

「私を何歳だと思ってるんですか。喉が渇いてお水を飲みに来ただけです」


 からかってくる師匠に小さく溜め息をついた。薄暗闇の中、食器棚からお気に入りのマグカップを取り出す。

 キッチンの蛇口をひねって水道水でマグカップを満たした。ダイニングテーブルで読書中だった師匠の真向かいに座り水を飲む。


 この国は水道もガスも電気も整備されている地域がほとんどだから便利だなぁと思う。料金はそれなりにかかるけれど。


「天井の電灯、けないんですか?そのランタンの灯りじゃ目が疲れるでしょうに」 

「いいのいいの。節約。それに、慣れているから」


 ラビン師匠は辞典のように分厚い本を広げていた。テーブルの隅には同じような厚さの本が五冊も積まれている。


「この本……、全部読むつもりですか?」

「うん。秋の夜は長いからね。調べ物もあるし」

「明日の朝、寝坊しますよ」

「大丈夫。僕はショートスリーパーだから。ティアは気にしないで寝てて」


 師匠はニコリと笑顔を見せてから、再び視線を本に戻し読書を再開した。そのページをチラリと盗み見たが、私には読めなかった。多分、古い魔導書なのだとは思うけれど。

 以前、頼まれて掃除した師匠の部屋の本棚を思い出した。古い言葉や外国語で書かれた本がたくさん並んでいた気がする。


 私は、今度は長い溜め息をついた。


「夜更かしもほどほどにしてくださいね。あなたが倒れたら困りますから」

「分かってるよ。おやすみ、ティア」

「おやすみなさい」


 マグカップをシンクに残して私はキッチンを後にした。



   ◆



 ティアが自室に戻り、彼女がドアを閉める音を確認してから僕は細く長い息を吐いた。

 表情には出さなかったが、内心、わずかに取り乱していた。まさか、あの子にこの本を見られるなんて。


 広げていた魔導書の文字を人差し指でなぞる。見られはしたが、読めなかったはずだ。

 ティアは、彼女自身の母国語と、僕が教えたこの国の公用語しか使えない。今は使われていないこんな古い文字、読もうとしたところで知識もないのだから理解できないだろう。


 魔導書のページをぱらりとめくる。


「……あった」


 探していた項目にたどり着いた。記憶封じの魔法についての詳細だ。


 僕は、ティアに記憶封じの術は使っていない。なのに、あの子は弟子入りした前後のことを明瞭めいりょうに覚えていないようだった。

 僕が預かっているこの鍵だって、ティアにとっては大切なもののはず。そのことも本人は覚えていない。……不自然だ。


 魔導書のページを読み進めて、いくつかの可能性を考えた。


 一つ目は、単純に年月の経過で記憶が薄れている可能性。二つ目は、精神的なショックから心を守るために部分的に記憶障害を起こしている可能性。そして三つ目は、


「無意識の内に自分自身へまじないをかけている可能性、か」


 これが一番あり得る。


 十年近くティアと共に過ごしていて、彼女の才能には早い段階で気が付いていた。

 あの子は、一を教えれば十を学ぶ。

 僕がほんの少し知識を与えただけで、まるでスポンジのように吸収し、教えた以上の魔法を習得する。今までの弟子の中で一番優秀な子だ。


 ティアが無意識に自分へと呪いをかけているのなら、色々と合点がてんがいく。


「それにしても……。冷酷無慈悲な深淵の魔法使いと呼ばれた僕が、弟子一人のためにここまで時間をかけるとはね」


 この穏やかで平和な日常を十年前の僕が見たら嘲笑あざわらうだろうか。

 ランタンの灯りをぼんやりと眺めながら、そんなことを考えていた。

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